19世紀末のフランス作家マルセル・シュオッブ(Marcel Schwob)の「モネルの書」の翻訳とその周辺


by sbiaco

マルセル・シュオッブ - レミ・ド・グールモン

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 コント、歴史、心理学的分析など、シュオッブ氏の書くさまざまな文章について、私としてはまずいかなる区別もつけずにおこう、それが氏の方法にかなうやり方であり、私はその方法を信じているのである。実在的なものから可能的なものへの距離は、ただ「名」の有無にかかっている。可能的なものは「名」をもたないが、少なくとも一つの「名」を持ちうるのに対し、実在的なものはしばしば匿名性の底へ沈んで見えなくなる。ルーヴルにある(ほかのところでもいいが)未知の人物を彫った大理石の胸像のなかには、おそらく我々の知らないルクレティアやクローディアの像があるだろう、そしてその像に名前がついていなからこそ、それを眺めても、たとえば歴史上の人物像を前にして私たちが感じるような戦慄を、その未知の像に対してもちえないのだ。父祖以来の古い教訓のせいで、私たちはうやうやしくも、いっとき私たちのかぶる仮面が、まるで特権的な巣箱のように、思考の大いなる運動を、蜜蜂の高貴なうなりを、覆い隠してくれると思っている、しかし私たちが忘れがちなのは、人間の観念も、人間の行為も、その生身の顔の上に書かれてはいないということだ、そして芸術家によって見られ、創造されることによって露わになるのは、その芸術家自身の天才であって、モデルとなった人物の天才ではないのである。生まれながらに形象を解釈する才をもっている人にとっては、織工の顔もゲーテの顔も、未知の森の暗い樹木も聖ヴァンサン・ド・ポールの無花果の樹も、まったく同じ価値をもつ。それは差異の価値である。
 世界は差異の森のようなもので、世界を知るとは、形相的に同一のものは存在しないと料簡することである。これは判明な原理であって、人間のなかで完璧に実現されるものだ、というのも、存在の意識とは差異の意識にほかならないのだから。だから人間の学というようなものはない、ただし人間の芸術というべきものはある。それについてシュオッブ氏の言ったことは、私には決定的なものに思われる。たとえばこういう章句。《芸術は一般的概念の対極に位置するもので、個体的なものしか描かず、特異なるものしか望まない。芸術は分類しない、それは脱分類する》 奇妙に光を放つ言葉だが、これにはもうひとつの価値がある。すなわち、少ない言葉によって、卓越した精神のもつ現実的傾向をしっかりと固着することである。ギリシャ戦争に際して、だれか旅行者が私にギリシャの花売り娘のことを語ってくれたらどんなによかったことか、毎朝籠をもってアイオロス通りを歩いていた花売り娘のことを! その娘は何を考えていたのだろうか? 彼女の生、固有で、《特異な》その生は、あの騒動のなかでどんなふうに動いたのだろうか、それこそが私の知りたいことなのだ。花売り娘でも、靴屋でも、大佐でも、荷物運びでもいい。私はまた探検家がこういったことを話してくれるのを期待している、が、どうやら流れに沿って雁行する個々人の生に興味をもっている人はほとんどいないようなのだ、人間は書割に囲まれて生きていながら、それが木でできているのか、布製なのか、紙製なのかを、指でたたいて調べてみるほどの好奇心すら持ち合わせていないのである。
 実存するものを微分すること、この知られざる芸術を、シュオッブ氏はじつに鋭い聡明さをもって実践しようとする。歪曲という手法(これまた正当なものであるが)を用いずに、氏は外見上ほとんど同じような人物をいとも易々と特殊化してみせる。そのために氏に必要なのは、一連の非論理的な事実のうちに、ある種の事実を選び出すことである、つまりそれらもろもろの集合がある外面的性格を決定し、それが人間の内的性格を隠すのではなく、むしろそれと重なりあうような、そういった事実を選択することである。逸話によって創造され、再創造される個々人の生がそれだ。ジェローム・ラランドが蜘蛛を食べていたとか、アリストテレスがあらゆる種類の土製の壷を集めていたとか、そんなことは、前者が大天文学者であり、後者が大哲学者であることに何の因果関係もない、けれどもラランドからラランドを微分し、アリストテレスからアリストテレスを微分するためには、こういった特徴を数え上げることが必要なのである。こういう細部をおろそかにすることによって、俗人は著名人を、つねに同じ姿勢をたもつ蝋人形か何かのように考えてしまうのだ。そして、著名人たちがヴェールをはいだ姿で示されると、俗人は何が何だかわからなくなって、個体的な生のもっとも顕著なしるしであるものに対して腹を立てるのである。人間は、話題になっている人間が論理的であることを望むが、論理こそは個別的な実存の否定にほかならないことに気がついていないのである。
 試みに、ひとつの方法を解明してみよう、これはすでに得られた結果における氏の印象を語るよりむつかしい。得られた結果とは、氏のコント集、ことに『架空の伝記』に見られるように、幾多の人々が生まれ、動き、話し、生の驚くべき確信をもって陸路や海路をたどるということだ。もしシュオッブ氏の皮肉が、アメリカ人がhoaxeと呼ぶところの、韜晦というジャンル(エドガー・ポーが得意とした)に少しでも傾いていたなら、氏は「犬儒派クラテス」の伝記をもって、いかにも多くの読者を、博学な読者をすらも煙に巻くことができたに違いない。なにしろそこには正統的な伝記の静謐を乱すようなことは何一つ書かれていないのだから。このような印象を与えうるためには、確固たる博識、読み手の心にせまる視覚的創像力、変幻自在の文体、巧妙な手法、軽やかな筆、極端な繊細さなど、一言でいえば皮肉の賜物が必要である。こういった力量を、特殊な天分のうちに、自在に行使できる人間には、『架空の伝記』を書くことなどじつに易々たるものであったろう。
