19世紀末のフランス作家マルセル・シュオッブ(Marcel Schwob)の「モネルの書」の翻訳とその周辺


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モネルと象徴主義 - ピエール・シャンピオン

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 1894年に出た『モネルの書』は、マルセル・シュオッブの憐憫の福音書、ニヒリズム提要である。
 この熱っぽく、謎めいた小著は、彼の人となりがもっともよく出ているものの一つだ。故意に晦渋に、優しくかつ激しく、また複雑に仕立てあげられてはいるが、それでもやはり論理をイメージに託して語ったものなのである。この点において、この書物は、かのすばらしい恋愛の書、ダンテの『新生』と結びつく。モネルの言葉はかなり特異な響きをもっていて、のちにはマルセル・シュオッブ自身も辟易したほどである。後年、挨拶の際に彼を『モネルの書』の著者と呼ぶ連中には、苦々しくこうつぶやいていたものだ、《度しがたい畜生》と。
 モネルはマルセル・シュオッブの魂であり、その求めるところは、愛の至高の形式を憐憫のうちにはらんだ優しさである。これは彼の根本的な理念であって、彼はそれをディケンズにもトルストイにも見出した。モネルはマルセル・シュオッブその人、その明晰な目である。しかし、それはまた小さい名もない娼婦、オックスフォード大通りで気を失いかけたトマス・ディ・クインシーを慰めた娘であり、青年期のマルセル・シュオッブが求めていた娘でもある。モネルとはただ一人の女の謂であって、他のどんな名前でもあり得る。それは、かつてダンテが示したように、愛による認識の啓示なのだ。しかし、モネルが私たちに授ける教説は、マルセル・シュオッブの属する人種の奥底に根ざしたものである。

 《破壊して、破壊して、破壊しなさい。あなた自身のうちに、あなたの周囲に破壊するのよ。あなたの心と他の人々の心のために場所をつくるの。善も悪もすべて破壊しつくすのよ》

 これは1893年のアナーキーのことだ(*1)。そしてマルセル・シュオッブはこの本のなかでは預言者、ユダヤの小預言者の口調で語っていて、この時期にあっては、その声が、コント作者であり往年のソルボンヌの学徒である彼を駆りたてているのである。とはいえ、モネルの福音は当時の時代思潮であるディレッタント哲学をも反映している。

 《そしてモネルはなおも言った、刹那について話してあげるわ、と。
 一切を刹那の相のもとに眺めるのよ。
 あなたの自我を刹那の好みのままに赴かせるの。
 刹那において考えるの。どんな考えも長引けば矛盾になるから。
 刹那を愛するの。どんな愛も長引けば憎しみになるから。
 刹那に誠意をつくすの。どんな誠意も長引けば偽りになるから。
 刹那に対して公正であること。どんな公正さも長引けば不正になるから。
 刹那に対して行うこと。どんな行為も長引けば亡びた統治になるから。
 刹那とともに幸福であること。どんな幸福も長引けば不幸になるから。
 あらゆる刹那に敬意を払うこと、そして事物の間に関係を設けないこと。
 刹那を遅らせてはだめよ、禍根を残すことになるから。
 見て、刹那はすべて揺籃で、また棺桶なの。あらゆる生と死があなたに珍しく新しいものに見えればそれでいいのよ》

 このようにモネルの声を通じて、マルセル・シュオッブは詩篇作者ダビデの口調で私たちを教導する。

 《あなたも薔薇と似たものでありなさい。あなたの葉を官能がむしりとるに任せ、苦痛が踏みにじるに任せるの。
 どんな法悦もあなたの内で息も絶えだえであるように、またどんな官能も死滅することを望むように。
 死を待っていてはだめよ、死はあなたの中にあるの。死を仲間にして抱き寄せてやりなさい。死はあなた自身のようなものだから》

 そしてマルセル・シュオッブは自分自身についても預言している。

 《どの死骸にも不信のまなざしを向けること。
 死者たちを抱きしめてはいけません、なぜなら死者は生者の首をしめるから。
 あなたの過去の生と同じく、他者の過去の生も見つめないこと。空っぽの封筒を集めたりしないこと。
 自己のなかに墓場を持たないこと。死者は疫病を蔓延させるわ》

 学生時代よりこのかた、思えばなんという道のりであることか。マルセル・シュオッブはついにこう書くのだ、《汝自身を知るべからず》と!
 そして、モネルは彼女の妹たちの送迎のうちを通り過ぎる。彼女の小さい妹たちもまた象徴である。官能的な娘、よこしまな娘、当てがはずれた娘、野生の娘ビュシェット、健気なジャニー、天命を待つ娘イルセ、夢を追うマジョレーヌ、奇妙な霊柩車に乗せてくれとせがむシース、冷ややかなモルガーヌ、そして身命を投げうつ農家の下女など。
 こうしてモネルはマルセル・シュオッブの人生のうちに立ちあらわれ、やがて姿を消していった。そして書き手である彼は彼女の忍耐の業をかき集め、彼女が逃げていった王国、すなわち死の王国を描写した。最後にモネルは復活して、その神性を示す。手に小さいランプをもち、幸福の道を照らしながら。

