19世紀末のフランス作家マルセル・シュオッブ(Marcel Schwob)の「モネルの書」の翻訳とその周辺


by sbiaco

カテゴリ:III.モネル( 6 )

 暗い雨の降るなか、いったいどういうわけであの奇妙な店にたどりついたのか、自分でもよくわからない。その店は夜の闇のなかから私の前にぼうと出現した。どの町でのことだったか、いつのことだったかも定かでない。ただ、それが雨の降る季節だったこと、それもひどく降る季節だったことを覚えている。
 確かなのは、ちょうど同じ時期、大きくなるのをいやがる子供たちが街路をうろついていたことだ。七歳の少女たちは膝まづいて、これ以上年を取りたくないと哀願していた。思春期はすでに死の宣告のように思われたのだ。鉛色の空の下に薄ぼんやりとした白い行列があらわれ、一群の小さい影法師が子供たちに無言の励ましを送っていた。彼らが心から望んだのは永遠の無知であった。いつまでも遊んでいられればどんなにいいかと思っていた。生活のために働くことを思うと目の前がまっくらになった。彼らにとっては過去がそのすべてだったのだ。
 そんな気の滅入るような日々、ひどく雨の降る季節に、あのランプ売りの少女の発するちっぽけなすすけた明りが私の目にとまったのである。
 私は軒下に近づいて、雨が首筋を伝うのもいとわず頭を傾けた。
 そして彼女にこう言った。
 ──雨の降るこんなさびしい季節に、そこで何を売っているのかね、売り子の嬢ちゃん。
 ──ランプよ、と彼女は答えた、ここにあるのは火のついたランプだけよ。
 ──しかし、こりゃなにごとかね、と私は言った、火のついたランプといっても、大きさは小指くらいしかないし、その光も待ち針の頭みたいにかぼそいじゃないか。
 ──そりゃあ、と彼女は言った、この薄暗い季節のランプですもの。もとはお人形のランプだったのよ。いまの子供は大きくなるのをいやがるでしょ。それで、せいぜい薄暗い雨を照らすだけのランプを子供たちに売ってるの。
 ──じゃあ君はそんなふうにして生計を立てているわけなんだね、と私は言った、黒い服の売り子の嬢ちゃん、君は子供たちが払ってくれるランプの代金で食べていってる、と?
 ──そうよ、と彼女は簡単に答えた、でもほとんどお金にはなりゃしないわ。だって、この小さいランプを子供たちに渡そうとして手をのばすと、たいていいやらしい雨が火を消してしまうんだもの。ランプの火が消えたら、子供たちはもう見向きもしやしない。火が消えたら一巻の終り。いまあるのはこれだけよ。ほかのは捜したって見つかりっこないわ。でも、ランプが売れたら売れたで、今度は雨の降る暗がりでじっとしてなきゃならないんだわ。
 ──そうすると、このランプは、と私は語をついだ、このうっとうしい季節を照らすたったひとつの明りだというわけだね。それにしても、こんなに小さいランプでこのじめじめした闇をどうやって照らすというのかね。
 ──雨が降るとたいてい火が消えてしまうから、と彼女は言った、野中や町中ではランプはもう何の役にも立たないわ。家に閉じこもらなくちゃならないのよ。子供たちは私の小さいランプに手で覆いをして家に閉じこもるの。めいめいがランプと鏡をもって家に閉じこもるの。そうすれば小さいランプでもじゅうぶん鏡に顔を映せるでしょ。
 私はしばらくのあいだ、ちらちらと燃えるみすぼらしい焔を眺めていた。
 ──それにしても、と私は言った、売り子の嬢ちゃん、これは寂しい光だね。鏡に映る影もきっと寂しい影にちがいない。
 ──ちっとも寂しくなんかないわ、と黒い服を着た少女は首をふって言った、その影がいつまでも大きくならないかぎりは、ね。でも私の売る小さいランプはいつまでも燃えているわけじゃないわ。その焔はだんだん小さくなっていくの、まるで暗い雨になぶられるみたいに。で、私の小さいランプの火が消えたら、子供たちはもう鏡の光が見えなくなって、そりゃもうひどく悲しむわ。だって、そうなったらもういつ何時自分が大きくなるかわからないから、そのことが彼らにはこわいのよ。子供たちが呻きながら夜の闇へと遁げていくのはそういうわけなの。でも私は一人の子供にはランプを一個しか売ってはいけないことになってるの。たとえ彼らがふたつめのランプを買おうとしても、それは彼らの手のなかで火が消えてしまうのよ。
 私は小さい売り子のほうに少し身をかがめて、そのランプのひとつを手に取ろうとした。
 ──あ、だめよ、それに触っちゃ、と彼女は言った、あなたはもう私のランプが照らすような年をとっくに越えてるわ。これはお人形か子供のためにこしらえたランプなんだもの。あなたはおうちに大人用のランプをおもちじゃないの?
 ──やれやれ、と私はいった、この薄暗い雨の降るじめじめした季節に、見捨てられた陰気な空の下で、燃えているランプといえば君のこの子供用のものしかないんだよ。それに、僕だってもう一度鏡の光を見てみたかったのでね。
 ──それじゃいらっしゃい、と彼女は言った、いっしょに見てみましょう。
 いまにも壊れそうな狭い階段をのぼって、彼女は私を簡素な木造の部屋へ案内した。その壁にはきらりと光る鏡が懸けてあった。
 ──静かにね、と彼女は言った、さあ、あなたに見せてあげるわ。私のこのランプはほかのよりも光がつよいの。だから暗い雨のなかにいてもそんなにみじめってわけじゃないのよ。
 そう言いながら彼女は小さいランプを鏡へかざした。
 すると鏡に青白い反射ができ、そこに私はかねて見知った物語が走馬灯のようにあらわれるのを見た。といっても、小さいランプの映し出す影は嘘、嘘、嘘ばかりだった。まず鳥の羽毛がコーディリア姫の唇頭にそよぐのが見えた。姫はかすかな笑みを浮べ、息を吹き返した。そして老いた父とともに大きな鳥籠のなかで鳥のように暮し、彼の白い髭にくちづけをした。その次に見えたのはオフェリア姫で、ガラスのような池の水上でたわむれながら、濡れた腕に菫を飾ってハムレットの首を抱いていた。次に、目をさましたデズデモナが柳の木の下をさまよい歩くのが見えた。そうかと思うと今度はマレーヌ姫の姿があらわれ、老いた王様の目をふさいだ両手をはなしてあざやかに笑い、舞い踊った。またメリザンド姫は自由の身になって泉の水に自分の影を映していた。
 そこで私は思わず叫んだ。嘘つきの、小さいランプよ……
 ──しっ、静かに、とランプ売りの少女は言って、私の口を手でふさいだ。何もしゃべらなくていいのよ。雨はもうじゅうぶんに暗くはなくって?

