19世紀末のフランス作家マルセル・シュオッブ(Marcel Schwob)の「モネルの書」の翻訳とその周辺


by sbiaco

第二章 第七話 - 宿業の娘

 イルセは背丈がじゅうぶんに伸びると、毎朝鏡の前へ行って《おはよう、イルセちゃん》と言うのが日課になった。そして冷たい鏡面にキッスしてから唇をすぼめてみせた。映像(かげ)はたったひとりでやってくるようにみえた。じっさいそれはずいぶん遠いところにいた。このもうひとりのイルセ、鏡の奥から立ち上がってくる青白い顔をした少女は、口を凍結させられた囚われの女なのだ。イルセは彼女をかわいそうに思った、なぜなら悲しげでいじわるそうにみえたから。彼女の朝のほほえみは、夜の恐怖がまだ揺曳しているほの白い夜明けの空を思わせた。
 それでもイルセは彼女を愛していて、こんなふうに話しかけた。《だれもあなたにおはようといってくれないのね、かわいそうなイルセ。さあ、私にキッスして。今日はいっしょに散歩に行くのよ、イルセ。もうじき私の恋人が私たちを迎えにくるわ。あなたもいらっしゃいな》 そう言ってイルセが鏡に背を向けると、もうひとりのイルセは憂わしげな顔をしながらまばゆい影のほうへと去っていくのであった。
 イルセは自分の人形やドレスを彼女に見せた。《私と遊んでね。いっしょに服を着ましょうね》 もうひとりのイルセも負けじと人形やらドレスやらをイルセのほうへ差し出したが、それらはいずれもイルセのものより白っぽく、また色あせてみえた。彼女は口がきけず、イルセがしゃべるのと同時に唇を動かすだけだった。
 イルセはときたま子供みたいに、無言の女にかんしゃくを起こすことがあったが、そんなときは彼女のほうでもまたイルセにかんしゃくを起こした。《いじわるな、いじわるなイルセ!》と彼女は叫んだ、《返事してよ、キッスしてよ!》 そう言って鏡を手でたたくのだった。どこにも胴体のないふしぎな手がイルセの手の前にあらわれた。イルセはどうしてももうひとりのイルセのところへ行くことができなかった。
 夜のあいだに二人は仲直りした。イルセは彼女にまた会えるのが嬉しくて、ベッドから飛び起きると、《おはよう、イルセちゃん》とつぶやきながら彼女にキッスをしにいった。
 イルセにほんとうの婚約者ができたとき、彼女は彼を鏡の前へ連れてきて、もうひとりのイルセにこう言った。《ごらん、私の恋人よ、でもあんまり見つめちゃだめ。彼は私のものよ、あなただから見せてあげるの。私たちが結婚したら、毎朝私といっしょに、彼にもあなたにキッスさせてあげるわ》 イルセの婚約者は笑いだした。鏡のなかのイルセもほほえんだ。《この人すてきでしょ、愛してるの》とイルセは言った。《そうね、そうね》ともうひとりのイルセが言った。《あんまり見つめると、もうあなたにはキッスしてあげないわよ》とイルセは言った。《私、あなたとおんなじくらいやきもち焼きなの、知ってて。それじゃまたね、かわいいイルセちゃん》

 イルセが恋を知るにつれて、鏡のなかのイルセはいよいよ孤独になっていった。朝になってももう友達がキッスしにやってこなくなったからである。イルセは彼女のことなどもうすっかり忘れてしまっていた。明け方、イルセの目覚めを訪なうのはむしろ婚約者のまぼろしであった。昼のあいだ、イルセはもはや鏡の女など眼中になかったが、いっぽう彼女の婚約者は鏡の女にじっと目を注ぐのだった。《ああ、とイルセは言った、あなたはもう私のことなんか頭にないのね、いじわるな人。あなたはもうひとりの女ばかり見てるんだもの。あれは囚われの女よ、けっしてやってきやしないわ。あの女はあなたのことで嫉妬してるのよ、でも私のほうがもっと嫉妬してるわ。お願いだからもうあの女を見ないで、ねえあなた、私を見て。いじわるな鏡のイルセ、私の婚約者に返事なんかしたら承知しないわよ。どのみちあんたは出てこれやしないわ、これからもぜったいにね。私から恋人を奪わないで、いじわるなイルセ。私たちが結婚したら、私といっしょに、彼にもあんたにキッスさせてあげるから。さあ、笑って、イルセ。あんたはこれからも私たちといっしょよ》

