19世紀末のフランス作家マルセル・シュオッブ(Marcel Schwob)の「モネルの書」の翻訳とその周辺


by sbiaco

モネル探求(第二章、後半) - ジョージ・トレンブリ

 マルセル・シュオッブの本と、その三年後に出たもうひとつの《無一物のすすめ》ともいうべき書物、すなわち『地上の糧』との間にみられるいくつかの明白な一致に最初に気づいたのはS.A.ローズである。そう言われてみればこの類似はだれの目にも一目瞭然なので、彼以前にだれもそのことを指摘しなかったのがふしぎなくらいだ。この二つの作品には、同じテーマ、同じ着想、ときには同じ言葉が見出される。相似はこの二人の著者に共通の、預言者的な口調にまであらわれている。S.A.ローズはその論稿中にこの《親近性》の例証をいくつもあげているが、それらは当惑をおぼえるまでに暴露的なものである。こうした相似がたんなる偶然の産物であるとはどうしても思えない。ジッドが、たとえ無意識にもせよ、友人の本を念頭に置きながら自分の作品を書いていた、とまでは言うつもりのなかったS.A.ローズだが、それでもやはり気にはなるので、彼のいわゆる《この二作間に見られる……驚くべき一致》について、間接的にジッド本人に説明を求めることにしたとのことである。アンドレ・ジッドは、質問への(やはり間接的な)回答のなかで、この二つの作品を比較検討してみることの重要性を認めている。それをしも否定するのは困難であろう。たとえばジッドが《ナタニエルよ、僕は瞬間について君に語ろう!》と書いているとき、同じ情念をもって《刹那についてあなたに話してあげるわ》と語るモネルの声を思い出さないという法があるだろうか。この手の合致をあげていけばきりがない。ここではいくつかを引用するにとどめる。
 
 シュオッブ: 《あなたも薔薇と似たものでありなさい。あなたの葉を官能がむしりとるに任せ、苦痛が踏みにじるに任せるの。
 どんな法悦もあなたの内で息も絶えだえであるように、またどんな官能も死滅することを望むように》

 ジッド: 《ナタニエルよ、僕は君に熱中を教えよう。……もし、僕らの魂に何らかの価値があったとしたら、それは他の或る霊魂より壮んに燃え熾ったからに他ならない》
 
 シュオッブ: 《過ぎ去った日々を反芻せずに、未来のことで身を養いなさい》

 ジッド: 《ナタニエルよ、過去の水を再び味おうとは願い給うな》

 シュオッブ: 《すべてのことに驚くがいいわ、だってすべては生においては相違し、死においては同一なのだから》

 ジッド: 《君の幻想の一瞬ごとに新しからんことを。すべてに驚く者こそは智者なのだ》

 『地上の糧』の末尾の一句もまたモネルの教説に結びつく。《私を忘れて、そしたら私はあなたのものになるわ》《ナタニエルよ、さあ、今度はいよいよ僕の本を捨て給え。そこから脱け出し給え。僕と別れ給え……》
 しかし、この二冊の本の類似がいかに大きくとも、その相違のほうがさらに重要であろう、それはこの二人の作家の教養のみならず気質の違いに根ざしている。だからわれわれとしては、一考の後、S.A.ローズとともに《「モネルの書」と「地上の糧」との類似性は、その主題の相違にもかかわらず、形式的かつ本質的である》と認めるのに躊躇するのである。われわれには反対に両者の対照こそが本質的なものにみえる。なによりもジッド本人が一言もってこれを要約している、《局面こそ異なれ、と彼は書いている、この二冊の本にある奨励は同じものであった、ただしシュオッブにあってはそれがあくまでも理知的なものにとどまった》と。

 まず注目すべきは、S.A.ローズの定立した両者の平行関係が、シュオッブの本の第一章にしか適用されないこと。彼のあげる例証はことごとく《モネルの言葉》から引かれている。じっさい、この比較を先へすすめるのはきわめて困難であったろう。《モネルの妹たち》と《モネル》の二つの章にはもはや『地上の糧』との比較において見るべきものはほとんどなく、むしろ両者の開きのほうがよほど目につく。すでに《モネルの言葉》において、微妙なニュアンス──語調とか、そんなもの──の点で、かなりの差異が認められる。同じような言葉の後ろに、明らかに違った声が聞こえるのだ。ほとんど同じ語を用いながら、その与える印象はまるで別物の観がある。こういった対照は皮相的なものにみえるかもしれない、が、じつのところその意味するところは深い。書物の価値をきめ、意味を与えるのはこういった対照なのである。

 そんなわけで、ジッドが好んで聖書に言及するのに対し、マルセル・シュオッブは多くギリシャ古典の記憶に訴える。彼の場合、古典文学のイメージが頻出するが、しかしそのいくつかは適切とはいいがたく、《小詩人選》や修辞学級の生徒のありふれた参考書から借用されたと思しいものも少なくない。《譲り渡された土製の盃などどれもあなたの手のなかで粉々に砕けてしまえばいい。あなたが飲み干した盃はみな粉々に割ってしまうがいい。人が走りながらあなたに差し出す生命のランプに息を吹きかけるのよ。なぜなら古いランプはどれも煤けた煙をたてるから》

 こうしたイメージ、そしてそれに伴う語彙(《ナルテコフォル》など)が彼の思考に抽象的な様相を与えているが、これはジッドには見られない点だ。ジッドはあくまでも具体的であることを念じ、母なる大地とじかに接していたいと願う。いっぽうシュオッブにはどこまでも書物臭がつきまとう、彼の霊感源はまず第一に理知なのである。彼にあっては学究と詩人とが同居しており、ちょっとした言葉のはしばしに学究としての彼が顔を出すのだ。事物を直接手づかみにするのは彼の得手ではなく、事物は彼のペンの下でたちどころに概念に変ってしまう、彼は一般名辞(一般的すぎて逆にあいまいになった言葉)を使うよりほか、事物をあらわすすべを知らないのである。《どんな<黒さ>もその内に未来の<白さ>への期待をもっているべきなの》

