19世紀末のフランス作家マルセル・シュオッブ(Marcel Schwob)の「モネルの書」の翻訳とその周辺


by sbiaco

第二章 第十話 - 冷ややかな娘

 モルガーヌ姫はだれをも愛さなかった。彼女は冷たいまっしろな心の持主で、花々や鏡に囲まれて暮らしていた。髪には赤い薔薇をさし、その姿を鏡に映しては眺めていた。他人というものは、それが若い娘であろうが青年であろうが、彼女の眼中になかったのである、というのも、彼女は彼らのまなざしのなかに自己の姿しか認めなかったから。残虐さや官能なども彼女のあずかり知らぬことであった。その黒髪はゆるやかな波のように顔のまわりに垂れ下っていた。彼女の願いはただ自己を愛することだけだった、しかし鏡に映る影には沈静で手の届かぬ冷ややかさがあったし、沼に映る影はといえばぼんやりと色あせていて、また川に映る影はゆらめきながら遠ざかっていった。
 モルガーヌ姫はいろんな鏡の話を本で読んで知っていた、たとえば『白雪姫』の、人語を解し姫に死を告げ知らせる鏡の物語や、もうひとりのイルセが鏡を抜け出てイルセを殺しにやってくる「イルセの鏡」の話や、夜のしらじら明けに市民の女を縊死させる、ミレトスの町の夜の鏡の綺譚など。彼女はまた、許婚(いいなづけ)に剣をふりかざす青年の姿を描いたふしぎな絵を見たことがある、それは彼らが夕べの霧の中で自分たちの影に出くわしたからで、けだし分身は死の前触れなのだ。そういっても彼女は自分の影を怖いとは思わなかった、なぜなら鏡の中で姫と対面する姫自身は、いつもまっしろでヴェールをかぶっていて、残虐でもなければ官能をそそることもなかったから。磨きあげられた緑金の薄板にしろ、重々しい水銀の鏡面にしろ、それらはモルガーヌにモルガーヌを映し出してはくれなかった。
 彼女の国の司祭たちは土占い師であり火の崇拝者であった。彼らは四角い箱に砂を敷きつめ、そこに何本も線を引いた。そして自前の羊皮紙の護符を使って計算をたて、煙とまぜあわせた水で黒い鏡をこしらえた。夜になってからモルガーヌは司祭たちのところへおもむき、供え物の菓子を三つ火のなかへ投げ入れた。《ごらんなさい》と土占い師は言って、黒い水鏡を指し示した。モルガーヌが覘いてみると、はじめは表面に白い靄が漂っていたが、やがて色のついた輪が湧き出てきて、そこにひとつの映像が軽やかに浮き上がって流れ出た。それは縦長の窓のついた立方体の白い家の像で、三つめの窓の下に大きな青銅の環が吊り下がっていた。そしてその家のまわりには灰色の砂が一面に広がっていた。《これがその場所です、と土占い師は言った、ここに本物の鏡があるのです。もっともわたくしどもの知識では、その位置をはっきり示すことも、説明することもできませんがね》
 モルガーヌは身をかがめて、供え物の菓子をさらに三つ火のなかへ投げ入れた。しかし像は揺らいで暗くなっただけだった。白い家は底のほうへ消えてゆき、モルガーヌはむなしく黒い鏡を眺めていた。
 その翌日、モルガーヌは旅に出たいという強い望みをいだいた。というのも、彼女はあの砂の陰気な色をどこかで見たことがあるような気がしたので、とりあえず西へ向かって出発することにした。彼女の父が選りぬきの隊商と、銀の鈴つきの騾馬とを与えてくれたので、彼女は内部が豪奢な鏡張りになっている輿におさまって旅をつづけた。
 そんなふうにして彼女はペルシャを通り過ぎ、人里離れたところにある旅籠を一軒づつ綿密に調べてみた。井戸のそばに建てられた、旅人の群が出入りする旅籠はもちろん、夜ともなれば女たちが歌を歌い、金貨や銀貨を打ち鳴らすいかがわしい娼家までも。
