19世紀末のフランス作家マルセル・シュオッブ(Marcel Schwob)の「モネルの書」の翻訳とその周辺


by sbiaco

モネル探求(第四章) - ジョージ・トレンブリ

第四章: 《モネル》


 この本の第三章では、モネルの生涯の軌跡が幻のように立ち現れてくる、それはあまりにもはかない一生だったが、シュオッブはこの章において彼が愛した少女の顔の捉えがたくも多彩な諸相を喚起するのである……それはなじみの顔というより夢のなかでちらりと見た顔、薄暗がりで見かける事物に特有のくっきりした輪郭をもった顔、長くはわれわれのもとに留まれないことを知っている人々の、物憂げな笑みを浮かべた蒼白な横顔だ、そしてモネルはここに最後の転身をとげる、モネルがモネルとして受肉するのである。ここでのモネルはもはや第一章の彼女ではない、そのおもざしはいっそうあえかに、いっそう穏やかになっている。かつての衒気は影をひそめ、代りにそれとは別の確信が彼女に輝きを与えている。おそらく第一章での彼女はやや知的でありすぎたのだ、あえていえば独断的でありすぎた。いまや彼女は墓の向うから語る、その声は新しい調子を帯びていて、この独特の懐かしい調子は、すでにヴェルレーヌが耳にし、《無言の声の懐かしき恋しき節の鳴り響く》と歌ったのと同じ類のものである。

 それでは彼女は死者の霊なのか? それがよく分らないのである。彼女は絶えず生と死との間を往還していて、おそらくは生でも死でもない中間領域にいるのだが、そこは非実在の事物の形見の集積所である。われわれがこれから見るモネルは、人間的な皮を脱ぎ捨て、いわば尸解して最後の転身に備える、すなわち彼女の再来、遁走、そして不在の相のもとでの最終的な回帰である。いまや彼女はその教説を成就するためにやってくる、そして恋人に真の救いの道を示そうというのだ、それはモネルの妹たちのだれにも見出せなかった道である、というのも彼女らは自分自身をすら《見出すことができな》かったのだから。

 『モネルの書』の終章を構成する六つのエピソードは、一見したところ、第二部のコント群よりは全体的にまとまっているようにみえる。そこには色調と雰囲気との統一がはっきりと認められる。雨と霧と夜の雰囲気、そしていっときその闇を照らすふしぎな小さいランプ。シュオッブは《モネルの言葉》で語ったテーマをもう一度とりあげてそれを敷衍し、象徴へと変様させるのである。

 この本全体のうち、真正な意味で自叙伝的といえるのはこの第三部だけだということについては、すでに少なからぬ人々が論じている。じっさいどこかにルイーズの面影を探し出そうというのなら、この部分をおいてほかにない。しかし、『モネルの書』のこの逸話的な面はもっと大きな意味合いをもっているので、そこではモネルはルイーズを超えた何者かであり、同じく作中の恋人もマルセル・シュオッブを超えた何者かであるということを忘れるべきではないだろう。この章がきわめて個人的なもので、仲間内ですすんでやる打明け話めいたところがあり、意図的にざっくばらんな調子をとり、その記述にほとんど技巧のあとが見られないように工夫されているとしても、全体として見るならば、やはり彼に霊感を与えた口実以上の何物かなのである。マルセル・シュオッブが文学者であること、それも非常に意識的な文学者であることを銘記しておこう。そして自覚的と否とを問わず、いかなる文学者も、結局のところは一人称では語らないものなのである。《君はすべてを語ることができる、ただし「私は」と言わないかぎりにおいてだが》とプルーストが断言している。じっさい文学者はけっして「私」とはいわない、彼にとって「私」とはつねに他者なのである。作家の実生活などというものは、作品を作るための素材にすぎない。未定形で粗雑な最初の素材、作家が理念的統一への還元によってそれに意味を与えないうちはいかなる真実を表現するにも適さぬものであって──その統一というのは、作家の現実的生活にはどこにも見出されないものなのである。マルセル・シュオッブはこういったことを熟知していた。彼は『モル・フランダース』の翻訳の序文で、デフォーの小説を作者の個人的体験の象徴的な転換とみなし、そこに見られる寓意的な面を分析しながらこのように書いている。
 生を芸術的に表現するために、おのれの生を思考によって絶対的な単純さにまで還元したあとで、彼〔デフォー〕は象徴的表現を幾度となく変形し、それをさまざまな人間タイプに当てはめた。

