19世紀末のフランス作家マルセル・シュオッブ(Marcel Schwob)の「モネルの書」の翻訳とその周辺


by sbiaco

カテゴリ:II.モネルの妹たち( 11 )

 崖の上にある学校の、灰色の校舎のまわりにめぐらした小さい生垣から、ピンクのリボンを結んだ包みをもった子供の手が延びて出た。
 ──まずそれをとって、と小さい女の子の声が言った、気をつけてね、こわれやすいから。そのあとで私が出るのを手伝ってちょうだい。
 こまかい雨が岩のくぼみにも深い入江にも一様に降っていて、崖の下で打ち返す波に雨粒のあとをつけていた。囲いのところで様子をうかがっていた少年水夫が進み出てきて低い声でこう言った。
 ──さあ、こっちへよこすんだ、早くしろ。
 女の子は大声をあげた。
 ──だめ、だめ、むりよ。その紙を濡れないようにして。私、自分に関係のあるものはぜんぶもっていくんだから。エゴイスト、エゴイストよ、あんたは。あんたのせいで私が濡れてるってこと、わかんないの。
 少年水夫は唇をゆがめてその小さい包みをつかんだ。紙は濡れて破れ、泥のなかに中身が転がり出た。花模様のついた黄色と菫色の絹の三角巾、ビロードの小さいリボン、バチスト亜麻の人形のズボン、内部が空になった蝶番つきのハート型の金のブローチ、赤い糸を巻いた真新しいボビンなど。それから女の子が生垣を越えてきた、硬い小枝で手を刺し、唇をわなわなとふるわせながら。
 ──ほら、これ見てよ、と彼女は言った、あんたが強情を張るからいけないんだわ。私の大切なものが台無しじゃないの。
 鼻の頭を上に向け、眉根にしわを寄せ、口の端をゆがめて、女の子はしくしくと泣きはじめた。
 ──ほっといて、ほっといて。もうあんたなんかに用はないわ。どっかへ行っちまってよ。あんたが私を泣かせたのよ。私、もうマドモワゼルのところへ帰るわ。
 それから女の子はいじらしく落ちた布地をかきあつめた。
 ──私のきれいなボビンがめちゃくちゃだわ、と彼女は言った、これでリリのガウンに刺繍しようと思っていたのに。
 女の子の短いスカートのポケットがぶざまに開いて、そこから磁器の人形の小さい整った顔と、ブロンドのとほうもないもじゃもじゃ頭とがみえた。
 ──来いよ、と少年水夫は小声で言った、きっとマドモワゼルはもう君を探しはじめてるぜ。
 女の子は少年にいわれるままついていった、インクの染みのついた小さい手の甲で涙をぬぐいながら。
 ──しかし今朝になって、いったいどういう風の吹きまわしだい、と少年は訊ねた、昨日は嫌だって言ってたじゃないか。
 ──箒の柄でひどく打たれたのよ、と彼女は唇をかんで言った、打たれただけじゃなくて、蜘蛛やら毛虫やらがうようよしてる木炭置場に閉じ込められたわ。私、戻ってきたら、あの人のベッドに箒を置いてやるわ、それから石炭で家を燃やして、鋏であの人を殺してやるわ。そうよ(と彼女は口をとがらせた)。ああ、私を遠くへ連れてって、二度とあの人の顔を見なくてもすむように。私はあのとがった鼻や眼鏡がこわいの。私、出てくる前にちゃんと復讐だけはしといたわ。あの人、自分の父さんと母さんの肖像画を、ビロードの雑貨といっしょにマントルピースの上に飾ってるの。二人とも年寄りよ、私の母さんとは大違いだわ。まああんたにはわかんないでしょうけどね。で、私その絵に蓚酸カリをふりかけてやったわ。きっとものすごいご面相になったことでしょう。いい気味よ。ちょっとあんた、なんとか言ったらどうなの、少なくとも。
 少年水夫は目をあげて海を見やった。海は暗く、靄が出ていた。雨がカーテンのように湾の全域を覆っている。岩礁も浮標もすでに見えなくなっていた。雨脚の糸で織られた水の帳がときたま開いて、束になった黒い海草があらわれた。
 ──きょうはもう出歩くのは無理だな、と少年水夫は言った、税関の小屋へ行ってみよう、あそこには干し草がある。
 ──いやだわ、汚らしい、と女の子は叫んだ。
 ──ぜいたく言うなよ、と少年水夫は言った、それとも君のマドモワゼルのところに戻るかい?
 ──エゴイスト! と女の子は言うと急にしゃくりあげはじめた、あんたがそんな人だとは思わなかったわ。もしそうと知ってりゃ、ああ神様、そうと知らなかったばっかりに。
 ──そんなら出てこなけりゃよかったじゃないか。この前の朝、おれが道を歩いていたときに、おれを呼びとめたのはどこのどなたでしたっけ?
