19世紀末のフランス作家マルセル・シュオッブ(Marcel Schwob)の「モネルの書」の翻訳とその周辺


by sbiaco

第三章 第五節 - 彼女の王国のこと



 その晩、私は本を読んでいた、指先で行や字をたどりながら。しかし頭では別のことを考えていた。私のまわりには黒い、斜めの、冷たい雨が降っていた。ランプの火が暖炉の冷えきった灰を照らし出していた。そして私の口は穢れたものやおぞましいものの味でいっぱいになっていた。というのも、この世は暗闇で、私の光明は消え失せてしまったように思われたから。三たび私は叫んだ。
 ──おれの汚辱への渇をいやすには大量の泥水が必要だ。
 《ああ、破廉恥漢よ、おれはお前のお仲間だ。お前の指をこっちへ向けるがいい。
 《そいつに泥をぶっかけてやる、お前の指はおれを軽蔑していないようだから。
 《なみなみと血を満たした七つの盃が食卓に並んでおれを待っている、金色の王冠の光がそこに燦然と輝くだろう》
 そのとき、忘れもしない声がひびき、忘れようもない女の顔があらわれた。そしてこんな言葉を叫んだ。
 ──白の王国、白の王国、私は白の王国を知ってるわ。
 私は振り向くと、取り乱すことなく彼女に言った。
 ──嘘のつまった小さい頭よ、嘘つきの小さい口よ、もう王様や王国なんてものはないんだよ。僕は赤の王国を渇望しているんだが、それもむだなことさ。というのも、もうその時は過ぎ去ってしまったんだ。現下の王国は黒だが、こんなものは王国とはいえない。だってここでは闇の王様が何人もいて、めいめいが権勢をふるっているんだからね。白の王国や白の王様なんぞ、世界のどこを探したってあるもんかね。
 けれども彼女はふたたび同じ言葉を叫んだ。
 ──白の王国、白の王国、私は白の王国を知ってるわ。
 そこで私は彼女の手をとろうとしたが、彼女は私の手をするりとかわした。
 ──悲しみからではなく、と彼女は言った、激情からでもなく。それでもやっぱり白の王国はあるの。私の言葉についてらっしゃい、耳をすまして。
 そして彼女は黙りこんだ。そこで私は思い出にふけった。
 ──思い出すのではなく、と彼女は言った。私の言葉についてらっしゃい、耳をすまして。
 そして彼女は黙りこんだ。そこで私は自分の考えに耳を傾けた。
 ──考えるのではなく、と彼女は言った。私の言葉についてらっしゃい、耳をすまして。
 そして彼女は黙りこんだ。
 そのとき私は、思い出の悲しみも、激情の欲望も、自分の中でことごとく打ち壊してしまった、そして私の知性はすっかり消え失せた。私は固唾をのんで待ち構えた。
 ──それでいいわ、と彼女は言った、あなたにはその王国が見えてくるでしょう。でも、あなたがそこへ入っていくのかどうか、私にはわからない。というのも、理解しようとする人には私は理解できないし、つかまえようとする人には私はつかまえられないし、思い出をもっている人には私が思い出せないの。じっさい、あなたはここで私をつかまえたつもりでしょうけど、私はもうあなたの手のなかにはいないのよ。さあ、耳をすまして。
 そこで私は待ちながら耳をすました。
 しかし何も聞こえてこなかった。すると彼女は首をふってこう言った。
 ──あなたはまだあなたの激情や思い出に未練をもってるわ、だから打ち壊しが中途半端になってるの。白の王国を手に入れるには、完全に破壊しつくさなければならないの。なにもかも打ち明けておしまいなさい、そうすればあなたは自由になれるわ。私の手にあなたの激情と思い出を委ねなさい、そうすれば私がそれらを打ち壊してあげます。打ち明けるとは、つまり打ち壊すことなの。
 私は叫んだ。
 ──なにもかも君に委ねるよ、そうだ、なにもかも君に委ねよう。君はそれを持ち去るなり、こなごなに粉砕するなり、好きにしてくれていい。僕にはもうそれだけの力がないのだから。
 かつて僕が渇望したのは赤の王国だった。そこには剣の刃を研いでいる血染めの王たちがいた。目に隈のできた女たちが、阿片を積みこんだジャンク船の上で泣いていた。海賊どもが島の砂地に金塊の入った重い箱を埋めていた。娼婦たちは気ままにふるまっていた。夜の白々明けに街道をうろつく盗賊の姿もあった。また多くの娘が飽食や淫楽にふけっていた。木乃伊師の一群は青い夜に屍体に金泥を塗っていた。子供たちははるかな恋愛とひそかな殺人を渇望していた。熱い風呂場の敷石の上には所狭しとばかりに裸体が横たわっていた。そこではすべてのものがひりひりするような薬味をまぶされ、赤い蝋燭の光で照らされていた。けれどもその王国は地の底に飲み込まれ、僕は闇の只中で目がさめたんだ。
 次に僕が獲たのは黒の王国だが、これは王国といえるようなものじゃない。というのも、そこには王を僭称する輩が何人もいて、奴らはその仕事や指揮でこの王国を蒙昧たらしめているんだからね。この国では暗い雨が昼も夜も降っている。僕は長いこと道をさまよったあげく、ようやく夜の闇の只中に、揺れるランプのかぼそい灯りを見つけた。雨は僕の頭を濡らしたけれども、しかし僕はそのランプのもとで生き延びたんだ。ランプを手にしていたのはモネルという名前の少女で、僕たちはただ二人、この黒の王国で遊び暮した。けれどもある晩、その小さいランプは火が消え、モネルは逃げるようにどこかへ行ってしまった。僕は彼女を捜して長いこと闇の中をさまよったけれど、どうしても見つけだせなかった。で、今夜は書物の中に彼女を捜していたんだよ。そんなことをしても無駄なんだがね。僕は黒の王国で道に迷ってしまったんだ。それでも僕はモネルのかぼそい灯りを忘れることができなかった。そんなわけで、口に汚辱の味を噛みしめていたのさ。
 さて、このように語っているうちに、私は自分のなかで「打ち壊し」がなされ、私の「待つこと」にわずかながらも光明がさすのを感じた、そして暗闇の発する音が聞え、彼女の声がこう言った。
 ──すべてを忘れるの、そうしたらすべてはあなたに戻ってくる。モネルを忘れるの、そうしたら彼女はあなたのところに戻ってくるわ。これが新しい言葉よ。生れたばかりの子犬を見習いなさい、目も明かないのに手探りで居場所を求めて冷たい鼻面を埋める子犬を。
 そして話し手の女はこう叫んだ。
 ──白の王国、白の王国、私は白の王国を知ってるわ。
 私は忘却に圧倒され、私の目は純白の光に輝いた。
 話し手の女はまた叫んだ。
 ──白の王国、白の王国、私は白の王国を知ってるわ。
 忘却は私の内部を侵し、私の知性の座は根柢から真白になった。
 話し手の女はなおもこう叫んだ。
 ──白の王国、白の王国、私は白の王国を知ってるわ。ほら、これが王国の鍵よ。赤の王国のなかに黒の王国があるの、黒の王国のなかに白の王国があるの、白の王国のなかに……
 ──モネルだ、と私は叫んだ、モネルだ。白の王国のなかにはモネルがいるんだ。
 そしてついにその王国があらわれた。が、それは真白な壁で閉ざされていた。
 そこで私は訊ねた。
 ──で、王国の鍵はどこにある?
 しかし話し手の女は押し黙ったままだった。
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by sbiaco | 2010-02-04 19:13 | III.モネル