 《人間はその喜びを思い出にもとめ、いまのありように抗い、この世の真実を誇りにするわ。真実なんてものは、真実になったとたんに本物ではなくなるのに。
 人間は死ぬことを嘆き悲しむけれども、死とは彼らの知識や不変の法則の影にすぎません。人間はまた未来の選択を誤ったといって嘆くけれども、その未来とは過去の真実をもとに組み立てられた未来で、彼らはそのとき過去の欲望にしたがって選択しているのよ》

 しかし、『モネルの書』が単なる象徴であって、そこにはマルセル・シュオッブの魂の肖像画があるばかりだと思ったら、それは誤りであろう。
 この書物は、ごく年の若い一人の女性との出会いののちに構想されたもので、その女性の真実の面影を私たちに伝えるものなのだ。
 マルセル・シュオッブがその女性と出会ったのは1891年以前、放蕩の一時期ののちのことである(*2)。彼女はルイーズという名前だった。この名前は、マルセル・シュオッブの手で封筒の上に書かれているが、その封筒には彼女から送られたたくさんの子供っぽい手紙が入っていて、彼はそれらの手紙に魅了されていた。もっとも、マルセル・シュオッブは彼女のことをもっぱら《僕のかわいいヴィーズ》と呼び、その特徴的なたどたどしい口調をよく繰り返していたものだ。体の弱い少女で、のちに結核に冒されることになるのだが、栗色の髪の、よく笑う細い目をした、哀れな身の上の娘であった。そしてマルセル・シュオッブは、それまで言いたくても言い出せなかったことのすべてを彼女の口に託したのである。この子供っぽい気立ての職業婦人のうちに、彼は心のうちに秘めていた優しさをすべてさらけ出した。というのも、博識の人マルセル・シュオッブは、彼女が欲得抜きで彼に話しかけるちょっとした蒙昧なおしゃべりに心を奪われていたのである。 《私のルールー、わたしのミミ、髪の毛が落ちた。お腹が痛い。私、お人形の手巾を二枚縫いなおしたのよ》。少年時代をもたなかった彼、年老いた父や、優しいというより厳しい母、それに東洋学者のカァンのもとで育った彼は、ルイーズによって優しさを知ったのだった(*3)。……
 モネルはなおも言った、《あなたに小さい娼婦たちのことを話してあげるわ、そしたらあなたには始まりがわかるから……》と。
 マルセル・シュオッブは彼女を喪ったのち、彼女についてこのように書くだろう。

 《彼は彼女とはじめて会った日のことを思い出した。彼女はゆらめく白い炎のように、体をゆすって笑いながら、はずむような調子で彼の前にあらわれた。彼女の目は湖水の目で、水に木々の影が映るように、その目にはさまざまな考えが浮かんでは消えた。そこ、その街路のはずれに彼女はやってきたのだった、わるびれた様子もなく。彼女はゆっくりと響く声で笑ったが、それはクリスタルのコップの消えゆく振動を思わせた。
 時は冬の夕暮れで、霧が出ていた。あの店は開いていた──あんなふうに。同じ夕暮れ時、同じ周囲の事物、同じ雑踏の音。ただ歳月が違っていた、そして待つということも。彼はあたりに気を配りながら歩をすすめた。あらゆるものが、あの最初のときと同じだった。ただし彼はいまは彼女を待っていた。それだけでも彼女がやってくるのに十分な理由ではないか? 彼は霧に向かって自分のあわれな手を開いて突き出した》

 こんなふうにマルセルは哀れなルイーズと出会ったのだった。

 《かつてモネルとよく遊んでいた少年がいた。それは昔のこと、モネルがまだ行ってしまわない前のことだ。少年は昼間の時間をずっとモネルのそばですごし、彼女の目がふるえるのを眺めていた。モネルはわけもなく笑い、少年もわけもなく笑った。モネルは眠っているあいだも、口を少し開いて、やさしい言葉を寝言でつぶやいていた。目がさめると、少年がやってくることを知ってほほえんだ》