 ペルシャ王国の最果ての地で、彼女は白い、立方体の、縦長の窓のある家をたくさん見た。けれどもそこには青銅の環は吊り下がっていなかった。人々の話では、くだんの環は西の方、シリアのキリスト教国で見つかるだろうとのことだった。
 甘草(かんぞう)の林が生い茂った湿気の多い平野からなる地方があり、その周りを囲むように河が流れていて、モルガーヌはその河の平らな土手を通り過ぎた。末端の上にそそり立つ狭い岩盤を丸彫りにして作った家々があり、また隊商の通り道の、日のあたるところに座った女たちは、馬の尻尾の赤毛を編んで作った鉢巻のようなものを額に巻いていた。その地で暮らす人々はみな馬の群を引き連れ、銀の穂先のついた槍をかついでいた。
 さらに遠くへ行くと、追剥の棲む荒涼とした山があって、彼らは自分たちの神々を祀るために麦から作った火酒を飲んだ。また彼らは奇妙なかたちをした緑色の石を崇拝していて、火を放った円形の藪のなかでたがいに相手をとりかえては淫楽にふけるのである。モルガーヌは彼らを見て怖気をふるった。
 さらに遠くへ行くと、黒衣の人々の棲む地下の町があって、彼らは眠っているあいだだけ神々の訪いを受けるのである。彼らは大麻の繊維を食い、顔にはチョークの粉を塗りたくっていた。そして大麻に酔った連中が、、夜陰に乗じて眠っている人々の喉を割り、彼らを夜の神々のもとへ送り届けてやるという寸法である。モルガーヌは彼らを見て怖気をふるった。
 さらに遠くへ行くと、灰色の沙漠が一面に拡がっていて、そこでは植物も鉱物も砂と見まがうばかりである。そしてその沙漠へ足を踏み入れたところで、モルガーヌはくだんの環のついた旅籠を発見した。
 姫は輿を止めさせ、騾馬曳たちは騾馬の荷物をおろした。それは古びた館で、セメントを使わずに建てられていて、石の塊は陽に焼けて白くなっていた。しかし宿の主人は鏡のことは彼女に何も話すことができなかった、というのも、彼はそんなことはまったく知らなかったのである。
 その夜、みんなが薄い煎餅を食べたあと、宿の主人はモルガーヌに、この環のついた館はその昔ある残酷な女王の居館であったことを語った。その女王は残酷さのゆえに罰せられた。それというのも、かつてある宗教者がいて、だだっ広い沙漠のただなかに一人で住み、旅人たちを河の水で沐浴させて福音を伝えていたのだが、女王はその男の首をはねるように命じたのである。その後ほどなくしてこの女王は世を去り、一族もともに絶え果てた。そしてその居館のうち、女王の部屋だけが壁でふさがれた。宿の主人はモルガーヌに石をつめてふさいだ扉を見せてくれた。
 そのあとで宿の客たちは庇のついた四角い部屋々々に分かれて寝た。しかし真夜中になると、モルガーヌは騾馬曳たちを起こし、塗りつぶされた扉を破るよう命じた。そして手に鉄の松明をもち、砂埃の舞う穴から中へ入っていった。
 やがて悲鳴が聞こえたので、モルガーヌのお供のものどもは姫を追って中へ入った。彼女はふさがれた部屋のまんなかで、銅を打って作った盆を前にして膝まづいていたが、その盆には血がなみなみと満たされていて、姫はそれを一心に見つめていた。宿の主人は双手をあげて天をあおいだ。というのも、皿にたまった血は、この閉ざされた部屋のなかで、残酷な女王が斬り落とされた首をそこに置かせたときからずっと、乾きもせずに残っていたからである。
 モルガーヌ姫がその血の鏡の中に何を見たかはだれも知らない。しかし旅の帰途、彼女の騾馬曳たちは、輿のなかへ引きこまれたあと、毎晩一人づつ殺されていった、いずれも喉を割られ、土色になった顔を虚空へ向けた姿で。人々はいつしかこの姫のことを「赤のモルガーヌ」と呼ぶようになったが、まことに彼女こそは悪名高い娼婦にして恐るべき殺戮者であった。
[PR]
by sbiaco | 2010-02-10 18:54 | II.モネルの妹たち