 マルセル・シュオッブの行ったこともこれと同じである、『モネルの書』は彼のもっとも直截な告白の記録であると同時に、もっとも寓意的な作品でもあるのだ。

        ***

 『モネルの書』はおそらく様々な解釈を許すだろう。じっさい最後のページで著者は、愛し、苦しみ、働くために娑婆世界へ立ち帰ることによって、それまでの教説を撤回しているようにみえる。そうすると、「モネル」は皮肉な作品──そしてある点までは反象徴主義的な作品ということになるだろう──マルセル・シュオッブはここで象徴派の仮面をかぶりながら、この派が振りかざす真理、つまり夢と想像とが現実以上の実在性をもつという真理に真向から対立していることになる。雨の降る夜の闇を照らしながら、大きくなるのを嫌がる子供たちにいっときの慰安を与えるモネルのランプは、けっきょく欺瞞を売っていることになる。そもそもこれらのランプは子供と人形のためのものであって、大人のために燃えるわけではないのだ。ランプの目的は──これまた欺瞞的なものだが──過ぎ去ってゆく少年期をほんのひととき長引かせることにある──そしてその少年期は子供たちの顔が鏡に映っているあいだだけしか続かないのである。

 子供たちがたえず遊びまわっているモネルの家、(この本の初めのところで彼女が語る福音に沿ったかたちで)一切の仕事が閉め出されている家は、《窓が塗り塞がれてい》て、そこでみなが享楽している喜びは偽りの喜びにしかみえず、そこでの暮しは生そのものからのまったき逃避の観を呈している、《その家はまるで牢獄か施療院のようにみえた。牢獄といっても、それはいとけない子供たちがつらい思いをせずにすむように彼らを閉じこめておく場所であり、施療院といっても、それは生活のための労働という病を癒す場所ではあったが》

 いっぽう、《遁走》したモネルが死後そこへ逃げ込んだ「白の王国」、欺瞞的な声の導きにより不幸な恋人たる語り手が入ることを許されたこの王国は、しかしながらまったく接近不可能にみえる。ひとはその王国へは悲しみによっても、暴力によっても、思い出によっても、思考によっても入ることができないのだ。そこで彼はこれらすべてを自分の内で打ち壊すが、それでもまだ入ることができない、というのも、その王国は《まっしろな壁で閉ざされてい》て、彼は最後まで鍵を渡してもらえないのである。

 要するに、最後の章が示しているのは詩人の現世への帰還であって、彼はいま一度《生れたばかりの嬰児の無知と錯覚と驚きを学ぼうと》つとめたが、その努力は無駄に終り──その試みを最後に、彼は決定的に生の道を選び、新しくできた現実の恋人とともにその道を行くのである。《そのとき、ルーヴェットに記憶がよみがえった、彼女は愛すること、苦しむことを選んだのである。彼女は白い着物のまま私のところへ戻ってきて、私たちは二人ながら野原を横切って遁れ去ったのであった。》

 そうするとモネルの探求は現実への回帰によって終末を迎えることになる。見せかけの国々を経巡り、それらを次々に却下しながら続けられたこの長い探求の旅の終局に待ちうけていたのは、まさに現実だったことになる。こうしてモネルは生の道が避くべからざるものであることを恋人に示しながら、そこへと彼を連れ戻す。とどのつまり、彼女の教説は一種の背理法であったわけだ。

 しかしながらこの解釈は唯一無二のものではなくて、同じ前提から出発してまったく正反対の結論に達することも可能である。真の実在とは想像力の欺瞞の謂であって、見せかけとは目にみえる世界の諸現象にほかならない。こういった説明は一見逆説的に思われるかもしれないが、この書物のいくつかの重要な要素に対する配慮の点で、如上の説に優っているともいえるだろう。