 そこで私は頭をたれ、雨の降る夜のほうへ、未知の町へと立ち去った。
[PR]
by sbiaco | 2010-02-08 19:34 | III.モネル
 モネルがどこで私の手をとったのか、もうよく覚えていない。が、それがある秋の夕暮れだったことは覚えている。雨がすでに冷たくなっていた。
 ──私たちといっしょに遊びにいらっしゃい、とモネルは言った。
 モネルは前掛けのなかに古びた人形や羽子を入れていたが、その羽子の羽は痛み、飾り紐は色あせていた。
 彼女の顔は青白く、その目は笑っていた。
 ──遊びにいらっしゃい、と彼女は言った。さあ、もう仕事なんかよして遊ぶのよ。
 風が強く、地面は泥だらけだった。舗道が水に光っていた。店の軒づたいに雨水が一滴また一滴と落ちてくる。乾物屋の店先では女の子が何人か体をふるわせていた。ともされた蝋燭の火が赤くみえた。
 が、モネルはそんなことにはおかまいなしに、ポケットから鉛のさいころ、錫の小刀、ゴム毬などを次々に取り出してみせた。
 ──これはみんなあの子たちのために買ったのよ、と彼女は言った。買い物をしにいくのは私の役目なの。
 ──で、いったいあんたはどんな家をもってるの、どんな仕事を、どんなお金を、あんたは……
 ──モネルっていうの、とその少女は私の手をにぎりながら言った。みんな私のことをモネルって呼ぶわ。私たちのお家は遊びをする家なの。仕事はぜんぶ閉め出してしまったってわけ。まだ手許にあるわずかのお金はお菓子を買うためのものよ。私は毎日町を歩いて子供を探しにいくの。で、その子たちに私たちの家のことを話してあげて、それから家に連れてくるの。私たちは見つからないようにうまく隠れてるわ。大人は私たちを見つけたらむりやり家へ連れ帰るでしょうし、私たちがもっているものをぜんぶ取り上げてしまうでしょうからね。みんな、いっしょにいて遊びたいと思ってるのに。
 ──で、君たちはどんなことをして遊ぶのかね、モネル。
 ──そりゃもうありとあらゆることよ。大きな子供たちは鉄砲や拳銃を作って遊んでるわ。ほかにも羽子をついて遊んだり、縄跳びをしたり、毬投げをしたりする子もいるし、ロンドを踊る子や、手とり遊びをする子もいるわ。ガラス窓にだれも見たことのないようなきれいな絵を描く子や、シャボン玉を飛ばして遊ぶ子や、それにお人形に服を着せたり散歩させたりして遊ぶ子もいる。まだ幼い子供は、私たちがその子の指で数をかぞえて笑わせてあげるの。

 私がモネルに連れられて行った家は、どうやら窓がすべて塗り塞がれているようだった。その家は街路からはずれたところにあって、光はただ奥行きのある庭から入ってくるだけである。そこへ足を踏み入れると、早くも楽しそうな声がきこえてきた。
 三人の子供がやってきて、私たちのまわりで飛び跳ねた。
 ──モネルだ、モネルだ、と彼らは叫んだ。モネルが帰ってきたよ。
 子供たちは私を見つめてつぶやいた。
 ──やあ、ずいぶん大きな人だなあ。この人も遊ぶのかい、モネル?
 少女は彼らに答えて言った。
 ──もうじき大人の人も私たちのところにやってくるわ。そして子供になるの。大人たちは遊びを習うのよ。私たちは大人のためにクラスを開いてあげるけど、そのクラスではもうだれも仕事はしないの。みんな、お腹すいた?
 彼らは口々に叫んだ。
 ──うん、うん、そうだ、ままごと遊びをしようよ。
 そこで小さい円テーブルや、リラの葉っぱくらいの大きさのナプキンや、キャップつきの指抜くらいの深さのグラスや、胡桃の殻みたいに凹んだお皿が次々に運ばれてきた。料理はチョコレートと氷砂糖だった。が、葡萄酒はうまくグラスに注ぐことができなかった。というのも、葡萄酒を入れた白い小瓶は小指くらいの大きさしかなく、注ぎ口があまりに狭かったから。
 部屋は古くて天井が高かった。いたるところに緑色や薔薇色の小さい蝋燭があって、錫でできた小型の燭台の上にともっている。壁には円い小さい姿見がいくつも懸けてあって、まるで鏡に変えられた銀貨のようにみえる。人形は子供たちに混じるとほとんど見分けがつかず、ただそれが動かないのでようやく人形とわかるのだった。人形のあるものは長椅子に腰掛けていて、またあるものはこまごました化粧道具の前で腕をあげて髪を結っており、またあるものは銅の小さいベッドであごの上までシーツをかぶって早ばやと寝に就いていた。床には木造の羊小屋にあるようなすべっこい緑の苔が撒いてあった。
 その家はまるで牢獄か施療院のようにみえた。牢獄といっても、それはいとけない子供たちがつらい思いをせずにすむように彼らを閉じこめておく場所であり、施療院といっても、それは生活のための労働という病を癒す場所ではあったが。そしてモネルはそこでは看守であり、また看護婦でもあるというわけなのだ。
 小さいモネルは子供たちが遊ぶのを見ていた。しかし彼女はひどく青い顔をしていた。おそらくお腹をすかせていたのだろう。
 ──ねえモネル、君たちはいったい何を食べているの? と私はだしぬけに訊いてみた。
 彼女は簡単にこう答えた。
 ──なにも食べやしないわ。そんなことだれも知らないわ。
 そういうととたんに笑いだした。が、彼女はあきらかに弱っていた。
 彼女は病気の子供が寝ているベッドの脚もとに座りこんだ。そしてその子に白い小瓶を差し出して、口を少しあけたまま、しばらくのあいだ身をかがめていた。