 ──私が? まあ、なんて嘘つきなんでしょう。あんたに誘われなきゃ、出てきたりするもんですか。あんたが怖かったからよ。私もう帰る。干し草のなかで寝るなんてまっぴらよ。私は自分のベッドで眠るの。
 ──好きにするがいいさ、と少年水夫は言った。
 彼女は肩を聳やかせて歩きつづけた。が、しばらくたってから、
 ──私の気が変ったとしても、と彼女は言った、それは雨に濡れるのがいやだからよ、少なくとも。

 その小屋は海に面した斜面に建っていて、土の屋根に突き立った藁の束から雨水が静かにしたたり落ちていた。二人は入り口の戸を押した。奥のほうが一種の寝室になっていて、箱の蓋が並べられ、干し草がいっぱい敷きつめてある。
 女の子はそこに腰をおろした。少年水夫は彼女の足と脛とを乾いた草で覆ってやった。
 ──ちくちくするわ、と彼女は言った。
 ──でもあったかいだろう、と少年水夫は言った。
 彼は扉の近くにすわって天候をうかがっていた。湿気のせいで彼は少し体をふるわせていた。
 ──寒いんじゃないの、少なくとも、と女の子は言った、あんたが病気になったら、この私はどうなるのよ。
 少年水夫は首を振った。二人はなにもいわずしばらくじっとしていた。空は曇っていたが、夕闇の迫ってくる気配が感じられた。
 ──お腹がすいたわ、と女の子は言った、今夜、マドモワゼルのとこでは焼鳥と栗が出るわ。ああ、あんたってば、なんにも考えてなかったのねえ。私パン粥をもってきたの。ちょっと煮込みすぎだけどね。ほら、どうぞ。
 そういって彼女は手を差し延べた。指には冷えきった粥がべっとりとくっついていた。
 ──おれ、ちょっと行って蟹をとってくるよ、と少年水夫は言った、ピエール=ノワールの端にいるんだ。下にある税関のボートを借りていこう。
 ──ひとりきりじゃ心細いわ。
 ──腹が減ってるんじゃないのかい。
 彼女はなんとも答えなかった。
 少年水夫は上衣についた藁屑をふるい落すと、すべるように外へ出ていった。灰色の雨が彼をつつんだ。女の子は少年の靴が泥にめりこむ音を聞いた。

 やがて突風が吹いたかと思うと、あとはときおりにわか雨が降るだけで、あたりはひっそりと静まり返った。影はいよいよ濃く、陰鬱に迫ってきた。マドモワゼルのところの夕食の時間は過ぎ去った。眠りにつく時間も過ぎ去った。あっちでは吊り下がった灯油ランプのもと、きちんと整えられた白いベッドで、みんなぐっすり眠っているのに違いない。鴎の鳴声がきこえ、それに呼応するかのように嵐がきた。つむじ風が吹きまくり、大砲のような高波が断崖の大きなうろを直撃した。女の子は夕食を待ちながら眠りこんでしまったが、やがて目をさました。少年はきっと蟹で遊んでいるのだ。なんというエゴイストだろう! 彼女は船というものがつねに水に浮かんでいるものだということをよく知っていた。船がなければ人は溺れてしまうということも。
 ──私が眠っているのを見たら、きっとがっかりするわ、と彼女はつぶやいた。ひとことも返事なんかしてやるもんですか、狸寝入りをするのよ。ざまみろだわ。

 真夜中近くなって、彼女はふと自分が提灯の火影に照らされているのに気づいた。尖のとがった合羽を着た男がやってきて、二十日鼠のように縮こまった彼女を見つけたのである。彼女の顔は水と灯りとでぎらぎらと光ってみえた……
 ──ボートはどこだ? と彼は言った。
 それを聞くと、彼女は地団太ふんでこう叫んだ。
 ──ああ、そんなことだろうと思ったわ。あの人ったら、蟹を見つけてきてくれないばかりか、船までなくしちまったんだわ。
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by sbiaco | 2010-02-19 15:09 | II.モネルの妹たち
 ──おっかないわ、とその女の子は言った、だって白い血が出てくるんだもの。
 女の子は緑色の罌粟の頭に爪を立てて切り裂いた。仲間の少年は静かに彼女を見つめている。二人はマロニエの木立で追剥ごっこをやったり、新鮮なマロニエの実で茨の茂みを砲撃したり、新しいどんぐりの皮をむいたり、にゃあにゃあ鳴く子猫を矢来の板にのっけたりして遊んでいたのである。薄暗い庭の奥には幹が二又になった樹が立っていたが、そこがロビンソンの島なのだ。野蛮人の襲撃にそなえる戦闘用のラッパにはじょうろの口を使った。黒くて長い頭をもつ草は囚われの女たちという見立てで、その首はみなすっぱりと刈り取られていた。狩りあつめて捕虜にした青や緑のハナムグリが、釣瓶のなかでさやばねを重々しくもちあげていた。二人は小径の砂にいくつも筋をつけたが、それはパレード用の棍棒をもった軍隊が通っていった跡なのである。そして彼らはいま、大草原の草深い丘を襲撃したところだ。夕陽が二人を栄えある光輝のなかに包んでいた。
 二人はややくたびれたていで征服した敵陣に立って、はるかな秋の靄が朱く染まるのをうっとりと眺めていた。
 ──僕がロビンソンなら、と少年は言った、君はフライデーだな。下に大きな浜辺があったら、その砂浜へ人食い人種の足跡を探しにいくんだがなあ。
 女の子はしばらく考えてから、こう訊ねた。
 ──ロビンソンって、フライデーが言うことを聞かなかったりしたら打つのかしら。
 ──よく覚えてないや、と彼は言った、でも悪者の年寄りのスペイン人を二人して打ってたっけ、それからフライデーの国の野蛮人たちも。
 ──そんなお話、つまんないわ、と彼女は言った、そんなのは男の子の遊びよ。もうじき夜になるわ。おとぎ話ごっこをしましょうよ、ほんとに怖くなるかもしれないわよ。
 ──ほんとに、とは?
 ──たとえば、長い歯をもった人食い鬼の家が、毎晩森の奥にあらわれるんだって、あなた思わないこと?
 少年は女の子の顔を見てから、あごをかみ合わせてカチカチ音をたてた。
 ──で、その人食い鬼は七人の王女さまを食べちまいましたとさ、むしゃむしゃとね。
 ──あら、そうじゃないわ、と彼女は言った、人食い鬼になるか、親指太郎になるかのどっちかよ。七人の王女さまなんて名前がわかんないじゃないの。もしよかったら、私、お城に眠るお姫さまのベルになるわ。で、あなたは私の目をさましにやってくるの。激しくキスしなきゃだめよ。王子さまって、ものすごく激しくキスするものなのよ、知ってて?