 シュオッブ氏の特殊な天分は、おそろしく複雑な単純さとでもいったものである。すなわち、氏の書くコントは、精確で適正な無数の細部を組み合わせ、調和させることにより、たったひとつの細密描写の印象を与えるのだ。花籠のなかに、人は他の花々を棄ててただ芍薬の花だけを見る、しかし他の花々に取り囲まれているのでなければ、人はその芍薬の花を見ないだろう。氏はパオロ・ウッチェロの幾何学的な天才を分析しているが、氏もまたウッチェロのように線を周辺へ引き、また中央へと戻す。異端者フラテ・ドルチーノの姿は、クロード・メランのキリストの絵のように、ただ一筆の螺旋によって描かれているようにみえるが、その線の先は最後に急なカーブを描いて出発点へと戻るのである。
 これらのコントや伝記に見られる皮肉がこの上なく強調されているのが、「殺人者バーク氏とヘア氏」の冒頭である、すなわち《ウィリアム・バーク氏は、もっとも低い社会的身分から成り上がって、永遠の名声を獲得するに至った》と。皮肉はむしろひっそりと、あらゆるページの上に拡がっている、ちょうどつつましやかな、最初はほとんど目につかない色調のように。シュオッブ氏は、その語りの全体を通じて、自分の発明を読者に理解させる必要をまったく感じていない。氏はいかなる意味でも説明的ではない。そのことがまた皮肉の印象を与えるので、それは、ある驚くべき、また厭うべきものにみえる事実と、一篇のコントの人を小馬鹿にしたような短さとの自然な対比によって、いっそう強調される。しかし至高点に達し、絶対的に優勢な、無関心なものとなった皮肉は、憐憫と見分けがつかなくなる。つまりある変様が起ったので、生命の光が我々にはもはや《暗い雨をやっと照らすだけの小さいランプ》のようなものにしか見えなくなるのだ。皮肉はその原因を食いつくし、我々は、我々を微笑ませた悲惨からもはや自分自身を区別できなくなり、自らがその一部であるところの人間的錯誤を愛するようになる。自らの優越性に我々が与えていた利害を低減された生は、もはや施療院の小部屋のようなものにしか見えない、そしてそこでは人形たちが錫の鉢に入った粟粒をついばんでいるのだ。悲痛な、しかし真心のこもった書物、悲しみと愛の傑作である『モネルの書』が描くのはそういった世界である。
 『モネル』の欠点はただひとつ、それは第一章が序文でありながら、そこで語られるモネルの言葉、晦渋で堅固な言葉が、後続の物語において必然的なかたちで活かされていないことだ、マッジの、バルジェットの、青髭の小さい妻の物語、またそのほかの、限りなく繊細な心理学をそなえたもの、逸話の集積から話を浮び上がらせるのに神秘を要するものなどの、どのページにおいても。けだしシュオッブ氏はこれらの少女たちに、その小さい、びっくりした頭に含まれている以上のことを言わせようとしたのだろう、それはモネルとて例外ではない。解釈と図とを交互に出すときに厄介なのは、自分勝手に図の解釈を見出そうとする人である。そういう人は、ときには推論によって彼の想像力を殺してしまう。大切なのは一つ一つ順を追って味わっていくことなので、モネルの言葉のとおりにモネルを享受しようと過度に望むのはよくない。序文はいずれも芸術作品のもつ線を乱す。見る人、読む人は、書かれているのが染みなのか、それとも字なのかによって理解するのではない。彼は作者の天分によって理解するのではなく、自分自身の天分によって理解するのである。私の見たところ、この本はある人には純然たる官能主義の産物に見え、また別の読み手には形而上学的見解に導くものに見え、また別の人にはたんに物悲しい思索へと導くものに見えるに違いない。願わくは、各自が気の向くままに著者と協働する楽しみをもたれんことを。
 しかしそういっても、我々はつねに、シュオッブ氏もつねに序文を作る、もっとも氏の序文は十分その労に値するもので、それらを適宜並べ替えれば、『秉穂録』式に何冊もの本ができるだろう、そして我々は章が変るごとに我々の人形の服を着せ替える義務によって気を散らされる心配はない。
 いずれにしても、『モネルの書』の序文は、シュオッブ氏の心理学にとっても、一時代の一般的心理学にとっても重要である。私はそこに、一世代のインテリたちに共通するほとんどすべての概念が、決定的かつ預言的な章句のうちに書かれてあるのを見る、すなわち美的なものに固執する道徳や、一瞬のうちに要約されて感得される生や、現時の空間に回帰する無限や、目的にこだわらない自由といったものに関する趣味のことだ。人間というものは神経繊維に似ている、つまり一連の小さい星々によって形成された、不連続なものに。そしてその繊維の髪がたえず動いて、睡眠中には偶然に、覚醒中には意志によって、隣接した髪に触れ、その気まぐれな動きが各人の相違を作り上げているのである。もしだれかが神経の中心部を切っても、髪がその傷口の上に伸びてくるだろう、なぜなら髪は他の髪に触れる必要を感じているから。生の極微のエゴイズムが、無限のうちに、いくつとなく併置されるのだ。
 シュオッブ氏の書物はどれも、思いもよらぬ調子、言葉、顔、着物、生、死者、態度などによって楽しませたあとで、沈思へと誘う。彼は現代のもっとも実質的な作家の一人であり、よき香りを発する新しい言葉をつねに唇に浮かべた人々、幾多の虐殺をかいくぐってきた人種の一人である。

- 『第二・仮面の書』より
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by sbiaco | 2010-01-29 00:48 | 附録