 そこにはロンドを踊ったり、きれいな声で歌を歌ったりしている子供たちがいた。モネルは少し手をあげてこう言った。
 ──しっ、静かに。
 それから彼女はゆっくりと、ささやかな言葉を語りはじめた。彼女はこう言った。
 ──私、病気じゃないかと思うの。でもみんな行かないでね。私のそばで遊んでいてね。明日になったらだれかべつの人がきれいなおもちゃを買ってきてくれるわ。私はいつまでもみんなといっしょよ。だから、やかましくしないで遊びましょうね。しっ、静かに。もう少ししたら、野中や町中で遊べるし、どのお店でも私たちに食べ物をわけてくれるでしょう。いまのところは、私たちもほかの人たちと同じように生きていくほかないのよ。だから、どうか待っててちょうだいね。いつかいっぱい遊べる日がくるまで。
 モネルはさらにこう言った。
 ──私のこと好きでいてね。私はあなたたちみんな大好きよ。
 それから彼女は病気の子供のそばで眠りこんでしまったらしかった。
 ほかの子供たちはみんな首をのばして彼女を見つめていた。
 だれかが小さい震え声でぽつりと言った、「モネルは死んじゃったんだ」と。深い沈黙があたりを領した。
 子供たちはベッドのまわりに火のついた小さい蝋燭をもってきた。そして彼女がただ眠っているだけだろうと考えて、まるで人形に対してやるように、青くあざやかに尖をとがらせた小さい樹木のおもちゃを彼女の前に並べ、白い木でできた羊のおもちゃの間にそれらの樹を置いて彼女を眺めた。それから床に座りこみ、固唾をのんで様子をうかがっていた。しばらくしてから、病気の子供はふとモネルの頬が冷たくなっているのに気がついて、しくしくと泣きはじめた。
[PR]
by sbiaco | 2010-02-07 12:44 | III.モネル
 かつてモネルとよく遊んでいた少年がいた。それは昔のこと、モネルがまだ行ってしまわない前のことだ。少年は昼間の時間をずっとモネルのそばですごし、彼女の目がふるえるのを眺めていた。モネルはわけもなく笑い、少年もわけもなく笑った。モネルは眠っているあいだも、口を少し開いて、やさしい言葉を寝言でつぶやいていた。目がさめると、少年がやってくることを知ってほほえんだ。
 じつのところ、彼らの遊びはほんとうの遊びではなかった。というのも、モネルは仕事をしなければならなかったから。彼女はまだほんの子供だったが、埃のたまった古いガラス窓の向こうに一日じゅうじっと座っていた。向かい側の壁はセメントで塗りつぶされていて、日の光は北から寂しく差しこむだけだった。しかしモネルのきゃしゃな指はキャラコの布地の上をすばやく動きまわり、それはまるで白い布でできた街道を指が駆けめぐるかにみえたし、彼女が膝の上に刺している待ち針はまるで宿駅のありかを指し示しているかにみえた。ぐっと握りしめた右手はさながら小さい生身の荷馬車といったところで、右手が進むにつれ、そのあとにかがり縁のわだちができるのだった。縫い針はきゅっきゅっと音をたてて鋼の舌を突き出し、その金の目玉で長い糸を引っぱりながら隠れたり現れたりした。左手がまた見ものであった。それというのも、左手は真新しい布地をまさぐってその皺をやさしく伸ばしてやるので、それはあたかも病人のための清潔なシーツを黙々とベッドの縁に折りこむさまを彷彿させた。
 そんなわけで少年はなにも言わずにモネルを見つめて楽しんでいた。モネルの仕事は遊びにしかみえなかったし、モネルは他愛のないことをたえず少年に語りかけていたから。彼女は日が照ったといっては笑い、雨が降ったといっては笑い、雪が降ったといっては笑った。暖められること、濡れること、凍えることが好きだったのだ。彼女はお金があれば笑っていた。新しい服を着てダンスをしに行くことができるから。お金がなければ、やっぱり笑っていた。一週間分たっぷりとたくわえてある隠元豆を食べることができるから。わずかなお金があれば、それで笑わせてあげられるほかの子供たちのことを思い浮べた。小さい手が空っぽのときは、飢えと貧しさのうちに身をまるめ、うずくまることができるのを心待ちにした。
 彼女のまわりにはいつも子供たちがいて、彼らは目を丸くして彼女を見つめていた。しかしおそらく彼女は、昼間の時間を彼女のそばですごしにやってくるあの少年がいちばん好きだったのだろう。それにもかかわらず、彼女は家を出ていき、少年をひとりぼっちにしてしまった。彼女は自分の出発のことを一度も少年には言わなかった。ただ以前にもまして物思いに耽りがちになり、少年を見つめている時間が長くなった。少年はまた彼女が身のまわりのものに愛着を示さなくなったことにも気がついた。小さい肘掛椅子にも、人からもらった色つきの動物にも、おもちゃにも、古着にも。彼女は指を口にあててほかのことを考えているらしかった。
 彼女が出ていったのは十二月のある夕暮れのことで、そのとき少年はそこにはいなかった。手に火の消えかけた小さいランプをもち、あとを振り返りもせず、彼女は闇の中へ入っていった。少年がやってきたとき、まだ狭い街路のいちばん奥の暗闇に、かぼそいランプの焔がかすかにまたたいているのが見えた。それがすべてだった。以後、少年は二度とモネルの姿を見ることはなかった。

