19世紀末のフランス作家マルセル・シュオッブ(Marcel Schwob)の「モネルの書」の翻訳とその周辺


by sbiaco

第二章 第三話 - よこしまな娘

 ──マッジ!
 その声は床板に開けられた四角い穴から昇ってきた。ぴかぴかに磨き上げられた巨大な樫の螺子が丸屋根を横に貫き、ぎしぎしと音をたてながら回転していた。灰色の布でできた大きな羽根が木製の骨組みに釘でとりつけられていて、それが日に照らされた埃のあいだから宙におどるのが天窓ごしにみえる。下では石でできた装置がまるで規則正しく戦う二匹の動物のように動いていて、それにあわせて製粉機が台の上でがりがりと音をたてながら振動していた。五分おきに、長いまっすぐな影がその小部屋を横切った。室内の棟木に立てかけられた梯子には小麦粉が一面にこびりついている。
 ──マッジ、来ねえのか? とまた下で声がした。
 マッジは樫の螺子に手をおいていた。手のひらが絶えず擦られるのをくすぐったく感じながら、彼女は少し体を傾けるようにして平坦な野原を眺めた。風車小屋の丘はそこに丸く盛り上がっていて、まるで剃りあげた頭のようにみえる。回転する羽根が背の低い草すれすれのところをかすめ、その黒い影はいずれもあとの影に追われながら、けっして追いつかれることなく動いている。ざっとセメントを塗っただけの壁の出っ張りは、そこで何頭もの驢馬が体を掻いたらしく、漆喰の剥げ落ちたあとに石の地が灰色の染みのようになっている。小高い丘のふもとには、乾いたわだちの跡がいくつもついた野の小径があって、それを下っていくと、落葉の浮かぶ大きな沼に出るのだった。
 ──マッジ、もう出かけるぞ! とまたしても大きな声がした。
 ──いいわよ、行ってらっしゃい、とマッジは低い声で言った。
 風車小屋の小さい扉がぎいと音をたてた。驢馬が耳をふるわせるのが見え、獣は蹄で草をさぐりながら、そろりそろりと歩いていった。大きな袋がひとつ、押しつぶされたように荷鞍にのっかっている。年老いた粉挽きと使い走りの小僧は獣の尻を棒でつついていた。そして二人はでこぼこ道を下っていった。マッジは一人居残って、天窓からその顔をのぞかせていた。

 ある晩のこと、マッジの両親は、彼女がベッドに腹ばいになって砂や炭を口いっぱいに詰めこんでいるのを発見した。そこで彼らは医者のところへ相談にいった。医者たちは申し合せたように、マッジを田舎へ連れていって、手足や体を疲れさせるのがいちばんだと意見を述べた。しかし風車小屋に来てからというもの、彼女は空が白みはじめるや、狭い屋根裏へ逃げるようにかけ登って、そこから風車の羽根がまわる影をじっと眺めてばかりいるのだった。