 少年はどぎまぎして、こう答えた。
 ──草のなかで眠るにはもう遅すぎるよ。ベルは茨や花にかこまれたお城のベッドに寝ていたんだから。
 ──そんなら、青ひげごっこをしましょうよ。私、あなたのお妃になるわ。で、あなたは私に言うのよ、あの小部屋に入ることはまかりならん、ってね。じゃ、はじめるわよ。あなたはまず私と結婚しにやってくるの。《お殿さま、よくは存じ上げませんけれども……あなたの六人のお妃さまはふしぎな仕方でお姿をくらましておしまいになったと聞いております。たしかに、あなたは大きくてりっぱな青ひげをおもちですし、住んでらっしゃるお城もそりゃもうみごとなものでございます。あなたは私にけっして、けっして痛い思いをさせたりはなさらないでしょうね?》
 彼女は訴えかけるような目で少年を見た。
 ──それで次は、あなたが私に結婚の申し込みをしたの。私の両親も大賛成よ。二人はめでたく結婚しました。さ、鍵をぜんぶ私に渡してちょうだい。《この小さくてきれいなのは何の鍵かしら》 そこであなたは太い声で、開けてはならぬぞ、と言うのよ。
 それで次は、あなたがどこかへ出かけてしまうと、私はすぐにそのいいつけを破るんだわ。《ああ、なんて怖ろしいこと! 六人のお妃は殺されていたんだわ》 私が気を失ったところをあなたがやってきて助け起こすの。いいわね。青ひげのあなたが戻ってくる。太い声を出す。《お殿さま、あなたが私にお預けになった鍵はすべてここにございます》 そこであなたは、あの小さい鍵はどこにある、と訊くの。《お殿さま、私存じませんわ。触ったこともございません》 あなたは声を荒げる。《お殿さま、どうかご勘弁くださいまし。鍵はここにございます。隠しの底のほうに入っておりましたわ》
 それからあなたはその鍵を見つめるの。どう、鍵に血はついてたの?
 ──うん、と彼は言った、血の染みが。
 ──思い出したわ、と彼女は言った、私、その血をこすり落とそうとしたのよ、でもどうしても落ちなかった。それ、六人のお妃の血だったのかしら?
 ──そう、六人のお妃の。
 ──青ひげはその六人とも殺してしまったのかしら、ええ、彼女らがあの小部屋に入ったという理由で? いったいどうやって殺したんでしょうね。のどを切り裂いて、窓のない納戸に吊るしたのかしら。血が足を伝って床までしたたり落ちたのかしら。きっととっても赤い、赤くて黒い血だったんでしょうね、私が罌粟を爪で裂いたときに出たような血じゃなくて。のどを切り裂くには膝まづかせなきゃならないんでしょ?
 ──たぶん膝まづかなきゃならないだろうね、と彼は言った。
 ──おもしろくなってきたわ、と彼女は言った。でもあなた、本気で私ののどを切り裂くつもり?
 ──もちろんさ、だけど、と彼は言った、青ひげはお妃を殺すことができなかったんだよ。
 ──どうでもいいわ、そんなこと、と彼女は言った。でもどうして青ひげはお妃の首を切らなかったのかしら。
 ──お妃の兄さんたちがやってきたからだよ。
 ──お妃は怖かったんでしょうね。
 ──そりゃとても怖かったさ。
 ──叫んだりしたのかしら。
 ──妹のアンヌを呼んだんだ。
 ──私だったら叫んだりしないわ。
 ──そうだね、だけど、と彼は言った、青ひげには君を殺す時間がたっぷりあったんだぜ。妹のアンヌは塔の上から青々とした野草を眺めていただけだしね。でも、お妃の兄さんたちはとてもたくましい近衛兵で、馬を全力で走らせて急場に駆けつけたというわけさ。
 ──そんなふうにして遊ぶのはおもしろくないわ、と女の子は言った。退屈よ。それに私にはアンヌなんていう妹はいやしないし、ね。
 彼女はやさしく彼のほうに向きなおった。
 ──兄さんたちがやってこないんだから、と彼女は言った、私を殺さなくちゃいけないわ、かわいい青ひげさん、きつく殺るのよ、とてもきつく。
 彼女は膝まづいた。少年は彼女の髪をつかんで前に寄せ、手を振りあげた。
 目をつぶり睫をふるわせ、唇の端には昂ぶった笑みを浮かべて、彼女はゆっくりとうなじのうぶ毛を、その首を、なまめかしくくぼんだ肩を、青ひげの剣の冷酷な刃の下に差し出した。
 ──う……うう! と彼女はうめいた、痛いんだわ、きっと!
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by sbiaco | 2010-02-18 23:04 | II.モネルの妹たち
 ──マッジ!
