19世紀末のフランス作家マルセル・シュオッブ(Marcel Schwob)の「モネルの書」の翻訳とその周辺


by sbiaco

モネル探求(第三章、前半) - ジョージ・トレンブリ

第三章: 《モネルの妹たち》


 ジュール・ルナールは《モネルの言葉》をあまり好まなかった。彼は言葉の意味のとれないことが再三あることを認め、《彼女の妹たちの間ではもっと楽な気持ちでいられる、彼女らはみんな小鳥の、花の、僕たちが愛していた少女の俤をもっている》と打ち明けている。この断案は意想外で、モネルをよく理解できなかったジュール・ルナールは、今度は彼女の妹たちにありもしない特質を与えて、やはり彼女らを誤解しているのではあるまいか、と自問したくもなる。たしかに彼の記述に合致しそうな娘もいるけれども、その反対に、花や小鳥と比較すること自体がナンセンスであるような娘もいるのだ……じっさい、これはまたなんという奇怪な夜の鳥であり、毒の花であることか!……

 モネルの妹はみなで十一人、それが一人づつ順番に曠野でわれわれの前にあらわれる。すなわち、わがままな娘、官能的な娘、よこしまな娘、当てがはずれた娘、野生の娘、健気な娘、宿業の娘、夢を追う娘、願いがかなった娘、冷ややかな娘、われとわが身を投げうつ娘。じつをいえば、彼女らがこういった呼び名をつけられたのは、1903年にマルセル・シュオッブが旧作をあつめて『プシュケのランプ』の総題のもとに刊行してからのことである。おそらく彼はモネルの妹たちを互いに緊密に結びつけることで、これらのコントの象徴的な意味を強調しようとしたのであろう。それと同時に、初版ではよく見えなかった彼女らの典型的な特徴が一目で分るようになっている(註)。こういった題名のせいで、彼女らはいくらか現実感を喪失したかもしれない、しかしもともと彼女らに現実感は希薄なので、この喪失はとくに気になるほどのものではない。

 (註)初版では下記のような題がつけられていた:《蟹》、《青髭の小さい妻》、《風車小屋の娘》、《バルジェット》、《ビュシェット》、《ジャニー》、《イルセ》、《マルジョレーヌ》、《シース》、《モルガーヌ》、《マンドジアーヌ》

 前の章でモネルが告知したところによると、彼女の妹に仮装して次々にわれわれの前にあらわれる娘たち、かわるがわるよこしまであったり、可憐であったり、冷酷であったり、親切であったりする娘たちは、いずれも彼女自身なのである──それは唯一者モネルの化身ともいうべきもので、あたかもこれら十一人の娘がそれぞれモネル自身の生れ変りであるかのごとく、彼女の最後の転身にいたるまで、その探求の諸段階を画するのだ、しかもこの探求が行われるのは通常の時間の外部、すなわち現実的な持続の外部にある時間、たとえば本質のみからなる世界に可能的に流れる時間においてである。ある者はわれわれに近く、ある者ははるかに遠く、ある者はいずれの時代に属するとも定かでない。しかしどの娘も独自のあり方でこの探求の一局面を代弁しているのである。じつのところ彼女らは、それと気づかずに全員が同じ探求を行っているので、ただ自己を求めるのに熱心なあまり、つねに道に迷ってしまうのである。

 マルセル・シュオッブがこれらのコントを編み直して『モネルの書』の真ん中に置いたのは、ただに偶然の導きによるものではあるまい。最初の一篇は「わがままな娘 L'Egoiste」と題され、最後の一篇は「われとわが身を投げ打つ娘 La Sacrifiee」と題されている。これは『二重の心』の序文で彼自身が示した均斉(シンメトリー)の法則に従わんためばかりでなく(もっともモネルの妹たちのなかには互いに対称的なのもいるが)、そこにはもっと深い理由がある、彼の十八番であり、ことあるごとに持ち出してくる理論がそれである。この「人間精神の諸段階の理論」とも名づくべき説を、マルセル・シュオッブは上述の序文においてもジュール・ルナール論においても開陳した。そのアウトラインをざっと思い出してみよう。

