19世紀末のフランス作家マルセル・シュオッブ(Marcel Schwob)の「モネルの書」の翻訳とその周辺


by sbiaco

第二章 第九話 - 願いがかなった娘

 シースは小さいベッドのなかで脚を縮め、壁に聞き耳をたてた。窓がほんのりと白んでいた。壁は震えていて、まるで息を殺して眠っているかのようだ。小さな白いペチコートが椅子の上にふくらみ、その下からふたつの長靴下が、柔らかくてぺしゃんこの脚みたいに黒く垂れ下がっている。壁に掛かったドレスはあやしいまでにくっきりと輪郭を示し、そのままするすると天井まで登っていきそうにみえる。嵌め木の床板がぎしぎしと夜の闇に低い音を響かせている。広口の水差しは、さながら金盥にうずくまった白い蟇蛙といったところで、そいつがゆっくりと影を吐呑している。
 ──私、あまりにもみじめだわ、とシースは言った。そしてシーツにくるまって泣き出した。壁の吐息が切迫してくる。しかし二本の黒い脚はあいかわらずだらりと垂れたままで、ドレスはいっこうに壁を這いのぼる様子もなく、うずくまった白い蟇蛙はその濡れた口をぽかんと開けたままだった。

 シースはなおも言った。
 ──みんなが私に腹を立てているし、この家では姉さんたちばかりちやほやされているし、晩ごはんの途中で脱け出して寝てしまってもだれもなんにも言わないんだから、私、もう家を出てってやるわ、そうよ、遠い遠いところへ行ってやるわ。私はシンデレラ姫といっしょ、それがほんとの私なのよ。いずれ姉さんたちに思い知らしてやるわ、ええ。王子さまをつかまえてみせるわよ、きっと。姉さんたちには恋人なんかひとりだって見つかるもんですか、ぜーったいに、ひとりもね。で、私はきれいな馬車に乗って、王子さまといっしょに帰ってくるというわけよ、それが私のやることなんだわ。もしそのとき姉さんたちがやさしくしてくれたら許してあげるつもりよ。かわいそうなシンデレラ姫、でもあんたのほうが姉さんたちよりずっとすてきなんだってことがいまに分るわ、ええ。
 長靴下を手早くはき、ペチコートの紐を結んでいるうちに、彼女の小さい胸は高鳴ってきた。空になった椅子が部屋のまんなかにほったらかしのまま残された。
 シースは忍び足で台所へ下りていくと、暖炉の前に膝まづき、手を灰のなかに突っこんで、またしくしくと泣き出した。
 糸車の規則的な音がきこえたので彼女は振り向いた。毛の生えた暖かいものが彼女の脚にそっと触れた。
 ──魔法使いのお婆さんはいないけれど、とシースは言った、でも猫がいるわ。ほら。
 彼女が指を差し出すと、猫はその指をゆっくり舐めたが、それはまるで小さくて熱いやすりでこすられているような感触がした。
 ──おいで、とシースは言った。
 彼女が庭の扉を押すと、涼しい風がどっと一吹きした。濃い緑色の影が芝生の上にくっきりと浮び上った。その大きな楓の木は枝をふるわせていて、星がその枝のあいだにいくつも吊り下がっているようにみえる。野菜畑が木々の向こうに明るくみえ、メロンを覆う鐘形のガラスがいくつも光っていた。
 シースは丈の高い草が心地よく肌に触れてくる藪をかすめるように通り過ぎた。そしてちっぽけな光を飛ばしているガラスの鐘のあいだを駆け抜けた。
 ──魔法使いのお婆さんはいないの。猫、お前、馬車を作れるかい? と彼女は言った。
 小さいけものは灰色の雲がたなびく空へ向かってあくびをした。
 ──王子さまはまだみたいね、とシースは言った。いつ来るのかしら?
 彼女は紫色のあざみのそばに腰をおろして、野菜畑の垣根を眺めた。それから履物を片方だけ脱いで、すぐりの木立の向こうに力いっぱい投げつけた。履物は本街道へ落ちていった。
 ──さ、猫、耳をすまして。もし王子さまが私の履物をもってこなかったら、お前に長靴を買ってあげるわ、そしていっしょに王子さまを探しに行きましょう。王子さまはとてもりっぱな若者なの。緑の服を着ていて、ダイヤモンドもいっぱいつけてるわ。王子さまは私のことが大好きなんだけど、まだ私を見たことがないの。お前、やきもちを焼いてはいけないよ。二人と一匹でいっしょに暮らすんだからね。私はシンデレラよりも幸せになるわ、だって私のほうがずっとみじめだったんだもの。シンデレラは毎晩舞踏会に行ってたし、とっても豪華なドレスをもらっていたわ。なのに私ときたら、お前しかいないんだもの、私のかわいい小っちゃな猫さん。
 そして濡れたモロッコ皮のような猫の鼻面に頬ずりした。猫はかぼそい声でにゃおと鳴いて、耳のうしろへ足をまわした。それから体を舐め、ごろごろと喉を鳴らした。
 シースは緑色のすぐりの実を拾いあつめた。
 ──ひとつは私に、ひとつは王子さまに、ひとつはお前に。ひとつは王子さまに、ひとつはお前に、ひとつは私に。ひとつはお前に、ひとつは私に、ひとつは王子さまに。ほら、私たちこんなふうに暮していくのよ。なにもかも二人と一匹で分けあうの、そしていじわるな姉さんはもう私たちのところにはいないのよ。

 空に灰色の雲がいくつも積み重なった。ほの白い帯が東の方に昇ってくる。木々はどんよりとした薄暗がりのなかでじっとしている。すると突如として凍てつくような風が吹いて、シースのペチコートの裾をなびかせた。まわりのものがいっせいにおののいた。紫色のあざみが二、三度大きく傾いた。猫は背を丸くして伸びあがり、体じゅうの毛を逆立てた。
 シースは遠くのほうの路上に車輪のきしむ音を聞いた。小さい家の屋根にそって、風に揺れる木々の梢のほうへ、ぼんやりした灯火が走ってくるのがみえた。
 それから車の音が近づいてきた。馬のいななきと、人々のがやがや言う低い声がする。
 ──さ、猫、耳をすまして、とシースは言った。ようく耳をすますのよ。あすこへ大きな馬車がやってきたわ。あれが私の王子さまの馬車なの。急いで、急いで。じき王子さまが私を呼ぶわ。
 またひとつ、金褐色の皮製の履物がすぐりの木立の向こうへ飛んでいって、ガラスの鐘が並んでいるちょうどまんなかに落ちた。
 シースは柳の柵のほうへ駆けていってそれを開けた。
 縦長の陰気な馬車が一台、重々しく進んできた。御者のかぶった二角帽が赤い光に照らされている。黒ずくめの服を着た男が二人、馬の両側を歩いていた。馬車の後部は低くて細長く、まるで柩のようにみえた。饐えたような匂いが夜明けの風にのって漂ってくる。
 しかしそんなことはいずれもシースの知ったことではなかった。彼女に分るのはただひとつ、目を見張るような馬車がそこにあるということだけである。王子さまの御者は金のかぶりものをつけている。重そうな長方形の箱にはきらびやかな婚礼の装身具がぎっしり詰まっているんだろう。箱を包みこむ、あの不気味で崇高な匂いは、きっと王権のしるしなのだ。
 そこでシースは腕を突き出してこう叫んだ。
 ──王子さま、私を連れてって、私を連れてって!
[PR]
by sbiaco | 2010-02-11 23:55 | II.モネルの妹たち