 その声は床板に開けられた四角い穴から昇ってきた。ぴかぴかに磨き上げられた巨大な樫の螺子が丸屋根を横に貫き、ぎしぎしと音をたてながら回転していた。灰色の布でできた大きな羽根が木製の骨組みに釘でとりつけられていて、それが日に照らされた埃のあいだから宙におどるのが天窓ごしにみえる。下では石でできた装置がまるで規則正しく戦う二匹の動物のように動いていて、それにあわせて製粉機が台の上でがりがりと音をたてながら振動していた。五分おきに、長いまっすぐな影がその小部屋を横切った。室内の棟木に立てかけられた梯子には小麦粉が一面にこびりついている。
 ──マッジ、来ねえのか? とまた下で声がした。
 マッジは樫の螺子に手をおいていた。手のひらが絶えず擦られるのをくすぐったく感じながら、彼女は少し体を傾けるようにして平坦な野原を眺めた。風車小屋の丘はそこに丸く盛り上がっていて、まるで剃りあげた頭のようにみえる。回転する羽根が背の低い草すれすれのところをかすめ、その黒い影はいずれもあとの影に追われながら、けっして追いつかれることなく動いている。ざっとセメントを塗っただけの壁の出っ張りは、そこで何頭もの驢馬が体を掻いたらしく、漆喰の剥げ落ちたあとに石の地が灰色の染みのようになっている。小高い丘のふもとには、乾いたわだちの跡がいくつもついた野の小径があって、それを下っていくと、落葉の浮かぶ大きな沼に出るのだった。
 ──マッジ、もう出かけるぞ! とまたしても大きな声がした。
 ──いいわよ、行ってらっしゃい、とマッジは低い声で言った。
 風車小屋の小さい扉がぎいと音をたてた。驢馬が耳をふるわせるのが見え、獣は蹄で草をさぐりながら、そろりそろりと歩いていった。大きな袋がひとつ、押しつぶされたように荷鞍にのっかっている。年老いた粉挽きと使い走りの小僧は獣の尻を棒でつついていた。そして二人はでこぼこ道を下っていった。マッジは一人居残って、天窓からその顔をのぞかせていた。

 ある晩のこと、マッジの両親は、彼女がベッドに腹ばいになって砂や炭を口いっぱいに詰めこんでいるのを発見した。そこで彼らは医者のところへ相談にいった。医者たちは申し合せたように、マッジを田舎へ連れていって、手足や体を疲れさせるのがいちばんだと意見を述べた。しかし風車小屋に来てからというもの、彼女は空が白みはじめるや、狭い屋根裏へ逃げるようにかけ登って、そこから風車の羽根がまわる影をじっと眺めてばかりいるのだった。

 突然、彼女は頭のてっぺんから足の先までぎくりとした。だれかが入口の扉の掛け金をはずす音がした。
 ──だあれ? とマッジは四角い穴ごしに訊ねた。すると弱々しい声が聞こえてきた。
 ──なにか飲み物はありませんかな、ひどくのどが渇いておりますもんで。
 マッジは梯子の段をすかして目をこらした。やってきたのは田舎をうろついている年老いた乞食だった。乞食は頭陀袋にパンを入れていた。
 ──あのひとパンをもってるわ、と彼女はつぶやいた。お腹をすかしていないのが残念だわ。
 彼女は乞食が好きだった。もっともそれはひきがえるや、かたつむりや、墓地に対する好みと同様、多少の嫌悪の気持が混じっていたが。
 彼女は大声に言った。
 ──ちょっと待ってて!
 それから顔を前に向けたまま梯子を駆け降りた。下へ降りてくると、
 ──あら、ずいぶん年をとっているのね、と彼女は言った──で、そんなにのどが渇いてるんですか?
 ──ああ、そうですとも、かわいいお嬢さん、と老人は言った。
 ──乞食ってみんなお腹をすかしてるもんだわ、と彼女はきっぱりと答えた。私は漆喰が大好物なの。ほら、このとおり。
 彼女は白い壁土をひとつかみもぎとると、それをがりがりと噛んだ。それからこう言った。
 ──みんな出かけていて留守よ。私、コップはもっていないの。でもポンプならあるわよ。
 彼女はポンプの湾曲した握りを彼に示した。そして老人が水を汲み出して管に口をあてている隙に、マッジは彼の頭陀袋からすばやくパンを抜き出すと、小麦粉の山にそれを押しこんだ。
 乞食がこちらを振り返ったとき、マッジの目はダンスでも踊っているかのように揺れていた。
 ──あっちのほうに、と彼女は言った、大きな沼があるの。貧乏人はそこで水を飲めばいいわ。
 ──あっしらはけものじゃありませんぜ、と老人は言った。
 ──そりゃそうだけど、とマッジは答えた、幸せじゃないことに変りはないわ。もしお腹がすいてるんなら、この小麦粉をちょっと盗んであんたに上げるわ。これに沼の水をまぜれば、今夜あんたは練り粉が作れるわ。
 ──生の練り粉ですかい! と乞食は言った、ありがたいことですが、さいわい恵んでもらったパンがございますよ、お嬢さん。
 ──でももしパンがなかったらどうするの? 私、あんたみたいに年寄りだったら、いっそ水に溺れるほうがいいわ。溺れて死んだ人たちはとても幸せよ。きっときれいにちがいないもの。私、あんたがお気の毒だわ、かわいそうな人。
 ──神のご加護があらんことを、かわいいお嬢さん、と老人は言った、あっしはもうくたびれてしまいましたわい。
 ──今夜になったらお腹がすくわよ、と丘の斜面を下りていく男の背中にマッジは大声で呼びかけた。そうよ、おじいさん、きっとお腹がすくわ。そしたらあんたのパンを食べることだわ。歯がよくないのなら、沼の水によくひたして、ね。沼はとっても深いんだから。
 マッジは彼の足音が聞こえなくなるまで聞き耳をたてていた。それからゆっくりと小麦粉の山からパンを引っぱりだして、それを眺めた。村で売っている黒い丸パンで、それがいまは白い粉が点々とついている。
 ──あらまあ、と彼女は言った。お金がなけりゃ、私ならきれいなパン屋さんで白パンを盗むわ。

 粉挽きの親方が帰ってきたとき、マッジは頭を粉まみれにして仰向けに寝そべっていた。彼女はくだんの丸パンを両手でしっかりと胸に押しあてていた。そして両の目をかっと見開き、ほっぺたをふくらませ、食いしばった歯のあいだから紫色になった舌の尖を出して、彼女なりに思い描いた溺死体の姿を真似しようと懸命になっていた。
 みながスープをとったあとで、
 ──おじさん、とマッジは言った、むかし、もうずっとずっと前に、この風車小屋にものすごい大男が住んでいて、死人の骨でパンを焼いてたんでしょ?