 少年は、どうして彼女がなにも言わずに出ていってしまったのかを長いこと自問した。彼を悲しませることで自分も悲しい気持になることを彼女が望んだとはとても思えなかった。そこで彼は、モネルは彼女を必要としているほかの子供たちのところへ行ったんだとむりやり自分に言いきかせた。火の消えかけたランプをもって、その子らに助けを与えるために、とりわけ夜の闇にあっては火花のように輝く笑顔という助けを与えるために立ち去ったのだ、と。あるいは、彼女は彼ひとりだけをあまりに愛するのはよくないことだと思ったのかもしれない。そんなことではまだ会ったことのないほかの子供たちを同じように愛することはできないから。それとももしかしたら、あの金の目玉をもった縫い針が、小さい生身の荷馬車を終点まで、かがり縁のわだちの終着点まで運んでしまったので、モネルは自分の指が駆けめぐる布地の未開拓の街道をたどるのに飽きてしまったのだろうか。おそらく彼女はいつまでも遊んでいたかったのだ。しかし少年はどうすれば遊びをいつまでも続けることができるのか分らなかった。おそらく彼女はいまごろになって、何年も前にすべての窓をセメントでふさいでしまった、あの塗りつぶされた古い壁の向こうにあるものを見たいという気を起こしたのに違いない。たぶん彼女はまもなく戻ってくる。《さよなら、待っててね──おとなしくしてるのよ》といって少年を待たせるかわりに──もしそういわれたなら、彼は廊下を伝わってくる小さい足音や、鍵穴に鍵を突っ込んでがちゃがちゃいわせる音に聞き耳をたてていただろうが──彼女はなにも言わないことを選んだのだ。そしていきなりやってきて彼の背中に飛び乗り、暖かい子供のような手で彼の目をふさいで──ああ、そうだ!──火のそばに戻ってきた小鳥みたいな声で《くう、くう》と啼いてびっくりさせようという魂胆なのだ。
 少年は彼女とはじめて会った日のことを思い出した。彼女はゆらめく白い炎のように、体をゆすって笑いながら、はずむような調子で彼の前にあらわれた。彼女の目は湖水の目で、水に木々の影が映るように、その目にはさまざまな考えが浮かんでは消えた。そこ、その街路のはずれに彼女はやってきたのだった、わるびれた様子もなく。彼女はゆっくりと響く声で笑ったが、それはクリスタルのコップの消えゆく振動を思わせた。時は冬の夕暮れで、霧が出ていた。あの店は開いていた──あんなふうに。同じ夕暮れ時、同じ周囲の事物、同じ雑踏の音。ただ歳月が違っていた、そして待つということも。彼はあたりに気を配りながら歩をすすめた。あらゆるものが、あの最初のときと同じだった。ただし彼はいまは彼女を待っていた。それだけでも彼女がやってくるのに十分な理由ではないか? 彼は霧に向かって自分のあわれな手を開いて突き出した。

 しかしこのたびはモネルは未知の境から出てこなかった。軽い笑い声が靄にひびく気配などまったくなかった。モネルは遠くに行ってしまい、その夕べのことも、その年のことももはや記憶にとどめていなかった。しかしほんとうにそうだろうか? 彼女は夜の闇にまぎれてだれもいないあの小さい部屋に身をすべりこませ、扉の蔭で胸をどきどきさせながら彼が来るのを窺っているのではないか。少年は足音をしのばせて近づき、彼女をびっくりさせてやろうとした。しかし彼女はもうそこにはいなかった。彼女は戻ってくる──ああ、そうだ──彼女は戻ってくるにきまっている。ほかの子供たちはもうじゅうぶんに彼女から幸せをもらっている。今度は彼の番なのだ。少年は彼女のいたずらっぽい声がささやくのがきこえた。《私、きょうはおとなしくしてるわ》。ささやかな言葉は絶え、遠ざかり、古びた絵具のように色あせ、思い出の輻輳によってすでに艶を失っていた。

