19世紀末のフランス作家マルセル・シュオッブ(Marcel Schwob)の「モネルの書」の翻訳とその周辺


by sbiaco

モネル探求(第三章、後半) - ジョージ・トレンブリ

 つづく何篇かのコントとともに、外界と夢とは密に混ぜ合わされ、互いに反応しあい、ときには幻想が、ときには現実が勝利を収める。とはいうものの、走馬灯のような夢と、いかにも現実らしく見えるものとのどちらに真の幻影があるのかは必ずしも分明ではない。イルセが嫉妬するのは、その中にもうひとりのイルセがあらわれる自分の鏡に対してだろうか? 幻影の力は強く、それは彼女の生活をめちゃくちゃにし、徐々に彼女から恋人を奪い、ついには彼女を死に至らしめる。一種の蜃気楼といえばいえるかもしれない。しかし存在すべてを呑みつくすほどの蜃気楼とは、これまたおそるべき現実の一つだとはいえまいか?

 ここでいう鏡は(後に「冷ややかな娘」ことモルガーヌ姫の話にも出てくるが)、この世の彼方にある実在のしるしというよりも、むしろ罠の一種にみえる。鏡に見入るものは自分の映像(かげ)に心をうばわれ、己のうちに己を失うのだ。《死物はものの姿をゆがめて映す鏡のようなものだ》とすでにモネルが言っている。ナルシスは鏡に映る自己に見入った。鏡像の誘惑はだれしも身におぼえがあるだろう。ある者はその誘惑に屈してしまう、たとえばシュオッブが『黄金仮面の王』のなかでその話を語っている《ミレトスの女たち》や、鏡の反映に自己の啓示を待ち設けるモルガーヌ姫のように。またある者は魅了されながらもその欺瞞に抵抗する。鏡を抹殺するもっとも過激なやり方は、もちろんそれを打ち砕いてしまうことである。しかしそこまで徹底した人間はほとんどいまい。鏡の誘惑と反撥とのあわいに生きる人、自己の喪失にも分身の喪失にもひとしく不安をおぼえる人、そういった人々は、欺瞞にみちた鏡面に覆いをかけることでとりあえず心の平静を得る。それは鏡がそこにあることを知りながらそれを見ないための方法なのだ。イルセが行ったのもこのやり方である、《イルセは白くて薄いリンネルの布で鏡に覆いをした。そして最後の小さい釘を打ちこむために端を少し持ちあげてから、「さよなら、イルセ」と彼女は言った》

 アンドレ・ジッドによれば、マルセル・シュオッブ本人もこんなふうに鏡に覆いをかけていたらしい。ジッドの証言は、彼がこの奇妙な話題を一度ならず取り上げているだけにいっそう興味が深い。シュオッブがユニヴェルシテ街に居を構えていたアパートを思い出しながら、ジッドはこのように書いている、
 
 その部屋には、私の覚えているかぎり、たしか小さいマントルピースがひとつあった。そのマントルピースだか家具だかの上に、鏡がひとつ置いてあって、これに布か紙で作った覆いがすっぽりかぶせてあった。シュオッブはすぐに、彼が鏡というものを嫌っていること、少なくともそこに映った自分の顔を見るのが嫌いなことを私に説明してくれた。

 そしてジッドはあっさりとこう結論している、《おそらく彼は鏡に映った自分が醜いことを気に病んでいたのだろう》と。しかしそうだとしたら、どうして自室に鏡を置く必要があろう? いっそ部屋から鏡を取っ払ってしまったほうが捷径ではないか、ことに覆いというものが、その<下に>鏡があることをいよいよ強く意識させるものでしかないとすれば。けっきょくシュオッブは、イルセと同じく、他者としての自己をたじろがずに見るか、それともその他者を身辺から遠ざけて存在しないものとするか、そのどちらとも意を決することができなかったのだ。それというのも、イルセが同じように《白いリンネルの布で》鏡を覆ったとしても、鏡の婦人は依然としてその薄い錫の膜の向うで生きつづけているのみか、姿が見えないだけにその存在はますます脅威的なものとなりまさるのである。覆いをかけられた鏡は鏡の不在を意味しない、それは一個の仮面である。