 粉挽きは言った。
 ──そいつぁおとぎ話さ。だがな、この丘のふもとに石の部屋があって、さる商会がそれらをわしから買い取ろうとしたんだ、掘り返すためにな。わしの風車小屋を取り壊すなんてとんでもねえ話だ。やつらは古い墓でもあばいてりゃいいのさ、やつらの町にあるやつをな。おあつれえ向きに朽ち果ててるときたもんだ。
 ──たぶんポキッと鳴るんでしょうね、死人の骨って、とマッジは言った。うちの小麦よりもたんとあって、ね、おじさま。そしてその大男はそれでとてもおいしいパンを焼いたんだわ、とてもおいしいのをね。で、大男はそれを食べてたのよ──そうよ、食べてたんだわ。
 小僧のジャンは肩をすくめてみせた。製粉機のがりがりいう音はやんでいた。風ももう羽根をふくらませていなかった。くるくると動いていた二匹の石の動物ももう戦うのをやめていた。一方が他方に重なって、いまは静かに休んでいるようだった。
 ──おじさん、ジャンが前に言ってたんだけど、とマッジはなおも言いつのった、水銀を入れたパンを使うと水死者が見つかるんだって。パンの皮に小さい孔をあけて、そこに流しこむの。で、そのパンを水に投げると、水死者の真上でパンが止まるんだって。
 ──そんな話はわしは知らんね、と粉挽きは言った。どっちにしろ、若え娘には関係のねえ話だ。おい、ジャン、なんて話を聞かせるんだ。
 ──でも訊ねたのはマッジお嬢さんですぜ、と小僧は答えた。
 ──私なら鉛の散弾を入れるわ、とマッジは言った。ここには水銀なんてないんだもの。それでもやっぱり沼で溺死体が見つけられるはずよ。
 扉の前で、彼女は夜明けを待っていた、前掛けの下にパンを入れ、手には小さい鉛の弾丸をもって。あの乞食はきっと腹をすかせていたに違いない。そして沼で溺れ死んだのだ。彼女はやがて彼の死骸を水面に浮び上らせるだろう、そしてあの大男のように、死んだ男の骨で粉を挽き、練り粉をこねることができるだろう。
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by sbiaco | 2010-02-17 18:34 | II.モネルの妹たち
 二つの運河が交わるところに、高くて黒い水門があった。淀んだ水は緑色をしていて、そのせいで岸壁の影まで緑にみえる。タールを塗った板塀の管理人小屋には花ひとつなく、窓のよろい戸が風に吹かれてバタバタ鳴っていた。扉がなかば開いていて、その向うに髪をぼさぼさにして、ドレスを両足のあいだにたくしこんだ女の子が、青白いほっそりした顔をのぞかせている。運河の土手には、いらくさが高くなったり低くなったりしながら生い茂っていた。晩秋の綿毛の生えた種子がふわふわと飛び、白い埃が小さいかたまりになって風に舞った。小屋は空家のようで、野原は薄暗く、黄色っぽい草が帯のように地平線まで続いていた。
 秋の短い日の光がかげるころ、小型の曳舟の汽笛がきこえてきた。曳舟が水門の向こうに姿をあらわすとともに、板戸の窓から気のない様子であたりを眺めている火夫の煤けた顔が見えた。後方では鎖が水中に繰り出されていた。そのあとに船体を揺らしながらしずしずと進んできたのは、茶色の、幅の広い、平べったい荷足船(にたりぶね)だった。まんなかに小ぢんまりした船室が白くこしらえてあって、その小さい窓ガラスは丸くて陽に焼けていた。赤や黄の昼顔が窓のまわりに匍い、敷居の両側には土を入れた木の桶がいくつか並んでいて、そこにすずらんや木犀草や天竺葵が植えてあった。
 水に濡れた上っ張りを荷足船の舷側に打ちつけていた男が、爪竿を握ったもう一人の男にこう言った。
 ──マオよ、水門が開くの待つあいだ、ちょっと飯でも食わねえか。
 ──いいともさ、とマオは答えた。
 彼は爪竿を片づけると、とぐろを巻いた綱の山をまたいで、花を植えた二つの桶のあいだに腰をおろした。連れの男は彼の肩をたたいてから白い船室へ入ってゆき、べとべとした紙の包みと、長い丸パンと、陶器の水差しとをもってきた。風がひと吹きして油じみた包み紙をすずらんの植え込みの上に飛ばした。マオはそれをつかむと水門のほうへ思いきり投げつけた。紙は飛んでいって女の子の両足のあいだに落ちた。
 ──上の人も、どうぞお上んなすって、と男は大声にいった。こっちはこっちでお昼にしますよ。
 彼はつけ加えてこう言った。
 ──御用聞きに参りましたインド人にござい、お国の方。あんたはおれたちがそこからやってきたんだ、ってお友達に言いふらしたってかまわねえよ。
 ──ふざけてるのか、インド人、とマオは言った。いいからその子にかまうな。こいつは肌の色が浅黒いからね、お嬢さん、おれたちは船ではそんなふうに呼んでいるんだよ。
 すると小さいかぼそい声が彼らにこう答えた。
 ──どこへ行くんですか、荷足船さん。
 ──南の国へ石炭を運ぶんでさ、とインド人は叫んだ。
 ──そこではお日さまは出るの、と小さい声がいった。
 ──たんと出すぎて年寄りにはお灸をすえられたようなもんさ、とマオは言った。しばらく沈黙がつづいたあと、小さい声がまたこう言った。
 ──私もいっしょに連れてってくださらない、荷足船さん。
 マオはもぐもぐ口を動かすのをやめた。インド人は水差しを置いて笑いだした。
 ──前代未聞だな──「荷足船さん」だなんて、とマオは言った。バルジェット(小さい荷足船の意)お嬢さんよ。あんたの水門はどうするんだい。まあ、明日の朝にでもまた考えるさ。親父さんもあんまりいい気はしないだろうしね。
 ──それとも国にいちゃあ老けこんじまうとでもいうのかね、とインド人が訊ねた。
 小さい声はもうなにも言わなかった、そして青白いほっそりした顔は小屋のなかへ戻っていった。

 夜の闇が運河の岸壁を閉ざした。緑色の水は水門の門扉にそって次第に水かさを増した。もはや目に見えるものといえば、船室のなかの、赤や白のカーテンの向こうにともる蝋燭の灯りばかり。竜骨に打ち寄せる規則正しい波の音がきこえ、荷足船は左右にゆれながら徐々に上昇していった。夜が明ける少し前に、肱金のきしる音が聞こえたかと思うと鎖が滑りだし、水門が開いて、二人の乗った船は、悲鳴のような汽笛を鳴らす小型の曳舟に導かれて、船体を揺るがしながらさらに遠くへと進み出た。そして丸い窓ガラスが夜明けの赤く染まった密雲を映し出すころ、荷足船はすでに、冷たい風がいらくさに吹きつけるあの陰鬱な土地をあとにしていた。
 インド人とマオは、語りかける笛の音のようなやさしいさえずりと、窓ガラスをこつこつ叩く小さい音とで目をさました。
 ──雀もゆうべはずいぶん寒かったんだろうな、おい、とマオが言った。
 ──雀じゃなくて、とインド人はいった、ありゃ雀っ子だよ。水門の小娘だ。神かけて、あの子はそこにいるぜ。冗談じゃねえ!