 まず最初に、マルセル・シュオッブが最後にモネルの教説を放棄したと断言するのが正しいかどうか。その教えの本質的なテーマ──中心的テーマではないにしても──が、あらゆる所有を捨て去ること、いかなるものにも留まらないことであるとするなら、というのも停止はすなわち死を意味するからだが(《どんな愛も長引けば憎しみになる、どんな公正さも長引けば不正になる》)、上に述べたモネルの否認にはまったく別の意味があることが明らかになるだろう。生への回帰は彼女の言葉の否定ではなく、その成就なので、そのことは彼女自身が書物の初めに告知していて、最後のページでも繰り返していることなのである、《すべてを忘れよ、そうすればすべてはお前に戻ってくるだろう。モネルを忘れよ、そうすればモネルはお前に戻ってくるだろう》 その理由は、真の所有とは永続性のなかにあるのではなく、所有されたものを超えんとする不断の運動のなかに見出されるべきものだからだ、モネルは恋人のもとを去るからこそ彼に忠実なのであり、彼はモネルを否認するからこそ彼女に忠実なのである。

 このあらゆる瞬間の破壊、あらゆる形態を次々に脱け殻として放棄する連続的脱皮が、『モネルの書』のもうひとつのテーマを構成する、すなわち転身のテーマである。

 このテーマは、本書の第一章と第三章においてマルセル・シュオッブがはっきり示したところのもので、第二章はその例証となっている、というのも、モネルの妹たちは著者によって唯一者モネルの数々の化身として紹介されているからだ。《いずれあなたを私の妹たちのところへ連れてってあげるわ。妹たちは私そのものであり……》

 転身のテーマは、明快な比喩により二度にわたってはっきりと言及されている。《モネルの言葉》と《彼女が耐え忍んだこと》から、その箇所を引こう。
 蛇が古い皮を脱ぐように、精神は古い形式を投げ捨てる。
 古い蛇の皮をこつこつ集めている人々を見ると、若い蛇は悲しい気持になるけれど、それはそういう収集家が若い蛇には一種の魔力をもっているからなの。
 というのも、古い蛇の皮をもってる人々は、若い蛇が変様しようとするのを妨げるのよ。
 そんなわけで、蛇は奥まった藪の緑の水路で脱皮をし、年に一度若い蛇が集まって輪になり、古い皮を燃やすの。

 眠りにつく前は〔とモネルは言う〕、私はあなたのいう「小さいおばかさん」だったわ。だってまるで裸の芋虫同然だったんだもの。いつだったか、私たちはいっしょにまっしろの、絹のようにすべすべした、どこにも孔のあいていない繭を見つけたわね。いたずら好きのあなたはそれを割いてみたけれど、中は空っぽだった。羽のある虫がそこから出て行ったんだって、あなたは思わなかった? でも、どうやって出て行ったのかはだれにもわかりはしないわ。虫は長いあいだ眠っていたのよ……

 だれしもすぐに気づくように、第一の例では、真の転身というよりむしろ変様が問題になっている、もっともこの二つは象徴的には似たようなものであるが。

 いっぽう第二の場合に問題になっているのは、まさしく自己の転身である、それは彼女の言によれば《待つこと》であって、それは「白の王国」、すなわち死における最終的な解脱を待つことを意味する。

 しかし転身は、同時に彼女の恋人のそれでもなければならない──彼にとっての待つことであり解放であり、測り知れない叡智に満ちた現実世界への回帰でなければならない。というのも、モネルの王国は、それが想像力や愛や子供の笑顔、もしくは憐憫の情動によってわれわれの目に見えるものとなるかぎり、どこにでも存在するからである。この王国が欺瞞だとしても、少なくともそれは夜の闇を照らす嘘つきのランプと似たような意味合いでそうなのだ。「モネルの書」は、レーモン・シュワーブが適切に述べたように、《少女によって口述された欺瞞の福音書である》。シュワーブはさらにこう述べる、《モネルとその妹たちの家では、想像力こそが現実を裁くのである》。じっさいこうも言えるだろう、マルセル・シュオッブはその探求の結末で夢と現実との矛盾を超え──モネルの妹たちはまさにこの矛盾を生きているのだが──いっときにせよある統一、ある平衡に達したのだ、と。もちろんこの平衡は不安定なものでもかまわない、なぜならどんな平衡も長くつづけば不均衡になるのだから!

 もしかしたら、モネルその人がひとつの嘘、あらゆる嘘のうちもっとも美しい嘘だったのかもしれない……
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by sbiaco | 2010-01-22 23:00 | 附録