19世紀末のフランス作家マルセル・シュオッブ(Marcel Schwob)の「モネルの書」の翻訳とその周辺


by sbiaco

第三章 第四節 - 彼女が耐え忍んだこと

 私がたどりついたのはひどく狭くて暗い場所だったが、それでもそこにはしおれた菫のさびしい匂いがただよっていた。どうしてもそこを避けて通るわけにはいかなかったのだ、その長いパサージュのような場所を。私が手探りで進んでいると、かつてのように体を丸くして眠っている小さい身体に突き当ったので、その髪をさぐり、かねてよく知ったその顔の上に手をかざすと、その小さい顔は私の指の下で鼻にしわを寄せているようにみえた、そこで私はようやくモネルを見つけ出したことに気がついた、彼女はその暗い場所でひとりで眠っていたのである。
 私は驚いて叫び声をあげたが、彼女が泣きも笑いもしないので、こう言った。
 ──ああ、モネル! 君はこんなところへやってきて眠っていたんだね、僕たちから遠く離れて、畝のくぼみにひそむ飛鼠みたいにしんぼうづよく。
 彼女は目を丸くして唇を少し開けたが、それは、言われたことの意味がよくわからず、恋人にそのわけを聞きただそうとするときに彼女がいつもみせるしぐさそのままだった。
 ──ああ、モネル、と私はふたたび言った、あの空っぽの家で子供たちはみんな泣いてるよ。おもちゃは埃をかぶり、ランプの火は消え、どんな片隅にも広がっていた笑い声はどこかへ行ってしまい、世界はふたたび仕事へと逆戻りしてしまったんだ。でも僕たちは君がどこか別のところにいると信じていたよ。僕たちからは遠いところ、僕たちには行くことのできない場所で君が遊んでいるんだ、ってね。そしていま君はここで眠っている、野生の小動物みたいにうずくまって、君の好きだった白い雪の下で。
 そこで彼女は話し出したが、ふしぎなことにその声はこの暗い場所でも昔とちっとも変っていなかったので、私は涙を抑えることができず、彼女は私の涙を髪の毛で拭ってくれた、それほど無一物だったのだ。
 ──ああ、あなた、と彼女は言った、泣かないで、あなたの目は仕事をするのに必要なものよ、ひとが仕事をして生きていくかぎりは、ね、今はまだその時じゃないの。それにこんな寒くて暗い場所にいてはいけないわ。
 私はしゃくりあげながら彼女に言った。
 ──ああ、モネル、君は暗闇が怖くはないのかね。
 ──いまはもう怖くないわ、と彼女は言った。
 ──ああ、モネル、でも君は寒いのを死神の手みたいに怖がっていたじゃないか。
 ──寒さもいまはもう怖くなくなったわ、と彼女は言った。
 ──でも君はここでたったひとり、たったひとりだね、こんなに小さいのに、君はひとりぼっちになるとよく泣いていたね。
 ──私はもうひとりじゃないの、と彼女は言った、だって待っているんだもの。
 ──ああ、モネル、だれを待っているというのかね、こんな暗い場所で体を丸めて。
 ──さあ、私にもわからないわ、と彼女は言った、でも私は待ってるの。私は、その「待つこと」といっしょにいるのよ。
 そこで私は彼女の小さい顔があくまでも大きな希望のほうへ差し向けられているのに気がついた。
 ──ここにいてはいけないわ、と彼女は繰り返し言った、こんな寒くて暗い場所にいては。さあ、お友達のところへお帰りなさい。
 ──僕の手を引いて、教えてくれないのか、モネル、君が待っているのと同じくらい、僕ががまんづよくなれるように。僕はひとりぼっちなんだよ。
 ──ああ、愛しい人、と彼女は言った、私、もう昔みたいにうまく教えることはできないの、私が、あなたのいう「小さいおばかさん」(虫の意あり)だったころみたいにはね。そういったことは、時間をかけて熱心に考えていればあなたにだって確実に見つかるわ、でも私はそんなことも眠っている間にいっぺんでわかってしまったの。
 ──昔のことも思い出さずに、モネル、君はこんなふうにうずくまっているのかい、それともやっぱり僕たちのことを思い出すこともあるのかね。
 ──あなたを忘れるなんてことが、まあ、どうしてできるでしょう。だってみんなのことは私の「待つこと」のなかに入ってるのよ、で、私はそのそばで眠るというわけ。でも、うまく説明できないわ。ね、思い出して、私は土いじりが大好きで、草花を根こぎにしては植えかえていたものだわ。それから、こうも言ったわね、「私が小鳥だったら、あなたが出かけるとき、私をポケットにしまっとけるのに」って。ああ、愛しいあなた、私はいまここで良い土のなかにいるの、黒い種みたいにね、で、小鳥になるのを待っているのよ。