 二人はほほえまずにはいられなかった。女の子は朝日に赤く染まっていた、そしておずおずした声でこういった。
 ──明日の朝なら来てもいいっていったでしょ。もうあしたの朝になったわ。私、あなたたちといっしょにお日さまのところへ行くのよ。
 ──お日さまのところだって? とマオはいった。
 ──そうよ、と少女は答えた。私、知ってるもの。そこには緑の蠅や青い蠅がいて夜の闇を照らすの。それから爪くらいの小っちゃい鳥がいてお花の上に住んでるの。それから葡萄の実が樹にくっついて登っていくの。枝にはパンがなっていて胡桃にはミルクが入ってるの。大きな犬みたいに吠える蛙がいて、それから……なんとかいう……水のなかにいる……かぼちゃ──じゃなくて──殻のなかに頭をしまいこむ生き物。よくみんながひっくり返したりしているあれよ。それでスープを作ったりもするわ。ええと……かぼちゃ。じゃなくて……もうわかんないわ……知ってたら教えてよ。
 ──悪魔にひっさらわれたような気分だな、とマオは言った。もしかして、亀のことかい。
 ──それだわ、と少女は言った、か、め……と。
 ──それだけじゃないだろう、とマオは言った。きみの親父さんは?
 ──教えてくれたのは父さんよ。
 ──手ごええな、とインド人は言った。で、何を教わったんだい?
 ──いまいったことぜんぶよ、光る蠅と、鳥と、それから……かぼちゃと。あのね、父さんは水門の仕事をはじめる前は船乗りだったの。でも父さんはもう年だわ。私たちのところではいつも雨が降ってるのよ。たちのわるい植物しかないの。ご存じなくて? 私、家のなかに庭が、きれいな庭が作りたかったのよ。だって外は風が吹きまくっているんだもの。それでね、家のまんなかの床板をはずしちまおうって思ったの。いい土をしいて、草や、バラや、夜になると閉じる赤い花を植えるの。お話をする相手にはきれいな小鳥たち、うぐいすや、ほおじろや、べにひわを飼えばいいわ。でも父さんがだめだっていったの。そんなことをしたら家がめちゃめちゃになるし、湿気がすごいことになる、ですってさ。湿気は私もごめんだわ。それであなたたちといっしょにあの国へ行くことにしたのよ。
 荷足船はおだやかに漂っていた。運河の両岸では木立が列をなして遠ざかっていった。水門はすでに遠かった。もう後戻りはできなかった。曳舟は前方でさかんに汽笛を鳴らしていた。
 ──しかし、どこまでいってもなんにも見えないよ、とマオは言った。おれたちは海へは出ないからね。君の蠅も、鳥も、蛙も、けっして見つかりっこないんだ。そりゃ、お日さまはちっとは多めに出るだろうけど──それだけのことさ──そうじゃないか、インド人。
 ──ちげえねえ、と彼は言った。
 ──ちげえねえ、ですって? と女の子は繰り返した。嘘つき! 私はちゃんと知ってるんだから、ふん。
 インド人は肩をすくめてみせた。
 ──そうはいっても、と彼は言った、餓え死するわけにはいくめえ。スープを食べにおいで、バルジェット。
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 彼女はずっとその名前で呼ばれていた。運河がつづくかぎり、それが灰色であっても緑であっても、また寒くても暖かくても、彼女は船の上では彼ら二人の仲間で、奇蹟の国に到着するのをいまかいまかと待ち望んでいた。荷足船はやわらかい若芽の出た茶色の野原にそって進んだ。やがて痩せた灌木が葉をそよがせはじめ、収穫物が黄味をおび、ひなげしが赤い盃のように雲に向かって伸びていった。しかしバルジェットは夏がきてもいっこうに気分が浮き立たなかった。彼女は花を植えた桶のあいだに腰をおろし、インド人やマオが爪竿を引いているあいだも、自分は一杯食わされたんだと考えていた。それというのも、太陽が陽焼けした小さい窓ガラスごしに楽しげな光の輪をいくら床の上に投げかけても、またかわせみが水の上に飛び交ったり、燕が濡れたくちばしを動かしたりしたところで、彼女は花の上に住む鳥も、樹に登った葡萄も、ミルクをいっぱい満たした大きな胡桃も、犬のような蛙も見たわけではなかったのだから。
 荷足船は南の国に到着した。運河の両岸に並んだ家には青々と樹がしげり、花が咲いていた。戸口の上には赤いトマトが王冠のように並べてあり、また窓辺には糸を通したピーマンがカーテンのように吊り下がっていた。
 ──これで終りだよ、とある日マオが言った。もうじき石炭をおろしたら戻るんだ。親父さんも喜ぶだろう、なあ。
 バルジェットは首をふった。
 朝になって、船が舫綱につながれていたとき、彼らはまたしても丸い窓ガラスをこつこつ叩くかすかな音を聞いた。
 ──嘘つき! とかぼそい声が叫んだ。
 インド人とマオは船室から飛び出した。運河の岸の上から青白いほっそりした顔が彼らのほうを振り向いた。そしてバルジェットは斜面の向こうに走り去りながら、ふたたび彼らに叫んで言った。
 ──嘘つき! あんたらみんな嘘つきよ!