 《人の心は二重である》とシュオッブはいう。心は自我と外界という二つの極の間でたえず揺れ動いている。人間の本能のうち、第一にしてかつ最強のものは《生きんとするエゴイズム》である。外的現実に直面した人間は、《わが存在にまつわる不安》をしか感じない。存在するは我のみ、他はもっぱら我との関係においてのみ存在する、それが盲目的な力としてであれ、自己の投影としてであれ。この段階においては生のエゴイズムは対になるものを持たず、生得の衝動が全権をふるっている。エゴイズムに対応する感情は恐怖である。しかしながら徐々に《人は自分の苦しんでいる不安を他の人々もまたもっていることに気づき始める》。霊の光が身体から放たれ、態度の変様が起る。そこでエゴイズムが憐憫に取って代られるのだが、これは他者意識の一形態にほかならない。この進展が極点に達すると、個人は自己が実在のすべてであると思うことをやめ、自分よりも他者のほうにより多くの実在を認めるようになり、この考えに身も心も捧げるにいたる。そのとき人は自己犠牲に到達するのだが、これは生きんとする本能からすると、正真正銘の倒錯といわねばならない。

 まず恐怖、それから憐憫。この一方から他方へと導く道こそが、マルセル・シュオッブがすでに『二重の心』の序文で示そうとしたところのものであった。『モネルの書』において彼はさらに歩を進め、そこに自己犠牲をつけ加えている。モネルの十一人の妹たちがわれわれに見せてくれるのは、この道に沿ったいくつかの段階なのである。

 「わがままな娘」の主人公はまだ真実の手前、意識の辺獄(リンボ)にとどまっている。彼女は他者も知らなければ自分というものも知らない。エゴイズムは彼女にあってはそのもっとも原始的な相のもとにあらわれている。利己的な娘は、外部世界が彼女から独立した実在であることも、それが彼女のためばかりに存在しているわけではないことも知らないままに、おのれの自我を表出し、それを周囲の事物に投影する。それらの事物の性質は、彼女との関係次第でよくもなればわるくもなる。それはちょうど未開人にとって神々が彼らの恐怖から生れるのと同じである。不幸な目にあっている娘が孤児院から脱け出すのに手を貸す少年水夫もまたエゴイストである、彼は雨が降ろうが娘が濡れようが、そんなことはいっこうに気にしていない。こういった態度は明らかに盲目的信念に発する。われわれを取り巻くものの使命がわれわれの欲望に応えることだとするなら──さもなければそれらに存在意義はない──なんらかの理由でその使命が果たされないとなると、われわれはそれを悪魔の横槍のせいにし、周囲の事物がわれわれに魔力を揮っていると思いこんでしまう。爾後、それらは恐怖によって君臨することになる。宇宙はわれわれをつけ狙う超自然的存在であふれ返り、それらはまるで気まぐれな神々のように、これといった理由もなしにわれわれに賞罰を与えるのである。わがままな娘の《宗教的な》性格は、彼女が《マドモワゼル》と呼ぶ婦人との関係にも現れている。そもそも彼女が逃げ出したのはこの婦人が原因なのだ、マドモワゼルは彼女を《箒の柄でひどく打》ち、《蜘蛛やら毛虫やらがうようよしてる木炭置場に閉じ込め》るが、これは娘にはとくに理由もなく、楽しみでやっているようにしか見えない。それゆえに娘はマドモワゼルを嫌うのだが、その憎悪にはまた盲信的な恐怖がないまぜになっている、《ああ、私を遠くへ連れてって、二度とあの人の顔を見なくてもすむように。私はあのとがった鼻や眼鏡がこわいの》。偶像(すなわち権威者)に対するわれわれの反抗と、偶像がわれわれに及ぼす恐るべき力とを同時にあらわすための最上の方法は、偶像を褻涜することであるが、彼女も脱出する前に冒涜的行為に及んでいる。
 
