19世紀末のフランス作家マルセル・シュオッブ(Marcel Schwob)の「モネルの書」の翻訳とその周辺


by sbiaco

第二章 第十一話 - われとわが身を投げうつ娘

 リリーとナンは農園の下女であった。夏は二人で実った麦のあいだの道ともいえないような道を通って井戸の水くみをした。冬の、窓につららが垂れ下がるような寒い夜は、リリーはナンのところへ行っていっしょに寝た。そして毛布の下に身を寄せあって、風がうなるのを聞いていた。二人はいつも白い小銭をポケットに入れていて、桃色のリボンのついた薄い胸衣をつけていた。どちらもブロンドの娘で、ちょっとしたことにもよく笑った。二人は毎晩、暖炉の隅に汲んだばかりのきれいな水をはった桶を置くのだった。そうしておけば(と人々は語るのだが)、朝ベッドから飛び起きたとき、桶のなかに銀貨が入っていて、それを指のあいだで打ち合わせて鳴らすことができるのだ。それというのも、妖精ピクシーが桶で水浴びをしたあと、そこに銀貨を投げこんでいくというのである。しかしナンもリリーもほかのだれも、じっさいにピクシーを見たものはいなかった。ただ昔話や譚歌を聞いて、ピクシーというのがくるくると巻いた尻尾をもつ、なにか小さくて黒い、いたずら好きの生き物であることを知っているばかりである。
 ある晩のこと、ナンは水を汲んでおくのを忘れた。おりしも十二月のことで、井戸の錆びた鎖には氷が張っていた。彼女がリリーの肩に手をおいて眠っていると、いきなり腕とふくらはぎをつねられ、うなじの毛を容赦なく引っ張られた。彼女は目をさまして泣き出した。《明日にはきっと痣になってるにちがいないわ》 そこで彼女はリリーに言った、《きつく、きつく抱きしめて。私、きれいな水を汲んだ桶を置くのを忘れたの。でも、デヴォンシャーじゅうのピクシーがやってきたって、このベッドから出るもんですか》 それを聞いて、気立てのよい少女のリリーはナンを抱きしめ、起き上がって水を汲んでくると、桶を暖炉の隅に置いた。彼女がベッドに戻ったとき、ナンはぐっすりと眠っていた。