 そしてマルセルは、結核に冒されて徐々に衰えてゆくルイーズを、限りない優しさと献身とをもって世話した。ごく親しい数名の人々は彼の心痛を知っていたが、ルイーズのことは友人たちもだれ一人として知らなかった。ジュール・ルナールの主治医が彼女を往診した。医者はルイーズの暮しにおけるひどく劣悪な衛生状態を指摘した(コーヒーや煙草の喫みすぎ、狭くて風通しのわるい住まいなどで、これらは早急に改善が必要であった)。重患であり、予後は思わしくなく、多少とも死期を遅らせられるかどうかは、ひとえに今後の治療と衛生状態の改善とにかかっていた(1893年3月5日)。
 1893年11月、マルセル・シュオッブは恐ろしい予感のうちに生きていた。はたしてルイーズは12月7日の夜に亡くなった(*4)。年はおよそ二十五歳。マルセル・シュオッブの嘆きは子供を亡くした父親の嘆きであった。
 このような不幸に見舞われた彼が知人の家から家へとさまよい歩き、どこへ行っても涙にくれる姿が見られた。《そして、自分一人置いて行かれやしないかという心配が起ると、まるでもう、死んだ彼女がまた死にかけてでもいるような騒ぎだ(*5)》
 エドゥアール・ジュリアは、1894年1月2日、次のように彼に書き送った。

 《親愛なる友よ、あなたが出発する前に抱擁できなかったのが残念です。……あなたがずいぶん遠くへ行ってしまったことを思えば、いまやまったく何も手につかないし、パリの灰色の日々が堪えがたく思われてきます。そしてあなたは、悲しみを抱えてまったくの一人ぼっちだ、哀れな友よ。僕はこれまでそのことについて、あえてあなたにお話しする気にはなれませんでした。けれども、僕があなたと一緒に見たあの悪夢のあとでは、それこそが我々の当然なすべきことなのではないでしょうか? 僕にわかることは、ただあなたの苦しみを僕も苦しんだということ、そして、あなたをいつまでも一人ぼっちにさせてはおけないということ以外にありません。あなたは、己れの誇りや信仰を苦しみよりも上に置き、苦しみを人生における偶発事と見なす人々の仲間ではありません。人々から敬われるよりも、むしろ愛される人なのです。あなたはすでに偉大な人、いまや遠い人です、そして、あなたが最愛の恋人に贈ってあげられるいちばんの形見は、彼女がそのなかでそっくり生き返ってくるような、あなたご自身の作品なのです。
 今日はあたり一面すっかり灰色です。恐ろしい一夜が明けて、あなたとお別れしたあの寒い朝のことが思い出されます。そうすると、新年のお祝いの言葉を言う気力も萎えてしまいます。友情とともに接吻を送ります》

 1月4日付のものはこうだ。

 《哀れな友よ、何といってお慰めしたものやら。僕にできることといえば、あなたと一緒に涙を流すこと、低い声で取りとめもなくお話しすることくらいです。すべてが終ってしまったわけではありません、大いなる友よ。あなたは胸のうちにご自身の愛情の最良のものを持っておいでです。あなたの愛した娘は、あなたの人生を横切っていった、そしてあなたを、まるで小さい子供かなにかのように、悲しみの前に置き去りにしていったのです。そのとき僕は、あなたと不幸を共にできるほど、あなたを愛していた者でした。けれども、いま僕があなたに示したいと思うのは、あなたには思い出によって浄められた人生がまだ残されているということ、そしてそれはこの世のなにものによっても損なわれることはないということです》

 マルセル・シュオッブは悲嘆に暮れて、今度は恋人の父親に縋ろうとしたが、父親は彼に次のような手紙を送った。

 《拝啓。貴方の最初のお手紙は私には意外でした。そして、ほんとうのことをいえば、貴方にはお返事を差し上げるまいと心に決めていたものでした──貴方の度重なる懇願に免じてお手紙を差し上げますが、しかし、私の決心は揺らぐものではないことをお伝えしなければなりません。私にこんなにもつらい思いをさせた娘について、今後いっさいお話を聞きたくはないということです。──私はいったいどんな資格で貴方をお迎えしたらよいのかわからないのですよ。──私にできることといえば、かつて私の娘であったあの子、十五年以上にもわたって私から遠く離れて暮していたあの子を忘れることだけです。──貴方には同情いたします! しかし、娘にはもはや同情はいたしますまい。……恥の多い一生を送ったこの地上からあの子が去ったことをむしろ諒としたいくらいです》

 アナトール・フランスが、W.G.C.ビヴァンクが、レオン・ドーデが、めいめい彼を慰めようとさまざまな手を尽した。ついでマルセル・シュオッブは『モネルの書』を書き、ルイーズについて語ることをふっつりとやめた。そして彼女の手紙をすべて焼き棄てた。しかし、群衆が大挙してフォリー=ベルジェールへ押し寄せ、ロイ・フラーの光まばゆい舞踊や、ベル・オテロの堂々たる優雅さに賞讃の声を送っていたこの時期、彼はどれほどみずからの苦しみを嘆いたことであろうか(*6)!
 こうしてモネルは去って行ったが、マルセル・シュオッブは彼女について次のように書きとめている。

