19世紀末のフランス作家マルセル・シュオッブ(Marcel Schwob)の「モネルの書」の翻訳とその周辺


by sbiaco

第三章 第一節 - 彼女が幻のように姿をあらわしたこと

 暗い雨の降るなか、いったいどういうわけであの奇妙な店にたどりついたのか、自分でもよくわからない。その店は夜の闇のなかから私の前にぼうと出現した。どの町でのことだったか、いつのことだったかも定かでない。ただ、それが雨の降る季節だったこと、それもひどく降る季節だったことを覚えている。
 確かなのは、ちょうど同じ時期、大きくなるのをいやがる子供たちが街路をうろついていたことだ。七歳の少女たちは膝まづいて、これ以上年を取りたくないと哀願していた。思春期はすでに死の宣告のように思われたのだ。鉛色の空の下に薄ぼんやりとした白い行列があらわれ、一群の小さい影法師が子供たちに無言の励ましを送っていた。彼らが心から望んだのは永遠の無知であった。いつまでも遊んでいられればどんなにいいかと思っていた。生活のために働くことを思うと目の前がまっくらになった。彼らにとっては過去がそのすべてだったのだ。
 そんな気の滅入るような日々、ひどく雨の降る季節に、あのランプ売りの少女の発するちっぽけなすすけた明りが私の目にとまったのである。
 私は軒下に近づいて、雨が首筋を伝うのもいとわず頭を傾けた。
 そして彼女にこう言った。
 ──雨の降るこんなさびしい季節に、そこで何を売っているのかね、売り子の嬢ちゃん。
 ──ランプよ、と彼女は答えた、ここにあるのは火のついたランプだけよ。
 ──しかし、こりゃなにごとかね、と私は言った、火のついたランプといっても、大きさは小指くらいしかないし、その光も待ち針の頭みたいにかぼそいじゃないか。
 ──そりゃあ、と彼女は言った、この薄暗い季節のランプですもの。もとはお人形のランプだったのよ。いまの子供は大きくなるのをいやがるでしょ。それで、せいぜい薄暗い雨を照らすだけのランプを子供たちに売ってるの。
 ──じゃあ君はそんなふうにして生計を立てているわけなんだね、と私は言った、黒い服の売り子の嬢ちゃん、君は子供たちが払ってくれるランプの代金で食べていってる、と?
 ──そうよ、と彼女は簡単に答えた、でもほとんどお金にはなりゃしないわ。だって、この小さいランプを子供たちに渡そうとして手をのばすと、たいていいやらしい雨が火を消してしまうんだもの。ランプの火が消えたら、子供たちはもう見向きもしやしない。火が消えたら一巻の終り。いまあるのはこれだけよ。ほかのは捜したって見つかりっこないわ。でも、ランプが売れたら売れたで、今度は雨の降る暗がりでじっとしてなきゃならないんだわ。
 ──そうすると、このランプは、と私は語をついだ、このうっとうしい季節を照らすたったひとつの明りだというわけだね。それにしても、こんなに小さいランプでこのじめじめした闇をどうやって照らすというのかね。
 ──雨が降るとたいてい火が消えてしまうから、と彼女は言った、野中や町中ではランプはもう何の役にも立たないわ。家に閉じこもらなくちゃならないのよ。子供たちは私の小さいランプに手で覆いをして家に閉じこもるの。めいめいがランプと鏡をもって家に閉じこもるの。そうすれば小さいランプでもじゅうぶん鏡に顔を映せるでしょ。
 私はしばらくのあいだ、ちらちらと燃えるみすぼらしい焔を眺めていた。
 ──それにしても、と私は言った、売り子の嬢ちゃん、これは寂しい光だね。鏡に映る影もきっと寂しい影にちがいない。
 ──ちっとも寂しくなんかないわ、と黒い服を着た少女は首をふって言った、その影がいつまでも大きくならないかぎりは、ね。でも私の売る小さいランプはいつまでも燃えているわけじゃないわ。その焔はだんだん小さくなっていくの、まるで暗い雨になぶられるみたいに。で、私の小さいランプの火が消えたら、子供たちはもう鏡の光が見えなくなって、そりゃもうひどく悲しむわ。だって、そうなったらもういつ何時自分が大きくなるかわからないから、そのことが彼らにはこわいのよ。子供たちが呻きながら夜の闇へと遁げていくのはそういうわけなの。でも私は一人の子供にはランプを一個しか売ってはいけないことになってるの。たとえ彼らがふたつめのランプを買おうとしても、それは彼らの手のなかで火が消えてしまうのよ。
 私は小さい売り子のほうに少し身をかがめて、そのランプのひとつを手に取ろうとした。
 ──あ、だめよ、それに触っちゃ、と彼女は言った、あなたはもう私のランプが照らすような年をとっくに越えてるわ。これはお人形か子供のためにこしらえたランプなんだもの。あなたはおうちに大人用のランプをおもちじゃないの?
 ──やれやれ、と私はいった、この薄暗い雨の降るじめじめした季節に、見捨てられた陰気な空の下で、燃えているランプといえば君のこの子供用のものしかないんだよ。それに、僕だってもう一度鏡の光を見てみたかったのでね。
 ──それじゃいらっしゃい、と彼女は言った、いっしょに見てみましょう。
 いまにも壊れそうな狭い階段をのぼって、彼女は私を簡素な木造の部屋へ案内した。その壁にはきらりと光る鏡が懸けてあった。
 ──静かにね、と彼女は言った、さあ、あなたに見せてあげるわ。私のこのランプはほかのよりも光がつよいの。だから暗い雨のなかにいてもそんなにみじめってわけじゃないのよ。
 そう言いながら彼女は小さいランプを鏡へかざした。
 すると鏡に青白い反射ができ、そこに私はかねて見知った物語が走馬灯のようにあらわれるのを見た。といっても、小さいランプの映し出す影は嘘、嘘、嘘ばかりだった。まず鳥の羽毛がコーディリア姫の唇頭にそよぐのが見えた。姫はかすかな笑みを浮べ、息を吹き返した。そして老いた父とともに大きな鳥籠のなかで鳥のように暮し、彼の白い髭にくちづけをした。その次に見えたのはオフェリア姫で、ガラスのような池の水上でたわむれながら、濡れた腕に菫を飾ってハムレットの首を抱いていた。次に、目をさましたデズデモナが柳の木の下をさまよい歩くのが見えた。そうかと思うと今度はマレーヌ姫の姿があらわれ、老いた王様の目をふさいだ両手をはなしてあざやかに笑い、舞い踊った。またメリザンド姫は自由の身になって泉の水に自分の影を映していた。
 そこで私は思わず叫んだ。嘘つきの、小さいランプよ……
 ──しっ、静かに、とランプ売りの少女は言って、私の口を手でふさいだ。何もしゃべらなくていいのよ。雨はもうじゅうぶんに暗くはなくって?

 そこで私は頭をたれ、雨の降る夜のほうへ、未知の町へと立ち去った。
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by sbiaco | 2010-02-08 19:34 | III.モネル