 小さいリリーは眠っているあいだに夢をみた。緑の葉っぱの服を着、頭に金の冠をいただいた女王のような人が彼女のベッドに近づいてきて、彼女の体に触れてからこう語りだしたのである。その人は言った、《私は女王のマンドジアーヌ。リリー、私を探しにいらっしゃい》 それからまたこうも言った、《私はエメラルドの草原に座っていて、私のところへ来る道には三つの色がついています、黄と青と緑と》 そして最後にこう言った、《私は女王のマンドジアーヌ。リリー、私を探しにいらっしゃい》
 それからリリーは夜の黒い枕に顔をうずめたが、もうなにも見えなかった。さて朝になって一番鶏が鳴きだすころ、ナンはどうしても起き上がることができないので、悲痛なうめき声をあげた。というのも、彼女の脚は両方とも感覚がなくなっていて、動かそうにも動かせなかったのである。昼に何人かの医者が往診にやってきたが、手をつくした診察の結果、彼女はおそらくこのまま寝たきりで、もう歩くことはできないだろうとの診断が下された。哀れなナンは泣きじゃくった、こんな体ではもうお婿さんを見つけることもできやしないと思って。
 リリーはナンをひどく不憫に思った。彼女は冬林檎の皮をむいたり、びわの実を並べたり、攪乳器でバターをかきまぜたり、赤くなった手で乳清を拭き取ったりしながら、ナンの病気はきっと治すことができるといつもそう考えていた。彼女は夢のことはすっかり忘れていたが、ひどく雪の降るある晩、みんなが焼肉をさかなに燗をつけたビールを飲んでいると、瓦版売りの老人がやってきて扉を叩いた。農園の娘たちは一人残らずまわりに駆け寄ってきた。というのも、老人は手袋や、恋の小唄や、リボンや、オランダの生地や、靴下留めや、待ち針や、金ぴかの被り物などをもっていたから。
 ──さてここに取り出だしましたるは、と老人は言った、高利貸しの女房の哀れなお話にございます。その女房と申しまするは十二ヵ月ものあいだ金貨のつまった袋を二十個も孕んでおった女で、その間、まむしの頭を煮込んで食いたいとか、ひきがえるを炭火焼にして食いたいとか、世にも奇妙な願いに悩まされておった次第。
 《さてこちらは四月の十四日に、四十尋の深さの海から浜に打ち上げられました大魚のお話にございます。こやつ、婚約指環を大枡五つ分ほども吐き出しましたが、指環は海に浸かっていたせいでどれも緑色に変色しておったとか。
 《さてこちらは三人の性悪な王女がたの小唄にございます。うちの一人なんどは王様のお髭に盃いっぱいの血をそそぎかけたとか申します。
 《じつを申しますと、マンドジアーヌ女王の冒険のお話もご用意いたしておったのですが、道を歩いておりましたところ、いまいましい突風のやつめが最後の一枚をあっしの手からもぎとっていきおった次第でして》
 それを聞いてリリーはすぐに夢のことを思い出し、これはきっとマンドジアーヌ女王が彼女に来いと言ってるんだと料簡した。
 その晩、リリーはナンにやさしくキスしてから、新しい靴をはいて、たったひとりで街道へ出て行った。そのときはもうあの瓦版売りの老人はとっくに立ち去ったあとで、彼のもっていた最後の一枚とやらもどこか遠くへ飛ばされてしまっていたので、リリーはそれを見つけることができなかった。そんなわけで彼女はマンドジアーヌ女王が何者であるのかも、どこへ行ったら会えるのかも皆目見当がつかなかった。
 彼女は道々出会う人々に訊ねてみたけれども、だれ一人として彼女の問いに答えてはくれなかった。年寄りの農夫たちは小手をかざしながら、遠ざかってゆく彼女の姿をいつまでも眺めていた。大きな腹をした若い女たちは戸口に立って無駄話に花を咲かせていた。子供たちもやってきたが、彼らはただ話がしたいだけなので、彼女は彼らに木苺の枝を垣根ごしに押し下げてやった。あるものは《女王なんてもういねえよ》と言った。《このあたりにはいないなあ、昔の話じゃないのかね》と言うものもいた。なかには《そいつはかわいい男の子の名前かい?》と言うものもいた。たちのよくない連中などはリリーの袖を引いて、昼間は閉まっているけれども夜は開いて灯りが点っている、町によくあるあの手の家の前へ連れてゆき、マンドジアーヌ女王ならそこにいるよ、赤い上っ張りを着て、裸の女どもをはべらせているよ、と断言してはばからないのであった。
 しかしリリーは、ほんもののマンドジアーヌ女王は赤なんかではなく緑の服を着ていることをちゃんと知っていたし、三つの色のついた道を通って行かなければならないことも心得ていた。だから与太者の嘘っぱちなどはたちどころに見抜いてしまった。そうこうしながらも、彼女は長いあいだひた歩きに歩いた。しかし、足元に白っぽい埃を巻き上げ、わだちにたまる厚い泥に足を踏み入れ、ときには荷車引きの車といっしょに、また空がすばらしい紅の陰影に染まる夕暮れどきなど、麦束を山のように積み、ぴかぴか光る鎌を揺らしている馬車に後から追われたりしているうちに、彼女の人生の夏の時期は確実に過ぎ去ってしまった。それでもマンドジアーヌ女王について教えてくれる人は一人としていなかった。
 こんなややこしい名前を忘れてしまっては大変なので、彼女は靴下留めに結び目を三つこしらえていた。ある日の正午、昇る太陽に向かってはるかな道を歩きながら、彼女はいつしか青い運河沿いの、うねうねと曲がりくねった黄色い道に出ていた。運河もまた道に沿って曲がっていて、両者のあいだに緑の土手がやはり湾曲しながらつづいていた。灌木の藪がそこここに生い茂っていた。目路はるかに見えるのは沼沢や緑色の影ばかりである。斑(ぶち)のようにみえる沼のあいだに円錐形の小屋が建っていて、細長い道が、空にかかる血の色をした雲のなかに吸い込まれるように消えていた。
 その道で彼女は一人の少年と会った。少年は奇妙に切れ長の目をしていて、重そうな小船を運河沿いに曳いていた。彼女は少年に、女王を見たことがあるか訊ねようとしたが、名前を忘れてしまっていることに気づいてふるえあがった。彼女は泣き叫んで靴下留めをさぐってみたが無駄であった。しかも彼女の歩いているのが、黄色い埃の舞う、青い運河沿いの、緑の土手のある道、つまり三つの色のそろった道であることに気がついてみれば、いっそう激しく泣かずにはいられなかった。彼女はいま一度自分の結んだ結び目に触ってみては泣きじゃくった。少年はといえば、彼女の悲しみのことはまるで知らなかったが、怪我でもして痛がっているんだろうと思い、黄色い道の端に生えているみすぼらしい草を拾いあつめて彼女に手渡した。
 ──マンドジアーヌをつければ治るよ、と彼は言った。
f0210199_0325280.jpg

 そういうわけで、リリーはついに緑の葉っぱの服を着た女王を見つけた。彼女はその草を大切に握りしめ、すぐさま長い道を折り返した。帰りの旅は往きのそれよりもさらに遅々たるものだった。リリーはくたびれ果てていたのである。彼女はもう何年も前から歩きどおしに歩いているような気がした。けれども彼女の心は浮き立っていた、あの哀れなナンを治してやれる見込みが立ったから。
 彼女は海を越えたが、波がおそろしいほどに荒れ狂った。それでも彼女は草をスカートと上衣のあいだにしっかり挟んで、とうとうデヴォンにたどりついた。まず最初に、彼女はそこに生えている樹に見覚えがなかった。それから家畜がすっかり変ってしまっているようにみえた。ふと見ると、農園の大部屋に年老いた女がいて、子供たちに取り囲まれている。そこで彼女は駆けていってナンのことを訊ねてみた。老女は驚いて、リリーをじっと見つめてからこう言った。
 ──だってナンはもうずっと前にここを出ていったよ、結婚してね。
 ──治ったの? とリリーは嬉しそうに言った。
 ──治ったかって、そりゃもちろんさ、と老女は言った。──ところであんた、もしかしてリリーじゃないのかい。
 ──そうよ、とリリーは言った、私いくつに見えるかしら。
 ──五十歳くらいじゃないかな、ねえ、おばあさん、と子供たちが大声に言った。まあ、おばあさんほど年寄りじゃないけどね。
 リリーが力なくほほえんだそのとき、マンドジアーヌの濃厚な匂いが立ち昇ってきて彼女の気を失わせ、彼女はそのまま陽光のもとに息が絶えた。そんなわけで、リリーはマンドジアーヌ女王を探しにゆき、女王のために命をさらわれたのであった。
[PR]
by sbiaco | 2010-02-09 21:27 | II.モネルの妹たち