 私、出てくる前にちゃんと復讐だけはしといたわ。あの人、自分の父さんと母さんの肖像画を、ビロードの雑貨といっしょにマントルピースの上に飾ってるの。二人とも年寄りよ、私の母さんとは大違いだわ。まああんたにはわかんないでしょうけどね。で、私その絵に蓚酸カリをふりかけてやったわ。きっとものすごいご面相になったことでしょう。いい気味よ。

 この小エゴイストが復讐の対象にしようとするのは外在的な権力であり、彼女は明確な象徴的意味をもつ即物的行為によってそれを追い払うことができると思っている。彼女は偶像を汚し、さて脱出をはかる。しかしこの脱出は偽りのものにすぎない、というのもそれは遁走であって、真の意味での解放ではないからだ。逃げても逃げても、同じような亡霊が次々にあらわれて、悪意のこもった目でどこまでも彼女を追っかけてくるだろう、その恐ろしい目は、外界に投影された彼女自身のまなざしにほかならない。そして脱出の試みが失敗に終るとすれば、それは亡霊によるものというより、むしろ彼女がそれらの亡霊の存在を信じているという、その信念によるのである。亡霊の魔力はたしかにある意味で客観的な実在性をもっているが、しかしそれは、亡霊に客観的実存を与えるのが彼女自身である場合にかぎられるのだ。

 「官能的な娘」とともに、「自我」と「他者」との関係はいっそう微妙な陰影を帯びる。邪悪な力は主体にとって純粋に未知なるものとしてあらわれるのではなく、主体においてすでに内面化されたものとしてある。奇妙なコントで、そこに登場するのは男友達と青髭ごっこに興じる少女である。もちろんこれはどこまでも遊びであって、二人の間にのっぴきならぬ事態が持ち上がるわけではない。とはいうものの、これは遊び以上の何かでもある、なぜなら、ふしぎなことに話がすすむにつれて、青髭ごっこをする少女がほんものの青髭の妻にみえてくるからだ、それは主人よりもはるかに残酷な妻であり、たんに殺されたい一心で主人にたてつくのである。
 
 それで次は、あなたが私に結婚の申し込みをしたの。私の両親も大賛成よ。二人はめでたく結婚しました。さ、鍵をぜんぶ私に渡してちょうだい。《この小さくてきれいなのは何の鍵かしら》 そこであなたは太い声で、開けてはならぬぞ、と言うのよ。
 それで次は、あなたがどこかへ出かけてしまうと、私はすぐにそのいいつけを破るんだわ。

 ところでこの遊びでは少女がすべての役柄を掌握していて、自分の好きなように筋をつくり、自分の望む結末へもってゆく、その結末とは自分の死である。仲間の少年に主導権がわたされることはない。彼にはほとんど発言権がないのだ。少年は青髭のお話のとおりに物語が終ることを望んでいる、すなわち青髭の小さい妻は最後には救われなければならない。しかし少女は強引に結末を変更する。
 
 のどを切り裂くには膝まづかせなきゃならないんでしょ?
 ──たぶん膝まづかなきゃならないだろうね、と彼は言った。
 ──おもしろくなってきたわ、と彼女は言った。でもあなた、本気で私ののどを切り裂くつもり?
 ──もちろんさ、だけど、と彼は言った、青ひげはお妃を殺すことができなかったんだよ。
 ──どうでもいいわ、そんなこと、と彼女は言った。

 青髭の妻の助かったのが妹のアンヌのおかげだとすれば、妹のいない少女に助けがくるはずはない。もちろん兄たちも来ない。《兄さんたちがやってこないんだから、と彼女は言った、私を殺さなくちゃいけないわ、かわいい青ひげさん、きつく殺るのよ、とてもきつく》