 《夢を追う娘》がわれわれに示すのは、自己のイメージではなく、外部のオブジェに心をうばわれて狂っていく人の落胆である、じっさいマルジョレーヌの七つの壷はオブジェ以外の何物でもない。マルジョレーヌはこれら埃をかぶった七つの古い壷に魔法の力が宿っていると信じている。彼女の家屋敷はいまは魔法使いに占拠されているけれども、そのうち王子様があらわれて魔法使いを退治し、彼女はその王子と結婚して家屋敷はふたたび自分のものとなるだろう。彼女はこういった確信を七色に光る七つの壷から得たのだが、この壷を作った彼女の父その人がすでに《夢の紡ぎ手》であった。そしてこの七つの壷を愛するあまり、彼女はジャンというりっぱな若者との結婚を断念する、ジャンはマルジョレーヌにひそかに思いを寄せていて、彼女から色よい返事を期待していたのだが。マルジョレーヌの過ちは、自分ひとりが胸のなかに納めている神秘の啓示を事物に期待したことである。その過ちに気づいたとき、彼女は夢想の容器である七つの壷を次々に打ち壊していく。しかし時すでに遅し、ジャンはすでに立ち去ったあとである。マルジョレーヌもまた、約束を守らぬ事物の見かけにだまされて、まんまと罠にはまってしまったのだ、というのも約束するのは事物ではなくわれわれのほうなのだから。エゴイズムから憐憫への道は、他者との出会いを契機として、自我がそれ自体から脱け出して拡がってゆくことを要求する。もしその途上で道に迷うなら、それは人が往々にして思うように、現実をさしおいて夢を選んだからではなく、両者を混同したためである。非実在を、それがあるがままに受け入れ、決然と選び取る人々は、彼らの夢が実現されることを期待もしなければ望みもしない。それゆえに、われわれがこれまで見たように、またこれからも見るように、モネルは断固として実在を放棄する立場を説くのである。しかるにマルジョレーヌにとっては王子は実在していて、彼女の家屋敷も《アフリカの黒い沙漠》のどこかにある。王子はいつかやってきて彼女と結ばれるだろう。たしかに王子は王子である時空に存在し、ジャンはジャンである時空に存在する、問題はただそのふたつの時空が同じ事象性をもっていないことなのだ。

 《願いがかなった娘》ことシースはマルジョレーヌとは対称的である。彼女もまた夢を、シンデレラの夢を生きていて、やはり王子様を待っている。ただし彼女は幸運にも目をさまさない、その点では姉の「夢を追う娘」よりも夢への信念が深いというべきだろう。そしてこの信念の深さが、皮肉にも彼女を真理の近くへ位置せしめるのである。彼女に近づいてくる霊柩車は王子の馬車で<あり>、そこから立ちのぼる饐えた匂いは彼女には芳香で<ある>。《王子さまの御者は金のかぶりものをつけている。重そうな長方形の箱にはきらびやかな婚礼の装身具がぎっしり詰まっているんだろう》。彼女がそう望んだからこそ、事物はこのようなものとしてあるのだ。

 だれをも愛さぬ姫君、《冷ややかな娘》ことモルガーヌとともに、現実はこの上なく奇妙なかたちでふたたびわれわれの前にあらわれる。外部の世界が整合性を獲得するにつれて、今度は自己の実在性がもはや確たるものとして感じられなくなる、それがモルガーヌの場合である。彼女は次々に新たな鏡を覗きこみ、自己を探し出そうとするが、それはどこにも見つからない。《彼女の願いはただ自己を愛することだけだった、しかし鏡に映る影には沈静で手の届かぬ冷ややかさがあった……磨きあげられた緑金の薄板にしろ、重々しい水銀の鏡面にしろ、それらはモルガーヌにモルガーヌを映し出してはくれなかった》

 自分がだれなのかをいったいどうやって知ればよいのか──自分が何物かであるのかどうか、それすら不明なときに? 彼女にとっての自己とは、さしあたっては虚無、自己の不在としか感じられない。彼女はこの《冷たいまっしろな心》、自己の底にぽっかりと開いた穴がほんとうの自分ではないことを知っている。けれどもこの世のどこかに、モルガーヌにモルガーヌを映し出してくれる《まことの鏡》があるに違いない。そこでモルガーヌは探求の旅に出る。このコントの恐ろしい皮肉は、彼女がついに自己を見出すことである。《まことの鏡》とは洗礼者ヨハネの血をたたえた銅製の盆なのであった。その鏡を見たとたん、彼女は自分が本来どういう人間であったかをまざまざと知るのだ。
 
 モルガーヌ姫がその血の鏡の中に何を見たかはだれも知らない。しかし旅の帰途、彼女の騾馬曳たちは、駕籠のなかへ引きこまれたあと、毎晩一人づつ殺されていった、いずれも喉を割られ、土色になった顔を虚空へ向けた姿で。人々はいつしかこの姫のことを「赤のモルガーヌ」と呼ぶようになったが、まことに彼女こそは悪名高い娼婦にして恐るべき殺戮者であった。

 モルガーヌにとっても、イルセにとってと同様、鏡は一種の罠である。ただしイルセは、自分と映像(かげ)との間に──たとえ上首尾には終らずとも──一定の距離をおこうと努める、いっぽうモルガーヌはといえば、一目見たとたんその映像に圧倒されてしまい、その結果彼女は血鏡に映じたものに「化してしまう」のである。彼女にのりうつって生きるために、サロメが《はるかな昔から》彼女を待っていたのであった。以後、モルガーヌはモルガーヌとしてではなく、サロメとして行動する。そしてこうした代償と引き換えに、彼女は自己の実在性を認識し、その冷たい心の奥底にひそむもの──それまでは無縁だと思っていた官能性や残虐性──を知ったのであった。