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by sbiaco | 2010-02-16 20:06 | II.モネルの妹たち
 ビュシェットの父は、日の出とともに彼女をつれて森へゆき、彼女は父が木を伐っている間、ずっとそばに座っていた。そして斧が振り下ろされる様子や、最初に樹皮の薄片が飛び散るさまなどを眺めていた。ときには灰色の苔が顔に降りかかってくる。《気をつけろ》とビュシェットの父がどなると、まるで地底から響いてくるような轟音とともに木が横ざまに傾いた。巨人のような大木が、大枝を痛め小枝に傷を負って、林間に倒れているの見るのは、なにかもの悲しい気がするものだ。夕方になると、薪の山を燃やす赤みがかった輪が、暗がりにくっきりと浮びあがる。ビュシェットは頃合いを見計らって藺の籠を開け、中から素焼の水差しや褐色のパンの切れを出して父に渡した。父はばらばらになった小枝のあいだに横になり、、ゆっくりと噛みながら食べていた。ビュシェットは帰りがけにスープを食べた。彼女はしるしをつけた木のまわりを走り、父が彼女の姿を見失うと、こっそりと隠れて《うー》と狼の声を真似るのだった。
 そこには村人が「狼の口の聖母マリア」と名づけている、茨の生い茂った、よく谺の響く暗い洞穴があった。ビュシェットは爪立って遠くからその洞穴を眺めていた。
 ある秋の朝、森の枯れた頂がなおも暁の光に燃えるように輝くころ、ビュシェットは「狼の口」の手前でなにか緑色をしたものが震えているのを見た。そのなにかというのは、手もあれば脚もあり、顔はといえば自分と同じ年ごろの女の子のように見えた。
 最初ビュシェットは近づくのが怖かった。父を呼ぼうという気にさえなれなかった。そこにいるのは、ひとが大声に呼びかけると「狼の口」の中から応えをよこす連中の一人なのではないか、と彼女は考えた。身動きしてなにかひどい危害を加えられたら大変だと思って、彼女は目をつぶった。そして顔をうつむけていると、そのあたりからすすり泣くような声が聞こえてくる。その奇妙な緑色の子は泣いていた。そこでビュシェット目をあけたが、なんとも切ない気持になった。というのも、やさしい、悲しげな緑色の顔が涙に濡れていて、緑色の小さい両手が、そのとほうもない女の子の胸の上にぎゅっと押しつけられているのを見たからだ。
 ──あの子はたぶんたちのわるい葉の茂みで転んだんだわ、それで色が移ってしまったんだ、と彼女はつぶやいた。
 そこで彼女は勇気を出して、鉤爪や巻きひげを逆立てた羊歯の茂みを横切って進み、その奇妙な顔に触れんばかりに近づいた。するとしおれた茨の中から、緑色をした小さい腕が伸びてきてビュシェットを迎えた。
 ──この子は私にそっくりだ、とビュシェットはつぶやいた、それにしても変な色をしてるわ。
 その泣いている緑色の生き物は、木の葉を綴じて作った粗末な服で体を半分覆っていた。野生の植物の色はしているものの、まごうかたなき少女であった。ビュシェットは、娘の足が地に根をはっているのではないかと思った。が、娘はじつに敏捷に足を動かしていた。
 ビュシェットは娘の髪をなでて手をとってやった。娘は誘われるままついてきたが、そのあいだもずっと泣きやまなかった。彼女はどうやら口がきけないようだった。
 ──おんやまあ、なんてこったい、緑色の悪魔の子だよ! と、彼女がやってくるのを見たビュシェットの父は叫んだ。──どっから来た、お前さん、なんで緑色をしてるんだ? 返事ができねえのか、え?
 緑色の娘に話が通じたのかどうかは知りようもなかった。《たぶん腹がへってるんだよ》と彼は言った。そしてパンと水差しを与えてみた。彼女はパンを手にとってひねくりまわしていたが、いきなり地面に投げ捨てた。そして水差しを振って中の葡萄酒の音に耳を傾けた。
 ビュシェットは父に、このあわれな生き物を夜のあいだ森に置いてきぼりにしないよう頼みこんだ。薄暗がりのなかに、薪の山がひとつひとつ光りはじめ、緑色の娘はふるえながらその火を見つめていた。娘は小屋へ入ってきたときも、灯りを見たとたんに逃げ出した。彼女はどうしても火になじむことができず、蝋燭がともされるたびに叫び声をあげた。
 ビュシェットの母は彼女の姿を一目見るなり胸に十字をきり、《もしこの子が悪魔なら》と言った、《どうか神さまお助けくだせえまし。はあ、どう見てもキリスト教徒じゃあんめえよ》
 この緑色の娘がパンにも塩にも葡萄酒にも手をつけようとしなかったことを考えると、彼女が洗礼を受けたこともなければ聖体拝領にあずかったこともないのは明らかである。そのことを聞きつけた村の司祭がやってきて家の敷居をまたごうとしたとき、ちょうどビュシェットはこの生き物に莢つきのそら豆をやっているところだった。
 娘はひどく嬉しそうで、茎にも豆が入っていると思って、すぐに茎に爪を立てて割った。しかし豆がないのがわかると、またしても泣きはじめ、ビュシェットが新たに莢をむいてやるまで泣きやまなかった。そしてそら豆をかじりながら、じっと司祭の顔を眺めていた。
 小学校の先生にも来てもらったが、娘に人間の言葉をわからせることも、まともな声でしゃべらせることもできなかった。彼女は泣くか、笑うか、さもなければ叫び声をあげていた。
 司祭は娘を蚤取り眼で調べてみたが、その体のどこにも悪魔のしるしは見当たらなかった。次の日曜日、教会に連れて行かれたときも、彼女は不安な様子をまったく見せなかった、聖水で濡らされたときだけは低いうめき声をもらしたけれども。ともあれ娘は十字架に磔にされたキリストの絵を前にしてもたじろがなかったばかりか、聖なる傷痕や荊棘の裂傷に手をかざしながら、ひどく心を痛めているようにみえた。