 少年はしんぼうづよく座っていた。そこには彼女の体のあとを残した柳の小さい肘掛椅子や、彼女の好きだった腰掛や、割れてしまったのでいっそう懐かしくみえる小さい姿見や、彼女が最後に縫っていたシュミゼットなどがあった。その《モネルっていう名前の》シュミゼットは身をおこし、ややふくらみ、あるじの帰りを待ちわびているかにみえた。
 部屋にあるすべてのこまごましたものが彼女を待っていた。仕事机は抽斗が開いたままになっていた。円いケースに入った小さい巻尺は、先に環のついた緑の舌をだらりと伸ばしていた。広げたハンカチの布が白い小山のようにいくつも盛り上がっていた。針の山がうしろに突っ立ち、まるで後方で待機している槍の列のようにみえた。凝ったつくりの小さい鉄の指抜は置き去りにされた戦闘帽であった。鋏は鋼(はがね)の竜みたいにだらしなくその口を開いていた。そんなわけで、すべてのものが彼女を待ちながら眠りこけていた。あのしなやかですばしこい、小さい生身の荷馬車が動いて、この魔法にかけられた世界の上にその心地よい熱を注ぎかけてまわることはもうないのだ。仕事のためのこの奇妙な小さい城ではすべてがまどろんでいた。が、少年は希望をなくしたわけではない。扉はまもなく開かれるだろう、ゆっくりと。そして笑いが火花のようにあたりに飛び交うだろう。いくつもの白い小山が広がるだろう。みごとな槍がぶつかりあって音を発するだろう。戦闘帽はふたたびばら色の頭にのっかるだろう。鋼の竜は敏活に口をちょきちょきと鳴らし、小さい生身の荷馬車はいたるところを走りまわるだろう、そして色あせた声がまた戻ってきてこう言うだろう、《私、きょうはおとなしくしてるわ》と。──奇蹟は二度は起こらないものなのか?
[PR]
by sbiaco | 2010-02-06 13:00 | III.モネル
 私がたどりついたのはひどく狭くて暗い場所だったが、それでもそこにはしおれた菫のさびしい匂いがただよっていた。どうしてもそこを避けて通るわけにはいかなかったのだ、その長いパサージュのような場所を。私が手探りで進んでいると、かつてのように体を丸くして眠っている小さい身体に突き当ったので、その髪をさぐり、かねてよく知ったその顔の上に手をかざすと、その小さい顔は私の指の下で鼻にしわを寄せているようにみえた、そこで私はようやくモネルを見つけ出したことに気がついた、彼女はその暗い場所でひとりで眠っていたのである。
 私は驚いて叫び声をあげたが、彼女が泣きも笑いもしないので、こう言った。
 ──ああ、モネル! 君はこんなところへやってきて眠っていたんだね、僕たちから遠く離れて、畝のくぼみにひそむ飛鼠みたいにしんぼうづよく。
 彼女は目を丸くして唇を少し開けたが、それは、言われたことの意味がよくわからず、恋人にそのわけを聞きただそうとするときに彼女がいつもみせるしぐさそのままだった。
 ──ああ、モネル、と私はふたたび言った、あの空っぽの家で子供たちはみんな泣いてるよ。おもちゃは埃をかぶり、ランプの火は消え、どんな片隅にも広がっていた笑い声はどこかへ行ってしまい、世界はふたたび仕事へと逆戻りしてしまったんだ。でも僕たちは君がどこか別のところにいると信じていたよ。僕たちからは遠いところ、僕たちには行くことのできない場所で君が遊んでいるんだ、ってね。そしていま君はここで眠っている、野生の小動物みたいにうずくまって、君の好きだった白い雪の下で。
 そこで彼女は話し出したが、ふしぎなことにその声はこの暗い場所でも昔とちっとも変っていなかったので、私は涙を抑えることができず、彼女は私の涙を髪の毛で拭ってくれた、それほど無一物だったのだ。
 ──ああ、あなた、と彼女は言った、泣かないで、あなたの目は仕事をするのに必要なものよ、ひとが仕事をして生きていくかぎりは、ね、今はまだその時じゃないの。それにこんな寒くて暗い場所にいてはいけないわ。
 私はしゃくりあげながら彼女に言った。
 ──ああ、モネル、君は暗闇が怖くはないのかね。
 ──いまはもう怖くないわ、と彼女は言った。
 ──ああ、モネル、でも君は寒いのを死神の手みたいに怖がっていたじゃないか。
 ──寒さもいまはもう怖くなくなったわ、と彼女は言った。
 ──でも君はここでたったひとり、たったひとりだね、こんなに小さいのに、君はひとりぼっちになるとよく泣いていたね。
 ──私はもうひとりじゃないの、と彼女は言った、だって待っているんだもの。
 ──ああ、モネル、だれを待っているというのかね、こんな暗い場所で体を丸めて。
 ──さあ、私にもわからないわ、と彼女は言った、でも私は待ってるの。私は、その「待つこと」といっしょにいるのよ。
 そこで私は彼女の小さい顔があくまでも大きな希望のほうへ差し向けられているのに気がついた。
 ──ここにいてはいけないわ、と彼女は繰り返し言った、こんな寒くて暗い場所にいては。さあ、お友達のところへお帰りなさい。
 ──僕の手を引いて、教えてくれないのか、モネル、君が待っているのと同じくらい、僕ががまんづよくなれるように。僕はひとりぼっちなんだよ。
 ──ああ、愛しい人、と彼女は言った、私、もう昔みたいにうまく教えることはできないの、私が、あなたのいう「小さいおばかさん」(虫の意あり)だったころみたいにはね。そういったことは、時間をかけて熱心に考えていればあなたにだって確実に見つかるわ、でも私はそんなことも眠っている間にいっぺんでわかってしまったの。
 ──昔のことも思い出さずに、モネル、君はこんなふうにうずくまっているのかい、それともやっぱり僕たちのことを思い出すこともあるのかね。
 ──あなたを忘れるなんてことが、まあ、どうしてできるでしょう。だってみんなのことは私の「待つこと」のなかに入ってるのよ、で、私はそのそばで眠るというわけ。でも、うまく説明できないわ。ね、思い出して、私は土いじりが大好きで、草花を根こぎにしては植えかえていたものだわ。それから、こうも言ったわね、「私が小鳥だったら、あなたが出かけるとき、私をポケットにしまっとけるのに」って。ああ、愛しいあなた、私はいまここで良い土のなかにいるの、黒い種みたいにね、で、小鳥になるのを待っているのよ。
 ──ああ、モネル、君は眠ったあとで小鳥になって、僕たちからはるか遠くに飛び立ってしまうつもりなんだね。
 ──いいえ、ちがうわ、飛び立つかどうかなんてわからない。私はなんにも知らないの。でも、以前は自分の好きなものにくるまっていたけれど、いまは私の「待つこと」のそばで眠るの。眠りにつく前は、私はあなたのいう「小さいおばかさん」だったわ、だってまるで裸の芋虫同然だったんだもの。いつだったか、私たちはいっしょにまっしろの、絹のようにすべすべした、どこにも孔のあいていない繭を見つけたわね。あなたは面白半分にそれを割いてみたけれど、中は空っぽだった。羽のある虫がそこから出て行ったんだって、あなたは思わなかった? でも、どうやって出て行ったのかはだれにもわかりはしない。虫は長いあいだ眠っていたの。そして眠りにつく前はただの裸の芋虫で、ほかの芋虫と同じく目も見えなかった。ねえ、あなた、こんなふうに考えてみて(これはほんとのことじゃないけど、私にはよくそんなふうに思えるの)、私は自分の小さい繭を自分の好きなもので織ったんだって、土や、おもちゃや、花や、子供たちや、ちょっとした言葉や、あなたの思い出やなんかでね。それはまっしろの絹でできた巣で、私には寒くもなければ暗くもないの。でもほかの人にはたぶんそうは見えないでしょう。この巣がいつまでたっても開かず、いつか見たあの繭みたいに、ずっと閉じたままでいることはよくわかってるわ。でも私はもうこんなところでぐずぐずしているわけにはいかないの。だって私の「待つこと」というのは、あの羽のある虫みたいに出てゆくことだから。どんなふうに出てゆくのか、それだれにもわかりはしない。私がどこへ行きたいのか、それも自分ではわからない。でも、それが私の「待つこと」なの。子供たちのことや、愛するあなたのこと、それに人々がもうこの世で働かなくてもよくなる日、それらが私の「待つこと」なの。私はいつだって昔のままの小さいおばかさんなんだわ。これ以上うまく説明するのはむりよ。
 ──それならなおさら、と私は言った、いますぐこの暗い場所から僕といっしょに出なくちゃ、モネル。だって、君はそんなことを本気で考えているわけじゃないだろう、ただ泣いているのを見られるのがいやなものだから隠れているだけなんだろう。ひとりぼっちでここに眠っている君を、ひとりぼっちでここで待っている君をやっと見つけたからには、君はどうしても僕といっしょに来なくちゃいけないんだ。さあ、いっしょにおいで、この暗くて狭い場所から出て行くんだ。
 ──ここにいてはだめ、愛しいあなた、とモネルはいった、でないと、ひどく苦しむことになるわ。私はここにいるしかないの、私が自分のために織ったこの住みかはすっかり閉ざされていて、どうしてもここから出て行くわけにはいかないのよ。
 そういってモネルは腕を私の首にまわしたが、ふしぎなことにそれはかつての彼女の口づけそのままだったので、私はまたしても泣き出してしまい、彼女は私の涙を髪の毛で拭ってくれた。
 ──もう泣かないで、と彼女は言った、私を「待つこと」で苦しめたくないのなら。それに私、もうそんなに長く待たなくてもいいような気がするの。だからもう嘆くのはやめてちょうだい。あなたが私を助けてこの絹でできた小さい巣に眠らせてくれたことにはほんとに感謝しているわ、この巣をつくっている白い絹糸のうちいちばんいいのはあなたからもらったものよ、私はいまからここで眠るわ、あなたの上に身を横たえて。
 そしてさっきと同じようにまどろみながら、モネルは目に見えないもののそばに体を丸くして私に言った、《それじゃ、おやすみなさい》
 そんなわけで、私はついにモネルを見つけ出した。しかし私があのひどく狭くて暗い場所でモネルと再会したのはほんとうに確かなことなのだろうか?
[PR]
by sbiaco | 2010-02-05 19:42 | III.モネル


