19世紀末のフランス作家マルセル・シュオッブ(Marcel Schwob)の「モネルの書」の翻訳とその周辺


by sbiaco

第三章 第三節 - 彼女が遁れ去ったこと

 かつてモネルとよく遊んでいた少年がいた。それは昔のこと、モネルがまだ行ってしまわない前のことだ。少年は昼間の時間をずっとモネルのそばですごし、彼女の目がふるえるのを眺めていた。モネルはわけもなく笑い、少年もわけもなく笑った。モネルは眠っているあいだも、口を少し開いて、やさしい言葉を寝言でつぶやいていた。目がさめると、少年がやってくることを知ってほほえんだ。
 じつのところ、彼らの遊びはほんとうの遊びではなかった。というのも、モネルは仕事をしなければならなかったから。彼女はまだほんの子供だったが、埃のたまった古いガラス窓の向こうに一日じゅうじっと座っていた。向かい側の壁はセメントで塗りつぶされていて、日の光は北から寂しく差しこむだけだった。しかしモネルのきゃしゃな指はキャラコの布地の上をすばやく動きまわり、それはまるで白い布でできた街道を指が駆けめぐるかにみえたし、彼女が膝の上に刺している待ち針はまるで宿駅のありかを指し示しているかにみえた。ぐっと握りしめた右手はさながら小さい生身の荷馬車といったところで、右手が進むにつれ、そのあとにかがり縁のわだちができるのだった。縫い針はきゅっきゅっと音をたてて鋼の舌を突き出し、その金の目玉で長い糸を引っぱりながら隠れたり現れたりした。左手がまた見ものであった。それというのも、左手は真新しい布地をまさぐってその皺をやさしく伸ばしてやるので、それはあたかも病人のための清潔なシーツを黙々とベッドの縁に折りこむさまを彷彿させた。
 そんなわけで少年はなにも言わずにモネルを見つめて楽しんでいた。モネルの仕事は遊びにしかみえなかったし、モネルは他愛のないことをたえず少年に語りかけていたから。彼女は日が照ったといっては笑い、雨が降ったといっては笑い、雪が降ったといっては笑った。暖められること、濡れること、凍えることが好きだったのだ。彼女はお金があれば笑っていた。新しい服を着てダンスをしに行くことができるから。お金がなければ、やっぱり笑っていた。一週間分たっぷりとたくわえてある隠元豆を食べることができるから。わずかなお金があれば、それで笑わせてあげられるほかの子供たちのことを思い浮べた。小さい手が空っぽのときは、飢えと貧しさのうちに身をまるめ、うずくまることができるのを心待ちにした。
 彼女のまわりにはいつも子供たちがいて、彼らは目を丸くして彼女を見つめていた。しかしおそらく彼女は、昼間の時間を彼女のそばですごしにやってくるあの少年がいちばん好きだったのだろう。それにもかかわらず、彼女は家を出ていき、少年をひとりぼっちにしてしまった。彼女は自分の出発のことを一度も少年には言わなかった。ただ以前にもまして物思いに耽りがちになり、少年を見つめている時間が長くなった。少年はまた彼女が身のまわりのものに愛着を示さなくなったことにも気がついた。小さい肘掛椅子にも、人からもらった色つきの動物にも、おもちゃにも、古着にも。彼女は指を口にあててほかのことを考えているらしかった。
 彼女が出ていったのは十二月のある夕暮れのことで、そのとき少年はそこにはいなかった。手に火の消えかけた小さいランプをもち、あとを振り返りもせず、彼女は闇の中へ入っていった。少年がやってきたとき、まだ狭い街路のいちばん奥の暗闇に、かぼそいランプの焔がかすかにまたたいているのが見えた。それがすべてだった。以後、少年は二度とモネルの姿を見ることはなかった。