 ──ああ、モネル、君は眠ったあとで小鳥になって、僕たちからはるか遠くに飛び立ってしまうつもりなんだね。
 ──いいえ、ちがうわ、飛び立つかどうかなんてわからない。私はなんにも知らないの。でも、以前は自分の好きなものにくるまっていたけれど、いまは私の「待つこと」のそばで眠るの。眠りにつく前は、私はあなたのいう「小さいおばかさん」だったわ、だってまるで裸の芋虫同然だったんだもの。いつだったか、私たちはいっしょにまっしろの、絹のようにすべすべした、どこにも孔のあいていない繭を見つけたわね。あなたは面白半分にそれを割いてみたけれど、中は空っぽだった。羽のある虫がそこから出て行ったんだって、あなたは思わなかった? でも、どうやって出て行ったのかはだれにもわかりはしない。虫は長いあいだ眠っていたの。そして眠りにつく前はただの裸の芋虫で、ほかの芋虫と同じく目も見えなかった。ねえ、あなた、こんなふうに考えてみて(これはほんとのことじゃないけど、私にはよくそんなふうに思えるの)、私は自分の小さい繭を自分の好きなもので織ったんだって、土や、おもちゃや、花や、子供たちや、ちょっとした言葉や、あなたの思い出やなんかでね。それはまっしろの絹でできた巣で、私には寒くもなければ暗くもないの。でもほかの人にはたぶんそうは見えないでしょう。この巣がいつまでたっても開かず、いつか見たあの繭みたいに、ずっと閉じたままでいることはよくわかってるわ。でも私はもうこんなところでぐずぐずしているわけにはいかないの。だって私の「待つこと」というのは、あの羽のある虫みたいに出てゆくことだから。どんなふうに出てゆくのか、それだれにもわかりはしない。私がどこへ行きたいのか、それも自分ではわからない。でも、それが私の「待つこと」なの。子供たちのことや、愛するあなたのこと、それに人々がもうこの世で働かなくてもよくなる日、それらが私の「待つこと」なの。私はいつだって昔のままの小さいおばかさんなんだわ。これ以上うまく説明するのはむりよ。
 ──それならなおさら、と私は言った、いますぐこの暗い場所から僕といっしょに出なくちゃ、モネル。だって、君はそんなことを本気で考えているわけじゃないだろう、ただ泣いているのを見られるのがいやなものだから隠れているだけなんだろう。ひとりぼっちでここに眠っている君を、ひとりぼっちでここで待っている君をやっと見つけたからには、君はどうしても僕といっしょに来なくちゃいけないんだ。さあ、いっしょにおいで、この暗くて狭い場所から出て行くんだ。
 ──ここにいてはだめ、愛しいあなた、とモネルはいった、でないと、ひどく苦しむことになるわ。私はここにいるしかないの、私が自分のために織ったこの住みかはすっかり閉ざされていて、どうしてもここから出て行くわけにはいかないのよ。
 そういってモネルは腕を私の首にまわしたが、ふしぎなことにそれはかつての彼女の口づけそのままだったので、私はまたしても泣き出してしまい、彼女は私の涙を髪の毛で拭ってくれた。
 ──もう泣かないで、と彼女は言った、私を「待つこと」で苦しめたくないのなら。それに私、もうそんなに長く待たなくてもいいような気がするの。だからもう嘆くのはやめてちょうだい。あなたが私を助けてこの絹でできた小さい巣に眠らせてくれたことにはほんとに感謝しているわ、この巣をつくっている白い絹糸のうちいちばんいいのはあなたからもらったものよ、私はいまからここで眠るわ、あなたの上に身を横たえて。
 そしてさっきと同じようにまどろみながら、モネルは目に見えないもののそばに体を丸くして私に言った、《それじゃ、おやすみなさい》
 そんなわけで、私はついにモネルを見つけ出した。しかし私があのひどく狭くて暗い場所でモネルと再会したのはほんとうに確かなことなのだろうか?
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by sbiaco | 2010-02-05 19:42 | III.モネル