 その晩、私は本を読んでいた、指先で行や字をたどりながら。しかし頭では別のことを考えていた。私のまわりには黒い、斜めの、冷たい雨が降っていた。ランプの火が暖炉の冷えきった灰を照らし出していた。そして私の口は穢れたものやおぞましいものの味でいっぱいになっていた。というのも、この世は暗闇で、私の光明は消え失せてしまったように思われたから。三たび私は叫んだ。
 ──おれの汚辱への渇をいやすには大量の泥水が必要だ。
 《ああ、破廉恥漢よ、おれはお前のお仲間だ。お前の指をこっちへ向けるがいい。
 《そいつに泥をぶっかけてやる、お前の指はおれを軽蔑していないようだから。
 《なみなみと血を満たした七つの盃が食卓に並んでおれを待っている、金色の王冠の光がそこに燦然と輝くだろう》
 そのとき、忘れもしない声がひびき、忘れようもない女の顔があらわれた。そしてこんな言葉を叫んだ。
 ──白の王国、白の王国、私は白の王国を知ってるわ。
 私は振り向くと、取り乱すことなく彼女に言った。
 ──嘘のつまった小さい頭よ、嘘つきの小さい口よ、もう王様や王国なんてものはないんだよ。僕は赤の王国を渇望しているんだが、それもむだなことさ。というのも、もうその時は過ぎ去ってしまったんだ。現下の王国は黒だが、こんなものは王国とはいえない。だってここでは闇の王様が何人もいて、めいめいが権勢をふるっているんだからね。白の王国や白の王様なんぞ、世界のどこを探したってあるもんかね。
 けれども彼女はふたたび同じ言葉を叫んだ。
 ──白の王国、白の王国、私は白の王国を知ってるわ。
 そこで私は彼女の手をとろうとしたが、彼女は私の手をするりとかわした。
 ──悲しみからではなく、と彼女は言った、激情からでもなく。それでもやっぱり白の王国はあるの。私の言葉についてらっしゃい、耳をすまして。
 そして彼女は黙りこんだ。そこで私は思い出にふけった。
 ──思い出すのではなく、と彼女は言った。私の言葉についてらっしゃい、耳をすまして。
 そして彼女は黙りこんだ。そこで私は自分の考えに耳を傾けた。
 ──考えるのではなく、と彼女は言った。私の言葉についてらっしゃい、耳をすまして。
 そして彼女は黙りこんだ。
 そのとき私は、思い出の悲しみも、激情の欲望も、自分の中でことごとく打ち壊してしまった、そして私の知性はすっかり消え失せた。私は固唾をのんで待ち構えた。
 ──それでいいわ、と彼女は言った、あなたにはその王国が見えてくるでしょう。でも、あなたがそこへ入っていくのかどうか、私にはわからない。というのも、理解しようとする人には私は理解できないし、つかまえようとする人には私はつかまえられないし、思い出をもっている人には私が思い出せないの。じっさい、あなたはここで私をつかまえたつもりでしょうけど、私はもうあなたの手のなかにはいないのよ。さあ、耳をすまして。
 そこで私は待ちながら耳をすました。
 しかし何も聞こえてこなかった。すると彼女は首をふってこう言った。
 ──あなたはまだあなたの激情や思い出に未練をもってるわ、だから打ち壊しが中途半端になってるの。白の王国を手に入れるには、完全に破壊しつくさなければならないの。なにもかも打ち明けておしまいなさい、そうすればあなたは自由になれるわ。私の手にあなたの激情と思い出を委ねなさい、そうすれば私がそれらを打ち壊してあげます。打ち明けるとは、つまり打ち壊すことなの。
 私は叫んだ。
 ──なにもかも君に委ねるよ、そうだ、なにもかも君に委ねよう。君はそれを持ち去るなり、こなごなに粉砕するなり、好きにしてくれていい。僕にはもうそれだけの力がないのだから。
 かつて僕が渇望したのは赤の王国だった。そこには剣の刃を研いでいる血染めの王たちがいた。目に隈のできた女たちが、阿片を積みこんだジャンク船の上で泣いていた。海賊どもが島の砂地に金塊の入った重い箱を埋めていた。娼婦たちは気ままにふるまっていた。夜の白々明けに街道をうろつく盗賊の姿もあった。また多くの娘が飽食や淫楽にふけっていた。木乃伊師の一群は青い夜に屍体に金泥を塗っていた。子供たちははるかな恋愛とひそかな殺人を渇望していた。熱い風呂場の敷石の上には所狭しとばかりに裸体が横たわっていた。そこではすべてのものがひりひりするような薬味をまぶされ、赤い蝋燭の光で照らされていた。けれどもその王国は地の底に飲み込まれ、僕は闇の只中で目がさめたんだ。
 次に僕が獲たのは黒の王国だが、これは王国といえるようなものじゃない。というのも、そこには王を僭称する輩が何人もいて、奴らはその仕事や指揮でこの王国を蒙昧たらしめているんだからね。この国では暗い雨が昼も夜も降っている。僕は長いこと道をさまよったあげく、ようやく夜の闇の只中に、揺れるランプのかぼそい灯りを見つけた。雨は僕の頭を濡らしたけれども、しかし僕はそのランプのもとで生き延びたんだ。ランプを手にしていたのはモネルという名前の少女で、僕たちはただ二人、この黒の王国で遊び暮した。けれどもある晩、その小さいランプは火が消え、モネルは逃げるようにどこかへ行ってしまった。僕は彼女を捜して長いこと闇の中をさまよったけれど、どうしても見つけだせなかった。で、今夜は書物の中に彼女を捜していたんだよ。そんなことをしても無駄なんだがね。僕は黒の王国で道に迷ってしまったんだ。それでも僕はモネルのかぼそい灯りを忘れることができなかった。そんなわけで、口に汚辱の味を噛みしめていたのさ。
 さて、このように語っているうちに、私は自分のなかで「打ち壊し」がなされ、私の「待つこと」にわずかながらも光明がさすのを感じた、そして暗闇の発する音が聞え、彼女の声がこう言った。
 ──すべてを忘れるの、そうしたらすべてはあなたに戻ってくる。モネルを忘れるの、そうしたら彼女はあなたのところに戻ってくるわ。これが新しい言葉よ。生れたばかりの子犬を見習いなさい、目も明かないのに手探りで居場所を求めて冷たい鼻面を埋める子犬を。
 そして話し手の女はこう叫んだ。
 ──白の王国、白の王国、私は白の王国を知ってるわ。
 私は忘却に圧倒され、私の目は純白の光に輝いた。
 話し手の女はまた叫んだ。
 ──白の王国、白の王国、私は白の王国を知ってるわ。
 忘却は私の内部を侵し、私の知性の座は根柢から真白になった。
 話し手の女はなおもこう叫んだ。
 ──白の王国、白の王国、私は白の王国を知ってるわ。ほら、これが王国の鍵よ。赤の王国のなかに黒の王国があるの、黒の王国のなかに白の王国があるの、白の王国のなかに……
 ──モネルだ、と私は叫んだ、モネルだ。白の王国のなかにはモネルがいるんだ。
 そしてついにその王国があらわれた。が、それは真白な壁で閉ざされていた。
 そこで私は訊ねた。
 ──で、王国の鍵はどこにある?
 しかし話し手の女は押し黙ったままだった。
[PR]
by sbiaco | 2010-02-04 19:13 | III.モネル