 少年は、どうして彼女がなにも言わずに出ていってしまったのかを長いこと自問した。彼を悲しませることで自分も悲しい気持になることを彼女が望んだとはとても思えなかった。そこで彼は、モネルは彼女を必要としているほかの子供たちのところへ行ったんだとむりやり自分に言いきかせた。火の消えかけたランプをもって、その子らに助けを与えるために、とりわけ夜の闇にあっては火花のように輝く笑顔という助けを与えるために立ち去ったのだ、と。あるいは、彼女は彼ひとりだけをあまりに愛するのはよくないことだと思ったのかもしれない。そんなことではまだ会ったことのないほかの子供たちを同じように愛することはできないから。それとももしかしたら、あの金の目玉をもった縫い針が、小さい生身の荷馬車を終点まで、かがり縁のわだちの終着点まで運んでしまったので、モネルは自分の指が駆けめぐる布地の未開拓の街道をたどるのに飽きてしまったのだろうか。おそらく彼女はいつまでも遊んでいたかったのだ。しかし少年はどうすれば遊びをいつまでも続けることができるのか分らなかった。おそらく彼女はいまごろになって、何年も前にすべての窓をセメントでふさいでしまった、あの塗りつぶされた古い壁の向こうにあるものを見たいという気を起こしたのに違いない。たぶん彼女はまもなく戻ってくる。《さよなら、待っててね──おとなしくしてるのよ》といって少年を待たせるかわりに──もしそういわれたなら、彼は廊下を伝わってくる小さい足音や、鍵穴に鍵を突っ込んでがちゃがちゃいわせる音に聞き耳をたてていただろうが──彼女はなにも言わないことを選んだのだ。そしていきなりやってきて彼の背中に飛び乗り、暖かい子供のような手で彼の目をふさいで──ああ、そうだ!──火のそばに戻ってきた小鳥みたいな声で《くう、くう》と啼いてびっくりさせようという魂胆なのだ。
 少年は彼女とはじめて会った日のことを思い出した。彼女はゆらめく白い炎のように、体をゆすって笑いながら、はずむような調子で彼の前にあらわれた。彼女の目は湖水の目で、水に木々の影が映るように、その目にはさまざまな考えが浮かんでは消えた。そこ、その街路のはずれに彼女はやってきたのだった、わるびれた様子もなく。彼女はゆっくりと響く声で笑ったが、それはクリスタルのコップの消えゆく振動を思わせた。時は冬の夕暮れで、霧が出ていた。あの店は開いていた──あんなふうに。同じ夕暮れ時、同じ周囲の事物、同じ雑踏の音。ただ歳月が違っていた、そして待つということも。彼はあたりに気を配りながら歩をすすめた。あらゆるものが、あの最初のときと同じだった。ただし彼はいまは彼女を待っていた。それだけでも彼女がやってくるのに十分な理由ではないか? 彼は霧に向かって自分のあわれな手を開いて突き出した。

 しかしこのたびはモネルは未知の境から出てこなかった。軽い笑い声が靄にひびく気配などまったくなかった。モネルは遠くに行ってしまい、その夕べのことも、その年のことももはや記憶にとどめていなかった。しかしほんとうにそうだろうか? 彼女は夜の闇にまぎれてだれもいないあの小さい部屋に身をすべりこませ、扉の蔭で胸をどきどきさせながら彼が来るのを窺っているのではないか。少年は足音をしのばせて近づき、彼女をびっくりさせてやろうとした。しかし彼女はもうそこにはいなかった。彼女は戻ってくる──ああ、そうだ──彼女は戻ってくるにきまっている。ほかの子供たちはもうじゅうぶんに彼女から幸せをもらっている。今度は彼の番なのだ。少年は彼女のいたずらっぽい声がささやくのがきこえた。《私、きょうはおとなしくしてるわ》。ささやかな言葉は絶え、遠ざかり、古びた絵具のように色あせ、思い出の輻輳によってすでに艶を失っていた。

 少年はしんぼうづよく座っていた。そこには彼女の体のあとを残した柳の小さい肘掛椅子や、彼女の好きだった腰掛や、割れてしまったのでいっそう懐かしくみえる小さい姿見や、彼女が最後に縫っていたシュミゼットなどがあった。その《モネルっていう名前の》シュミゼットは身をおこし、ややふくらみ、あるじの帰りを待ちわびているかにみえた。
 部屋にあるすべてのこまごましたものが彼女を待っていた。仕事机は抽斗が開いたままになっていた。円いケースに入った小さい巻尺は、先に環のついた緑の舌をだらりと伸ばしていた。広げたハンカチの布が白い小山のようにいくつも盛り上がっていた。針の山がうしろに突っ立ち、まるで後方で待機している槍の列のようにみえた。凝ったつくりの小さい鉄の指抜は置き去りにされた戦闘帽であった。鋏は鋼(はがね)の竜みたいにだらしなくその口を開いていた。そんなわけで、すべてのものが彼女を待ちながら眠りこけていた。あのしなやかですばしこい、小さい生身の荷馬車が動いて、この魔法にかけられた世界の上にその心地よい熱を注ぎかけてまわることはもうないのだ。仕事のためのこの奇妙な小さい城ではすべてがまどろんでいた。が、少年は希望をなくしたわけではない。扉はまもなく開かれるだろう、ゆっくりと。そして笑いが火花のようにあたりに飛び交うだろう。いくつもの白い小山が広がるだろう。みごとな槍がぶつかりあって音を発するだろう。戦闘帽はふたたびばら色の頭にのっかるだろう。鋼の竜は敏活に口をちょきちょきと鳴らし、小さい生身の荷馬車はいたるところを走りまわるだろう、そして色あせた声がまた戻ってきてこう言うだろう、《私、きょうはおとなしくしてるわ》と。──奇蹟は二度は起こらないものなのか?
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by sbiaco | 2010-02-06 13:00 | III.モネル