 このコントにおける恐怖は、前の一篇とは異なり、もはや外部の力を盲信することから生れるのではない。恐怖はやってくるものではなく、こっちから求めるものなのだ。いけにははみずから望んでいけにえになるのであって、それが想像力の生んだ玩具にすぎないとしても、彼女がそこに愉しみを見出すかぎりにおいてそうなのである。彼女はもはやねんねではない。いまや神々は彼女の内にいる、彼女はおのれの判事にして刑吏、というわけだ。彼女はいつでも望むときに処刑を中止できることをちゃんと知っている……もしそう望むならの話だが。しかし彼女がしくじるのはまさにこの瞬間においてである。とどのつまり、すべては遊びであり、<彼女もそのことを知っているのだ>。青髭は──つまり少年は──おそらく土壇場になって彼女を殺さないだろう。それに彼は木刀しかもっていない。こうして「官能的な娘」もまた、姉の「わがままな娘」と同じく、運つたなくして自分の欲望がかなえられないままなのを知るが、二人の不満のあり方は異なっている、つまり「わがままな娘」のほうは事物を神にしたのが間違いの元であり、「官能的な娘」のほうは自己の内部に神々を宿したことが間違いの元なのである。

 次に登場するのは「よこしまな娘」ことマッジだが、彼女は青髭の小さい妻とは好対照をなしている。残虐性は、他者に向けられればサディズムになる。風車小屋の娘の登場とともに、外部の世界は人間の活動地盤として存在しはじめるが、少女マッジはまだ四分の三は内面の世界に埋没したままなので、その世界意識は化け物じみた想像のかたちを取るのである。われわれを取り巻く世界はもはや運命を決する暗黒の力としては感じられないが、かといって自己を支配する内面的な力に優位を与えるために根源から否定されるわけでもない。一杯の水を乞いにやってくる乞食はマッジにとって現実に存在するものである。乞食はマッジとは独立に存在している。彼女はこの還元不可能の現実を目の当りにして、嘔吐の感覚をおぼえるが、この感覚はその後もしばしば言及される。《彼女は乞食が好きだった。もっともそれはひきがえるや、かたつむりや、墓地に対する好みと同様、多少の嫌悪の気持が混じっていたが》

 残虐性は、未熟な精神にあってはごく自然な態度、つまり事物の抵抗と、それらの事物と向き合うわれわれの実在とを同時に感じとる態度であろう。たとえば、もがき苦しむ虫をいじめて遊ぶ子供の場合。これは厳密には遊びというよりひとつの体験なので、子供は嫌悪感をおぼえながら、その嫌悪感そのものに激しく魅了されているのだ。子供は生きている虫に──逃れようと懸命にもがくのは生きている証拠、執念く生きている証拠だ──自分の力をふるうのが楽しくてたまらないのである。この子供は実力を行使している。マッジも実力を行使したいと願う。しかし上述のごとく彼女の意識はいまだに半睡半覚の状態なので、彼女は世界に対して現実的な力を及ぼすわけにいかず、その行為は想像の領域から脱け出せない。彼女にできるのは、乞食のパンを盗み、夜になって腹をすかせた彼が沼で溺れるのを期待することだけだ。夜になってからマッジは乞食を探しに行き、お話にある巨人のようにその骨を挽いて粉にし、死人の骨でパンをこねるだろう。

 《当てがはずれた娘》ことバルジェット、この水門管理人の娘とともに、われわれはさらに一歩を進める。彼女もまた夢にとりつかれた娘であり、ここに展開するのもやはり個人と外界との軋轢の物語であるが、しかしここでは外界は新たな次元のもとにあらわれる。それは直前のコントでのように想像力の気まぐれに左右されるものではない。じっさいのところ、現実はマッジにとってなんら否定すべきものではなかった。たとえ彼女が乞食の死体を発見できなくても、それは乞食が沼で溺れなかったことの確たる証拠にはならないのだ。バルジェットの場合はその反対である、《お日さまが出る》国、《緑の蠅や青い蠅がいて夜の闇を照らす》国、木の枝にパンがなる国へ行くために、こっそりと運搬船(バルジ、荷足船)に乗りこんだ娘は、現実が夢とは似ても似つかないことをいやでも見なければならない。
 