 さて、モネルの妹たちのうち最後の一人を残すのみとなった。われわれは《エゴイズムや、官能や、残虐さや、高慢さや、忍耐や……にとりつかれ》ている娘たちを見てきた。リリーがとりつかれているのは憐憫、あるいは憐憫以上のなにものかである。ある晩のこと、不治の病に倒れた友達のナンを癒すことができるのはマンドジアーヌ女王だけだという夢のお告げを受けた彼女は、どこか遠い国に住むというこの女王を尋ねる旅に出る。長年月を費やして探すものを得た彼女が故郷に戻ってみると(マンドジアーヌは薬草であった)、ナンはとっくの昔に病気が治り、すでに結婚していた。リリーはもうお婆さんになっている。彼女の自己犠牲は無意味だったのだ……しかしはたしてそうだろうか、いや、そうではあるまい、われわれは、リリーの物語を皮肉なコントとみなす人々には与することができない。たしかにリリーの試みは失敗に終った、なぜならナンはその薬草の助けなしに治ってしまったのだから。しかし彼女が探求の旅に出たのはおそらく無駄ではなかった。玄妙な代償の法則によって、ナンが治るためにはりリーの自己犠牲が必要だったといえないだろうか? この解釈の正当性を示すのは、ナンの病気が治ったのは、いずれにせよ奇蹟だとしか思えないことである。往診にきた医者たちは、《手をつくした診察の結果》、おそらく彼女は寝たきりで二度と歩けないと診断を下したのではなかったか。マルセル・シュオッブはこの問題にはっきりした回答を与えていない、それは読者のめいめいが考えるべきことである。

 これら一連のコントに共通する要素として、重要なものを二つあげておきたい、すなわちどのコントもある探求の物語であること、そしてその探求の担い手が少女であることである。探求は数時間で終るものもあれば、数年かかるもの、あるいは一生を費やさねばならぬものもある。探求が遊びのかたちをとった例をあげると、たとえば青髭の小さい妻の場合や、またシースの場合もある程度まではそうだろう。探求がいっときの冒険、あるいは冒険の一刹那のかたちをとることもある、たとえば風車小屋の娘の場合。また探求すなわち旅というかたちをとることもある。この旅という象徴は、たしかにもっとも伝統的であり、解釈の容易なものでもあるが、マルセル・シュオッブはこの旅のトポスをことのほか好んだ。いっぽうこれらの物語の生起する時と所はといえば、一篇づつそれぞれ異なっている。現代のフランスを舞台にしたもの(《官能的な娘》、《よこしまな娘》)、そのうちでも特にブルターニュ地方を念頭においたもの(《わがままな娘》)、はっきりと特定できないがどこかの北国を背景にしたもの(《当てがはずれた娘》)、外国ではまず英国(《われとわが身を投げうつ娘》)、それから古代オリエント(《冷ややかな娘》)、あるいは時代も地域も特定できないもの(《野生の娘》、《夢を追う娘》、《願いがかなった娘》)など。《われとわが身を投げうつ娘》の場合は、シュオッブが意図的に取り入れた古語法(《l'hiver qu'il fait froid...》や《par grande consultation...》や《lors elle s'ecria...》など)のみが、漠然とではあるがこの挿話にそれらしい雰囲気を与えている。とはいうものの、そんなことは些事にすぎない。われわれとしては、モネルの十一人の妹たちがめいめいの仕方で光をあてるのがただ一つの主題、探求という主題であることを銘記しておけばそれでいい。

 しかし何を探求するのか、と問う人がいるかもしれない。それは必ずしも一言でいえるようなものではないし、モネルの妹にしても、その幾人かは自分でもそれが何なのか知らないのである。ピエール・リエヴルが言うように、彼女らは《まだほんの子供であり、その心にうごめいている感覚や情動にせよ、ほとんど意識の表面に顕在化していない》のだ。悪徳、残虐性、異常といった面においてすら、彼女らは無意識に由来する言語以前の無垢を保っていて、まさにその無垢によって悪をなすのである。じつのところ、彼女らは悪の何たるかを知らない。善とか悪とかいった倫理範疇は彼女らの知るところではない。彼女らは未知の力に促されて衝動的に行動するが、その必然性を自分では分析しようとせず、また分析できもしないのである。われわれは彼女らに代ってそれをやってみた。しかし確かなことは、小さいエゴイストや、青髭の妻や、よこしまな娘マッジが自分たちの行為の意味を知らないのと同じく、ジャニーやネリーも彼女らを駆って貞節や献身の行為へ赴かせる動機については何も知らないのだ。しかしだからといって、彼女らがみな無意識の同じ水準にいると結論する必要はあるまい。これまで見てきたことからも明らかなように、マルセル・シュオッブが描こうとしたのは、彼女らが次々にたどる道そのものであり、その探求は彼女らを超えて、彼自身の探求へと導くものであった。
[PR]
by sbiaco | 2010-01-23 13:15 | 附録