 直接的な光景を描こうとするときにも、やはり彼の見出すのは抽象物ばかりである。それは数学者が、自分とは関わりのない、それどころか真であるためには読み手の賛同すら必要としない客観的判断を提出するさまを思わせる。《秋の薔薇はひとつの季節を長らえる。それは毎朝開いて、毎晩閉じる》

 この実在と自己とを隔てる距離が、彼とジッドとを本質的に分つ契機である。われわれのいわゆるモネルの非実在性なるものは、要するにシュオッブ自身のありようを反映したものなのだ。だから彼はどこまでいっても現実を十全に把握することはないだろう、現実は彼から身をふりほどいて逃げ、彼が追いつくとそれは神話になってしまうのである。ジッドが肉欲にふけり、薫香に酔い、不潔な川の水を飲んで渇を癒し、その楽しみをいっそうよく味わうために日向に出て喉の渇きを募らせているあいだ、シュオッブのほうは雲に遊び、狭霧に包まれ、なにやら奇妙な霊的王国の探求にふけっているようにみえる。官能について語るときすら、彼はいささかも肉感的ではない。
 
 シュオッブ: 《秋の薔薇はひとつの季節を長らえる。それは毎朝開いて、毎晩閉じるわ。
 あなたも薔薇と似たものでありなさい。あなたの葉を官能がむしりとるに任せ、苦痛が踏みにじるに任せるの。
 どんな法悦もあなたの内で息も絶えだえであるように、またどんな官能も死滅することを望むように》

 ジッド: 《もちろん、唇の上に見つけるほどのすべての笑いに、僕は吻づけずにはおかなかった。頬を赤らめる血、眼を霑す涙、僕はそれを飲まずにはおかなかった。たわわな枝が僕に差し出すすべての果物の果肉を噛まずにはおかなかった。宿へ着くたびに貪欲が僕に一礼した、泉の一つ一つの前に渇きが僕を待っていた──それぞれの泉に対して、それぞれに別種な渇きがあった……》

 この二つのくだりにはなんという対照があることだろう、シュオッブの《法悦》はなんと色青ざめていることだろう、とりわけジッドを欲望の対象へと駆り立てるあの肉のうずきと比べてみれば!

 『地上の糧』をすみずみまで浸している宗教的妄念もまた『モネルの書』には不在である。ジッドはいくら追い払ってもしつこくつきまとってくる神にうんざりしているようにも見える。彼はよんどころなく自己の実存に言及し、あちこちそれを捜しまわり、思いもよらないところにそれを見出す。彼は議論し、推論し、断言し、神学者となって神学を攻撃し、新教(プロテスタンティズム)に抗議(プロテスト)する二重の意味でのプロテスタントになる。心中にアナーキーへの呼び声を聞きながらも、彼がじっさいに追求するのは、首尾一貫した体系の構築、理性を土台にした倫理の構築である。《「功徳」なる観念を捨て去ること。そこには精神にとって大いなる躓きの石がある》 マルセル・シュオッブはといえば、彼の神に対する決意表明はじつにあっさりしたものだ。つまりほとんど問題にしていないのである。神は彼にとって真剣に対峙すべき存在ではない。彼が神について語るのは、それを複数形におくためで、これは多数化による神の抹殺ともいうべき手法である。
 
 昔の神々が死んでいくのは放っておけばいいわ、泣き女みたいに神々の墓のそばにいつまでも座りこんでちゃだめよ。
 だって、昔の神々はその墓廟から次々に飛び去っていくんだから。
 また若い神々を包帯で巻いて守ってやる必要もないわ。 
 どの神もみな作り出された瞬間に飛び去ってしまうがいい……

 これらの神々は、もちろんキリスト教の神でもなければユダヤ教の神でもなく、むしろギリシャやエジプト伝来の漠とした異教の神格であって、その役割はマルセル・シュオッブに文学的なイメージを提供するにとどまる。いずれにせよ、これらの神々は気難しくもなければ意地悪でもなく、たんに安かに死ぬことだけを望んでいるような印象がある。

 神にわずらわされないのと同様に、彼は倫理の問題にもわずらわされない。《功徳なる観念》をあげつらおうなどとは一瞬たりとも彼の頭には浮ばないだろう……もちろんそんなものに躓く心配はない。彼がそういうものを排去するのは、それが実在しないからである。モネルの教説はいかなるときも首尾一貫を目指してはいない。もしそうだとしたら、それは自壊するしかないだろう、そのことはシュオッブもよく弁えていた。ある意味では、シュオッブはジッドよりも過激に破壊を行ったといえるかもしれない、というのも、彼が破壊するものは、それ自体のうちに実在性をもたないのだから。アンドレ・ジッドはたえず証明する必要にかられている。いっぽうモネルは何も証明しない。彼女はただ小さい娼婦として、その単純な心のままに、そこにあるものを静かに承認するだけだ。そこにあるもの、つまりばらばらになった刹那からなる不連続の世界、しかもその刹那はそれだけで自足していて、そのうちに可能的な無限の世界をはらんでいるのである。

 われわれは、学究であり、知性の人であるマルセル・シュオッブが、ジッドそこのけのまったき無一物に迫っているという逆説に逢着した。そしてモネルが教える忘却はいっそう真の無知に近い、なぜなら彼女は何も知らないまま《彼方へ突き抜ける》ことができるが、ジッドはといえば、たえず《学んだことを忘れる》必要に迫られているからである。
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by sbiaco | 2010-01-25 21:06 | 附録