 それというのも、太陽が陽焼けした小さい窓ガラスごしに楽しげな光の輪をいくら床の上に投げかけても、またかわせみが水の上に飛び交ったり、燕が濡れたくちばしを動かしたりしたところで、彼女は花の上に住む鳥も、樹に登った葡萄も、ミルクをいっぱい満たした大きな胡桃も、犬のような蛙も見たわけではなかったのだから。

彼女がいくら《嘘つき! あんたらみんな嘘つきよ!》と叫んでも、夢の世界に助けを求めても、現実は彼女に消えない烙印を押したのだ。にもかかわらず、彼女が語っている国はこの世のどこかにあるに違いない、しかしどこに? 以後の彼女の生は長い探求の旅とならざるをえない、運さえよければ、いま少し南へ下れば、おそらくミルクの入った胡桃のなる、驚くべき土地が見つかることであろう。

 《野生の娘》はシュオッブのコントのうちでも解釈のむつかしいものの一つである。樵夫の娘のビュシェットがある日森の洞窟の奥で見つけた緑色の娘とはいったい何者なのか? 言葉を覚えようともせず、火を怖がるこのやさしい、感じやすい娘は、森の神の眷属であろうか、それとも森そのものの精でもあろうか? あるいはむしろビュシェット自身のやさしい、思いやりのある魂、この野生の娘と奇妙によく似ていて、しかも奇妙に違っているビュシェット自身の理想化された魂のあらわれとみなすべきか? 《この子は私にそっくりだ、とビュシェットはつぶやいた、それにしても変な色をしてるわ》 このコントでは新しい要素が顔を出す、それはまだ「慈善」と呼べるようなものではないが、しかしすでにみずからの限界を超えんとする自我の《拡張》のひとつではある。ビュシェットと彼女の緑色の妹との間に、憐憫にもとづいた関係が成立する、それは双方向の関係であって──これまで見てきたコントのように一方向の関係ではなく──そこでは互いが相手の生のうちにみずからの生の意味を見出すのである。《緑の悪魔っ子》がビュシェット自身の魂のあらわれだとしても、その間の事情は変らない、ただやや曖昧になるだけである。おそらくは魂の不完全な《拡張》でもあろうか……ところでビュシェットが悲しんでいたとき、彼女の妹がやってきて彼女の手をとったあの晩に、二人がそれを追い求めて家を脱け出した《未知の自由》とは何であろうか? これは永遠の謎だ。もしかしたらたんに夢の世界を指すのかもしれないが……

 《健気な娘》ことジャニーもまた探求の旅に出るが、彼女が探すのは、水夫になって彼女のもとを離れていった恋人である。ジャニーはマルセル・シュオッブが喚起した少女たちのなかでもとびきり愛らしい娘の一人である。彼女はジュール・ルナールがモネルの妹たちについて讃美した花や鳥の性質をことごとく備えている。彼女は優雅でメランコリックな幻のようにあわられ、われわれの目の前を通り過ぎてゆく、その姿は非常に軽いタッチで描かれているので、人間の女というよりは妖精か仙女のようにみえる。もちまえの明るさと指につけた金の指輪とのおかげで、粗野な連中にも怖じることなく旅をつづける彼女は、彼らからキスは受けても自分からはけっして返さない、《というのも、恋をしている女が恋人に内緒でキスをし返すと、そのしるしが血の痕になって頬にあらわれるからである》。ジャニーにあってはマルセル・シュオッブのいわゆる《自己の生の拡張》が十全になされていて、彼女に接すると娼婦でさえも(こちらは正真正銘の娼婦たちで、娼家を旅館と称してジャニーを迎え入れるのだが)、失われた純粋さをじゃっかん取り戻し、いっときにせよ子供のころの夢にふけるのである。そして翌朝宿を出て行く彼女は、もちろん恋人がまだずっと遠くにいることは承知しているが、彼の心へつづく道は見つかるだろうと思っている、なぜなら彼女はいまや余分に四つの指環を左手にはめているからで、それらの指環は、娼婦たちがそれぞれの思いを託してジャニーに贈ったものであった。
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by sbiaco | 2010-01-24 13:10 | 附録