 突然、彼女は頭のてっぺんから足の先までぎくりとした。だれかが入口の扉の掛け金をはずす音がした。
 ──だあれ? とマッジは四角い穴ごしに訊ねた。すると弱々しい声が聞こえてきた。
 ──なにか飲み物はありませんかな、ひどくのどが渇いておりますもんで。
 マッジは梯子の段をすかして目をこらした。やってきたのは田舎をうろついている年老いた乞食だった。乞食は頭陀袋にパンを入れていた。
 ──あのひとパンをもってるわ、と彼女はつぶやいた。お腹をすかしていないのが残念だわ。
 彼女は乞食が好きだった。もっともそれはひきがえるや、かたつむりや、墓地に対する好みと同様、多少の嫌悪の気持が混じっていたが。
 彼女は大声に言った。
 ──ちょっと待ってて!
 それから顔を前に向けたまま梯子を駆け降りた。下へ降りてくると、
 ──あら、ずいぶん年をとっているのね、と彼女は言った──で、そんなにのどが渇いてるんですか?
 ──ああ、そうですとも、かわいいお嬢さん、と老人は言った。
 ──乞食ってみんなお腹をすかしてるもんだわ、と彼女はきっぱりと答えた。私は漆喰が大好物なの。ほら、このとおり。
 彼女は白い壁土をひとつかみもぎとると、それをがりがりと噛んだ。それからこう言った。
 ──みんな出かけていて留守よ。私、コップはもっていないの。でもポンプならあるわよ。
 彼女はポンプの湾曲した握りを彼に示した。そして老人が水を汲み出して管に口をあてている隙に、マッジは彼の頭陀袋からすばやくパンを抜き出すと、小麦粉の山にそれを押しこんだ。
 乞食がこちらを振り返ったとき、マッジの目はダンスでも踊っているかのように揺れていた。
 ──あっちのほうに、と彼女は言った、大きな沼があるの。貧乏人はそこで水を飲めばいいわ。
 ──あっしらはけものじゃありませんぜ、と老人は言った。
 ──そりゃそうだけど、とマッジは答えた、幸せじゃないことに変りはないわ。もしお腹がすいてるんなら、この小麦粉をちょっと盗んであんたに上げるわ。これに沼の水をまぜれば、今夜あんたは練り粉が作れるわ。
 ──生の練り粉ですかい! と乞食は言った、ありがたいことですが、さいわい恵んでもらったパンがございますよ、お嬢さん。
 ──でももしパンがなかったらどうするの? 私、あんたみたいに年寄りだったら、いっそ水に溺れるほうがいいわ。溺れて死んだ人たちはとても幸せよ。きっときれいにちがいないもの。私、あんたがお気の毒だわ、かわいそうな人。
 ──神のご加護があらんことを、かわいいお嬢さん、と老人は言った、あっしはもうくたびれてしまいましたわい。
 ──今夜になったらお腹がすくわよ、と丘の斜面を下りていく男の背中にマッジは大声で呼びかけた。そうよ、おじいさん、きっとお腹がすくわ。そしたらあんたのパンを食べることだわ。歯がよくないのなら、沼の水によくひたして、ね。沼はとっても深いんだから。
 マッジは彼の足音が聞こえなくなるまで聞き耳をたてていた。それからゆっくりと小麦粉の山からパンを引っぱりだして、それを眺めた。村で売っている黒い丸パンで、それがいまは白い粉が点々とついている。
 ──あらまあ、と彼女は言った。お金がなけりゃ、私ならきれいなパン屋さんで白パンを盗むわ。

 粉挽きの親方が帰ってきたとき、マッジは頭を粉まみれにして仰向けに寝そべっていた。彼女はくだんの丸パンを両手でしっかりと胸に押しあてていた。そして両の目をかっと見開き、ほっぺたをふくらませ、食いしばった歯のあいだから紫色になった舌の尖を出して、彼女なりに思い描いた溺死体の姿を真似しようと懸命になっていた。
 みながスープをとったあとで、
 ──おじさん、とマッジは言った、むかし、もうずっとずっと前に、この風車小屋にものすごい大男が住んでいて、死人の骨でパンを焼いてたんでしょ?
 粉挽きは言った。
 ──そいつぁおとぎ話さ。だがな、この丘のふもとに石の部屋があって、さる商会がそれらをわしから買い取ろうとしたんだ、掘り返すためにな。わしの風車小屋を取り壊すなんてとんでもねえ話だ。やつらは古い墓でもあばいてりゃいいのさ、やつらの町にあるやつをな。おあつれえ向きに朽ち果ててるときたもんだ。
 ──たぶんポキッと鳴るんでしょうね、死人の骨って、とマッジは言った。うちの小麦よりもたんとあって、ね、おじさま。そしてその大男はそれでとてもおいしいパンを焼いたんだわ、とてもおいしいのをね。で、大男はそれを食べてたのよ──そうよ、食べてたんだわ。
 小僧のジャンは肩をすくめてみせた。製粉機のがりがりいう音はやんでいた。風ももう羽根をふくらませていなかった。くるくると動いていた二匹の石の動物ももう戦うのをやめていた。一方が他方に重なって、いまは静かに休んでいるようだった。
 ──おじさん、ジャンが前に言ってたんだけど、とマッジはなおも言いつのった、水銀を入れたパンを使うと水死者が見つかるんだって。パンの皮に小さい孔をあけて、そこに流しこむの。で、そのパンを水に投げると、水死者の真上でパンが止まるんだって。
 ──そんな話はわしは知らんね、と粉挽きは言った。どっちにしろ、若え娘には関係のねえ話だ。おい、ジャン、なんて話を聞かせるんだ。
 ──でも訊ねたのはマッジお嬢さんですぜ、と小僧は答えた。
 ──私なら鉛の散弾を入れるわ、とマッジは言った。ここには水銀なんてないんだもの。それでもやっぱり沼で溺死体が見つけられるはずよ。
 扉の前で、彼女は夜明けを待っていた、前掛けの下にパンを入れ、手には小さい鉛の弾丸をもって。あの乞食はきっと腹をすかせていたに違いない。そして沼で溺れ死んだのだ。彼女はやがて彼の死骸を水面に浮び上らせるだろう、そしてあの大男のように、死んだ男の骨で粉を挽き、練り粉をこねることができるだろう。
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by sbiaco | 2010-02-17 18:34 | II.モネルの妹たち