19世紀末のフランス作家マルセル・シュオッブ(Marcel Schwob)の「モネルの書」の翻訳とその周辺


by sbiaco

第二章 第六話 - 健気な娘

 ジャニーの恋人が水夫になってからというもの、彼女はひとり、まったくのひとりきりであった。彼女は手紙を書き、小さい指で封をし、丈の高い赤い草のあいだを流れる川にその手紙を投じた。これで手紙は海まで流れていくだろう。ジャニーはじつのところろくに字が書けないのだが、恋人はきっとわかってくれるにちがいない、なぜならその手紙は愛の証なのだから。そして彼女は海から返事がくるのをずっと心待ちにしていた。が、その返事はいっこうに届かなかった。彼のところからジャニーのもとへ流れてくる川などなかった。
 ある日のこと、ジャニーは恋人を尋ねて家を出た。彼女は水辺に咲く花やその傾いた茎を眺めたが、どの花もきっと彼女のほうへとなびいていた。ジャニーは歩きながらこう言った、《海の上には船があって──船の中には部屋があって──部屋の中には鳥かごがあって──鳥かごの中には鳥がいて──鳥の中には心臓(こころ)があって──心臓の中には手紙があって──手紙の中にはこう書いてあるの、「僕はジャニーが好き」って。──僕はジャニーが好きは手紙の中にあって、手紙は心臓の中にあって、心臓は鳥の中にあって、鳥は鳥かごの中にいて、鳥かごは部屋の中にあって、部屋は船の中にあって、船は海のとても遠いところにあるんだわ》
 ジャニーは人見知りしないたちだったので、手に粉をまぶした粉挽きたちは、彼女が素朴でやさしく、指に金の指環をはめているのを見ると、進んで彼女にパンをあたえ、軽くキスしてから、彼女を小麦粉の袋のあいだに寝かせてくれた。
 そんなわけで彼女は黄褐色の岩ばかりの国を横切り、低い森のある地方を抜け、町に近い大きな河をかこんだ平原を通り過ぎた。ジャニーに宿を貸した人々の多くは彼女にキスしてくれたが、彼女は一度もお返しのキスをしなかった──というのも、恋をしている女が恋人に内緒でキスをし返すと、そのしるしが血の痕になって頬にあらわれるからである。
 彼女は恋人が船出した港町にたどりついた。そして港に立って、彼が乗った船の名を捜したけれども見つけることができなかった。その船はすでにアメリカの海へ送り出されたあとなのだから、と彼女は考えた。
 坂になった暗い街路が町の小高いところから波止場へと下っていた。街路のあるものは舗装されていて、中央に排水溝が走っていた。他のものは古びた舗石が敷かれた狭い段々にすぎなかった。

 ジャニーがふと目をとめたのは、黄色や青のペンキを塗りたくった家々で、そこには黒人女の首と、嘴の赤い鳥の絵とが描かれていた。夜になると、家々の軒先に大きな提灯が揺れた。そこへ入っていく男たちはどうやら酔っぱらっているようだった。
 これらの家は、黒んぼうの女や色あざやかな鳥がいる国から戻ってきた水夫たちの泊まる旅籠にちがいない、とジャニーは考えた。そして、おそらくは遠い海の匂いがするこういった旅籠で恋人を待ちたいという強い願いが彼女の心にきざした。
 彼女が頭をあげると、女たちの白い顔が見えた。彼女らは格子をはめた窓によりかかって涼をとっていたのである。ジャニーが二重になった扉を排してタイル張りの室内に入ると、そこにはピンクのドレスをつけただけの、半裸の女たちがたむろしていた。むっとするような奥の陰に鸚鵡がいて、ゆっくりと瞼を動かしていた。テーブルには、胴のくびれた大きなジョッキが三つ置いてあって、そこにはまだいくらか泡が残っていた。
 四人の女が笑いながらジャニーを取り囲んだ。地味な布地の服を着た女がもう一人いて、小部屋で針仕事かなにかしているらしかった。
 ──山出しの娘だね、とひとりの女が言った。
 ──しっ! ともうひとりの女が言った、つまらないこと言うもんじゃないわ。
 女たちはいっせいに彼女に呼びかけた。
 ──なにか飲むかい、お嬢ちゃん?
 ジャニーは女たちがキスするにまかせ、胴のくびれたジョッキのひとつをとって飲んだ。でっぷりした女が彼女の指環に目をとめた。
 ──ねえあんたたち、この子結婚してるわよ。
 みながいっせいに応えた。
 ──あんた結婚してんの、お嬢ちゃん?
 ジャニーは頬を赤らめた、というのも、自分がほんとうに結婚しているのかどうか知らなかったし、どう答えればいいのか見当がつかなかったから。
 ──こんな花嫁さんだったらあたいも知ってるよ、と一人が言った。あたいだってね、小っちゃかったころ、七つのころにはペチコートなんかつけてなかったわ。すっぱだかで森へ行って、自分のお寺を建てたものよ──小鳥がみんなあたいの仕事を手伝ってくれたわ。禿鷲がいて石をつつきだして、それを鳩が長い嘴で切りだして、鷽がオルガンを弾いてくれたの。それがあたいの結婚式をあげるお寺で、おミサだったってわけ。
 ──でもこの子はちゃんと結婚指環をもってるじゃないの、とでっぷりした女が言った。
 そこでみないっせいに叫んだ。
 ──ほんとに、指環を?
 そういいながら女たちはひとりづつジャニーにキスをし、やさしく抱いて飲み物をあたえ、しまいには小部屋で縫い物をしている婦人までにっこりと笑いだす始末だった。
 そうこうするうちにヴァイオリンの調べが扉の前から聞こえてきて、ジャニーはつい眠りこんでしまった。二人の女がそっと彼女を抱えて小さい階段をのぼり、奥の小部屋のベッドへ運んでいった。
 それからみながいっせいに言った。
 ──なにかあの子にもたせてあげないとね。でも何にする?
 鸚鵡が目をさまして何かぺちゃくちゃとしゃべった。
 ──いい考えがあるよ、とでっぷりした女が説明しだした。
 彼女は低い声で長いことしゃべっていた。女のひとりは涙をぬぐっていた。
 ──たしかにそうだわ、と彼女は言った、あたしらいままでろくなものじゃなかったけど、これで運がむいてくるかもね。
 ──そうよきっと、あの子があたしら四人に、ともうひとりの女が言った。
 ──そうときまればあとはマダムにお願いするだけだね、とでっぷりした女が言った。

 次の日、ジャニーが出て行くとき、彼女は左手の指の一本一本に結婚指環をはめていた。恋人ははるか遠くにいる。けれどもこの五つの金の指環で心臓(むね)をたたけば、ただちにそこへ入って行くことができるだろう。
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by sbiaco | 2010-02-14 17:23 | II.モネルの妹たち