 《モネルがどこで私の手をとったのか、もうよく覚えていない。が、それがある秋の夕暮れだったことは覚えている。雨がすでに冷たくなっていた。
 ──私たちといっしょに遊びにいらっしゃい、とモネルは言った。
 モネルは前掛けのなかに古びた人形や羽子を入れていたが、その羽子の羽は痛み、飾り紐は色あせていた。
 彼女の顔は青白く、その目は笑っていた。
 ──遊びにいらっしゃい、と彼女は言った。さあ、もう仕事なんかよして遊ぶのよ》



(*1) これについてはレオン・ドーデが『両大戦間』の13ページに適切な覚え書を書いている。同傾向のものとして、ジャン・ヴェベールとスタニスラス・ド・ガイタの明察に満ちた手紙をも参照のこと。こういったことはみな当時の流行だった。1893年、アナトール・フランスは「穏和なアナーキスト」を書き、ヴァイヤン事件に際しては「愛の言葉」を書いている(エコー・ド・パリ紙)。これらはスノビズムの産物だ。しかし、エミール・アンリの凶悪な事件は、マルセル・シュオッブの厳しく批判するところとなった(ファール・ド・ラ・ロワール紙、1894年4月29日)。《彼は己れの知性にひどく慢心している。世人はそこに昔ながらのエロストラトスの病を認めるだろう。憎悪と高慢。セーヌ県の陪審に裁かれたこの奇矯な犯罪者を武装しているのは、この二つの動機だ》

(*2) 彼はジュール・ルナールにこう言った、《僕は女に馬鹿なことをされるのが怖いんだ。僕の相手の女はまだほんの小娘なんだが、ずいぶん馬鹿な娘でね、然しそいつが実に可愛らしいんだ》と(『日記』、108ページ、1891年3月17日)。11月2日の、もう一つの打ち明け話も参照のこと。

(*3) ジュール・ルナールは、1894年のマルセル・シュオッブについてこのように書いた。《彼はいろんな子供っぽい癖をもっていた。そんな時、彼は、その見事な智性をどこかへ置き忘れて、モネルの小さな妹たちと遊んでいるように見えた。よく小さな指抜と、小さな糸玉と、小さな針を引っ張り出して、新聞社の社長連の鼻先で可愛らしい涎掛けを縫ったものだ。彼はその連中はみんな大嫌いだった。……》(『日記』、280ページ)

(*4) この日、ジュール・ルナールは、『日記』の225ページにこう記している。《冷酷な男が一つのヒロイックな行為をする。彼は葡萄と蜜柑を買って、病気の女のところへ持って行く。道々、彼はこう呟く――《どんなに喜ぶだろうな! この俺から貰ったんだと思や、この果物がまるで金の果物みたいな気がするだろう》。彼は階段を昇り、呼鈴を鳴らす。すると、彼女の恋人が出て来て扉をあけてくれる。恋人は泣いて、泣いて、とめどもなく涙を流す。彼はなんにも云わない。冷酷な男は悟る。一言も云わずに、その果物の箱を持ったまま、彼は帰ってしまう(予感。シュオッブの女友達は七日の晩に死んだ。そしてシュオッブの電報はちょうど私の果物の箱と行違いに届いた)》

(*5) ジュール・ルナール、『日記』、12月19日。

(*6) 「モネルの忍耐」は、1894年3月16日、エコー・ド・パリ紙に発表された。3月6日、ジュール・ルナールは『日記』に記している、《シュオッブは死の世界に向って行く。ところが、彼が帰ってしまうと、私は早速また自分のその日その日の心配ごとに、他愛ない生活に戻ってしまう》と。──『モネルの書』は、この年の夏、シャイエー書店から出版された。この本は非常に好意的に迎えられた。7月11日、フランソワ・コペーはこれらの《痛ましく物憂い妖精物語》について著者を祝福した。この本は彼を《魅了》した、とマラルメは言うだろう。ロダンバックにとって、《出会いの章はまさに傑作である》。《私が本書で気に入ったのは、その繊細な憂鬱と、琴線に触れる感受性である》とアンリ・ド・レニエは著者に語るだろう。モーリス・マーテルランクはこの本についてメルキュール・ド・フランス誌に熱烈な書評を書いた(1894年8月)。


( 『マルセル・シュオッブとその時代』(1927年)、第七章)
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by sbiaco | 2010-02-02 23:28 | 附録