 イルセはもうひとりのイルセに嫉妬した。恋人が来ないまま日が暮れたときなど、《あんたが彼を追っ払ったのよ、あんたが追っ払ったんだわ、とイルセは叫んだ、あんたのそのふてくされた顔でね。いじわるな女、どっかへ行っちまって、私たちにかまわないで》
 イルセは白くて薄いリンネルの布で鏡に覆いをした。そして最後の小さい釘を打ちこむために端を少し持ちあげてから、《さよなら、イルセ》と彼女は言った。
 しかし彼女の婚約者はやはりつれないままだった。《もう私のこと愛してくれてないんだ》とイルセは思った。《あの人はもう来やしない、私はひとり、たったひとりで取り残されるんだわ。もうひとりのイルセはどこにいるんだろう。あの人といっしょに行ってしまったのかしら》 彼女は金の鋏で布を少しばかり切り裂いて覗いてみた。鏡は白っぽい影に覆われていた。
 《行ってしまったんだ》とイルセは思った。

 ──とにかく、とイルセはひとりごちた、しんぼうづよく待つことだわ。もうひとりのイルセはそのうち嫉妬して悲しい気持になるにきまってる。恋人は戻ってくるわ。私、あの人だったらいつまででも待っていられるわ。
 彼女は毎朝枕の上で、夢うつつのうちに、恋人の顔をありありと自分の顔のそばに見るような気がした。《ああ、愛しい人》と彼女はつぶやいた、《やっぱり戻ってきてくれたのね。おはよう、おはよう、かわいいあなた》 そういって手をのばしたが、手に触れたのはひんやりしたシーツだった。
 ──とにかく、とイルセはふたたびひとりごちた、しんぼうづよく待つことだわ。
 イルセはひたすら婚約者を待っていた。彼女の忍耐はいつか涙のなかに溶けていった。湿った靄が彼女の目を覆った。涙のあとが幾筋も彼女の頬にしるされた。顔の全体がげっそりと痩せてきた。歳月が、毎日、毎月、毎年と、次第に重みを増す指先で彼女をやつれさせていった。
 ──ああ、愛しい人、とイルセは言った、あなた、ほんとに戻ってきてくれるの?
 彼女は鏡の内側を覆っている白いリンネルを裁ち切った。色あせた枠のなかに、ぼんやりした染みだらけの鏡面があらわれた。鏡には皺のようなくっきりした筋がついていて、ところどころ裏箔が剥がれ落ちたあとには影が湖のように広がっていた。
 もうひとりのイルセが鏡の奥からあらわれた、イルセと同じく黒い服を着け、痩せ細った顔をして。すべてを反射する鏡面のなかにあって、彼女の影だけは反射ではないかのような、奇妙な存在感を示していた。そして鏡そのものがまるで泣いていたかのようだった。
 ──あなたもさびしいのね、私とおなじで、とイルセが言った。
 鏡の女はさめざめと泣いた。イルセは彼女にキッスして言った、《こんばんは、かわいそうなイルセちゃん》と。
 イルセはランプを手にして部屋をうろついていたが、いきなりぎくりとした。もうひとりのイルセがランプを手にし、悲しげな目つきで彼女のほうへ歩み寄ってきたからである。イルセはランプを頭の上にかざして、ベッドの上に腰をおろした。もうひとりのイルセもランプを頭の上にかざして、彼女のそばに腰をおろした。
 ──やっと合点がいった、とイルセは考えていた。鏡の女は解き放たれたんだ。で、私を迎えにやってきたのよ。私、もうすぐ死ぬんだわ。
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by sbiaco | 2010-02-13 16:53 | II.モネルの妹たち