 私はルーヴェットに案内されて、緑の畝づたいに田園のはずれまでやってきた。土地は遠くへゆくほど小高くなっていて、彼方には茶色の地平線が空を背景にくっきりと浮き出ていた。すでに燃えるような雲が沈む日のほうへ傾いていた。そして夕暮れのぼんやりとした光のなかに、小さい影法師がいくつもさまよっているのが認められた。
 ──もうじき、と彼女は言った、火がともされるのが見えるでしょう。明日になればもっと遠いところに。彼らは一所不住の群なの。で、それぞれの場所にはひとつしか火をともさないのよ。
 ──彼らはいったい何者なのかね? と私はルーヴェットに訊ねた。
 ──よくわからないわ。あれは白い服を着た子供たちなんです。私たちの村からやってきた子もいるわ。ほかの子らはもうずいぶん前から歩いているの。
 小さい焔がきらりとひらめいて、それが宙に躍るのがみえた。
 ──あれが彼らの火よ、とルーヴェットが言った、まもなく彼らの姿がみえるわ。彼らは夜になると火を焚いた場所に眠るの、そして翌日にはもうその土地を離れるの。
 私たちが火の燃えている丘の上までやってくると、白い服を着た子供が何人も焚火のまわりに集まっているのが見えた。
 その子らのなかに、彼らに語りかけている案内役らしい娘がいて、私はそれがかつて雨の降る暗い町で出会ったランプ売りの少女であることを発見した。
 彼女は子供たちの間から立ち上がって私に言った。
 ──私はもう陰気な雨で火が消えてしまう嘘つきのランプは売っていないの。
 なぜなら、嘘が真実にとってかわる時期が、みじめな仕事をしなくていもいい時期が来たから。
 私たちはモネルの家で遊んでいたわ。でもランプはおもちゃで、家は隠れ家だった。
 モネルは死んだの。私はその同じモネルよ。私は夜になってから起き上がり、小さい子らは私についてきたの。そして今ではあちこち旅して歩いているのよ。
 彼女はルーヴェットのほうへ顔を向けて、
 ──私たちといっしょにいらっしゃい、と言った、そして嘘のなかで幸せにおなり。
 ルーヴェットは子供たちのほうへ駆け寄った、すると服が彼らのと同じく真っ白になった。

 ──私たちは歩きながら、と案内役の娘は語を継いだ、会う人ごとに嘘を言って、喜びを分け与えてあげるの。
 かつて私たちは嘘をおもちゃにしていたわ、でも今はありとあらゆるものが私たちのおもちゃなの。
 私たちのところでは、だれも苦しまないし、だれも死ぬことはない。私たちは言うの、あの人たちは悲しむべき真実を知ろうとして無駄な努力をしてるんだ、ってね。だってそんな真実はどこにもありはしないんだもの。で、真実を知りたがる人々はだんだん私たちと疎遠になり、やがて離れていってしまうの。
 逆に私たちはこの世の真実なんていうものには何の信仰ももってやしない、だってそういったものは悲しみに導くだけだから。
 私たちが望むのは子供たちを喜ばすことだけ。
 そのうち大人の人たちがやってくるようになれば、私たちは彼らに「無知」と「錯覚」とを教えてあげるつもりよ。
 彼らに今まで見たこともないような小さい野の花を見せてあげるわ、どんな花だって新たに咲き出たものだから。
 そして私たちは訪れる土地のすべてに驚くでしょう、すべての土地は新たに見出されたものだから。
 この世には似たような同じものなんてふたつとしてないわ、だから私たちには思い出も存在しない。
 すべては絶え間なく変化している、だから私たちは変化することを習慣にしてしまったの。
 そんなわけで、私たちは毎晩違った場所に火をともして、その火を囲みながら、ピグミーや生きている人形などのお話を考え出しては、いっときのお楽しみにするのよ。
 焔が消えてしまったら、また別の嘘が私たちの心を捉える、で、私たちはその嘘に驚くのが楽しみなの。
 朝になると、私たちはもう銘々の顔を覚えていないわ。だって、真実を知りたいという気になった子もいれば、ゆうべの嘘しか思い出さない子もいるでしょうからね。
 こんなふうにしていろんな国を経巡っていると、子供が群をなして押し寄せてくるわ、そして私たちの一行に加わった子らは幸せになるというわけよ。
 私たちが街に住んでいたころは、むりやり同じ仕事につかせられていて、同じ人々を愛していた。でも私たちは同じ仕事に飽き飽きしていたし、私たちの愛する人々が苦しんだり死んだりするのを見るのがつらかったものよ。
 私たちの間違いは、そんなふうに生のただなかで立ち止まって、自分たちは動かないまま、すべてのものが流れていくのをただ見ていたこと、あるいは生の流れをせきとめて、漂い浮ぶ廃墟のなかに永遠の住みかを建てようとしたことよ。
 でも、嘘つきの小さいランプは私たちに幸福の道を照らし出してくれた。
 人は喜びを思い出にもとめ、今のありように抗い、この世の真実を誇りにするわ。そんなものは真実になったとたん本物ではなくなるのに。
 人は死を嘆き悲しむけれども、死は彼らの知識や不変の法則の影像にすぎない。また人は未来の選択を誤ったといって嘆くけれど、その未来は過去の真実をもとに組み立てられた未来で、彼らはそのとき過去の欲望にしたがって選択しているのよ。
 私たちにとって、欲望はすべて新しいもので、私たちの欲するのはただ欺瞞の刹那だけ。思い出はすべて本当だけど、私たちは真実を知ることを放棄してしまったの。
 私たちには仕事は忌わしいものにみえるわ。だってそれは私たちの生の流れをせきとめ、生をただ生に似たものに化し去ってしまうから。
 すべての習慣は私たちには厭うべきものよ。だってそれは新しい嘘に私たちが全身的に没入するのをさまたげるから。

 こういったところが、案内役の娘の語った言葉であった。
 私はルーヴェットに、私といっしょに両親のもとに戻ってくれるよう懇願した。しかしその目をみると、彼女にはもう私がだれなのかわかっていないことがはっきりと読み取れた。

 私は一晩じゅう夢と嘘との宇宙で生き、生れたばかりの嬰児の無知と錯覚と驚きを学ぼうと努めた。
 そうするうちに、ゆらめいていた小さい焔の勢いが弱まってきた。
 そのとき私は、寂しい夜のさなかにあって、純白の子供たちのいくたりかが泣いているのに気がついた、彼らはまだ記憶をすっかりなくしてしまったわけではなかったのだ。
 また突如として仕事の熱にとりつかれ、闇のなかで麦穂を切って束にする作業をはじめる子らもいた。
 また真実を知りたいと願っていた子らは、青ざめた小さい顔を冷えきった灰に向け、白い服の下でふるえながら死んでいった。

 しかし空が薔薇色に明けそめるころ、案内役の娘は起き上がり、私たちのことも、真実を知りたいと願った子供たちのことももはや記憶にとどめない様子で歩きはじめ、白い子供たちがぞろぞろとその後に続いた。
 一行は喜ばしげで、彼らはあらゆるものにやさしい微笑を投げかけた。
 夕方になると、彼らはふたたび麦藁で火を焚いた。
 しかし焔はまたしても勢いを弱め、真夜中になると灰は冷たくなった。

 そのときルーヴェットに記憶がよみがえった、彼女は愛すること、苦しむことを選んだのである、彼女は白い着物のまま私のところへ戻ってきて、私たちは二人ながら野原を横切って遁れ去ったのであった。
[PR]
by sbiaco | 2010-02-03 20:34 | III.モネル