 村人たちはおおいに好奇心をそそられた。なかには怖がる者もいた。そして司祭が太鼓判を押したにもかかわらず、娘のことを話題にするときにはいつも《緑の悪魔っ子》と呼ぶのだった。
 娘が食べるのは植物の種や実ばかりだった。ひとが麦穂や枝を見せると、きまって茎や木の部分を割ってみては、そのたびにがっかりして泣き出した。ビュシェットは、どこへ行けば麦の粒やさくらんぼうが見つかるかを娘に根気よく教えたが無駄骨であった。彼女の試みはいずれも同じような期待はずれに終るのを常とした。
 娘はやがて見よう見まねで木や水を運ぶことや、掃き掃除に拭き掃除、さらには縫い物までできるようになったが、彼女が布をあつかう手つきから判断するに、あまり好きでもなさそうだった。ただ火をおこすことだけは頑として承知せず、炉には近づこうともしなかった。

 そうこうするうちにビュシェットは大きくなり、両親は彼女を奉公に出そうとした。彼女は悲嘆に暮れ、夜になると毛布の下で声を殺して泣きじゃくった。緑の娘は小さい友を殊勝らしく見守っていた。朝になると、娘はビュシェットの瞳をじっと見つめていたが、そのうち娘の目にも涙があふれてきた。その晩またビュシェットが泣いていると、やわらかい手がそっと彼女の髪をなで、みずみずしい唇が頬にふれるのを彼女は感じた。
 ビュシェットが囚われの身になるべき期日が近づいてきた。彼女はずっと泣いていて、そのあわれな様子は、かつて「狼の口」の前に捨てられているところを発見された、あの日の緑色の生き物もかくやと思われるほどだった。
 そして最後の夜、ビュシェットの父も母も寝静まったころ、緑色の娘は泣いている少女の髪をなでて手をとった。それから扉をあけ、夜の闇に向かって両腕を広げた。かつてビュシェットが人の住む家に娘を連れてきたように、今度は娘がその手をとって、未知の自由へと彼女を連れ去ったのである。
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by sbiaco | 2010-02-15 23:21 | II.モネルの妹たち
 ジャニーの恋人が水夫になってからというもの、彼女はひとり、まったくのひとりきりであった。彼女は手紙を書き、小さい指で封をし、丈の高い赤い草のあいだを流れる川にその手紙を投じた。これで手紙は海まで流れていくだろう。ジャニーはじつのところろくに字が書けないのだが、恋人はきっとわかってくれるにちがいない、なぜならその手紙は愛の証なのだから。そして彼女は海から返事がくるのをずっと心待ちにしていた。が、その返事はいっこうに届かなかった。彼のところからジャニーのもとへ流れてくる川などなかった。
 ある日のこと、ジャニーは恋人を尋ねて家を出た。彼女は水辺に咲く花やその傾いた茎を眺めたが、どの花もきっと彼女のほうへとなびいていた。ジャニーは歩きながらこう言った、《海の上には船があって──船の中には部屋があって──部屋の中には鳥かごがあって──鳥かごの中には鳥がいて──鳥の中には心臓(こころ)があって──心臓の中には手紙があって──手紙の中にはこう書いてあるの、「僕はジャニーが好き」って。──僕はジャニーが好きは手紙の中にあって、手紙は心臓の中にあって、心臓は鳥の中にあって、鳥は鳥かごの中にいて、鳥かごは部屋の中にあって、部屋は船の中にあって、船は海のとても遠いところにあるんだわ》
 ジャニーは人見知りしないたちだったので、手に粉をまぶした粉挽きたちは、彼女が素朴でやさしく、指に金の指環をはめているのを見ると、進んで彼女にパンをあたえ、軽くキスしてから、彼女を小麦粉の袋のあいだに寝かせてくれた。
 そんなわけで彼女は黄褐色の岩ばかりの国を横切り、低い森のある地方を抜け、町に近い大きな河をかこんだ平原を通り過ぎた。ジャニーに宿を貸した人々の多くは彼女にキスしてくれたが、彼女は一度もお返しのキスをしなかった──というのも、恋をしている女が恋人に内緒でキスをし返すと、そのしるしが血の痕になって頬にあらわれるからである。
 彼女は恋人が船出した港町にたどりついた。そして港に立って、彼が乗った船の名を捜したけれども見つけることができなかった。その船はすでにアメリカの海へ送り出されたあとなのだから、と彼女は考えた。
 坂になった暗い街路が町の小高いところから波止場へと下っていた。街路のあるものは舗装されていて、中央に排水溝が走っていた。他のものは古びた舗石が敷かれた狭い段々にすぎなかった。

 ジャニーがふと目をとめたのは、黄色や青のペンキを塗りたくった家々で、そこには黒人女の首と、嘴の赤い鳥の絵とが描かれていた。夜になると、家々の軒先に大きな提灯が揺れた。そこへ入っていく男たちはどうやら酔っぱらっているようだった。
 これらの家は、黒んぼうの女や色あざやかな鳥がいる国から戻ってきた水夫たちの泊まる旅籠にちがいない、とジャニーは考えた。そして、おそらくは遠い海の匂いがするこういった旅籠で恋人を待ちたいという強い願いが彼女の心にきざした。
 彼女が頭をあげると、女たちの白い顔が見えた。彼女らは格子をはめた窓によりかかって涼をとっていたのである。ジャニーが二重になった扉を排してタイル張りの室内に入ると、そこにはピンクのドレスをつけただけの、半裸の女たちがたむろしていた。むっとするような奥の陰に鸚鵡がいて、ゆっくりと瞼を動かしていた。テーブルには、胴のくびれた大きなジョッキが三つ置いてあって、そこにはまだいくらか泡が残っていた。
 四人の女が笑いながらジャニーを取り囲んだ。地味な布地の服を着た女がもう一人いて、小部屋で針仕事かなにかしているらしかった。
 ──山出しの娘だね、とひとりの女が言った。
 ──しっ! ともうひとりの女が言った、つまらないこと言うもんじゃないわ。
 女たちはいっせいに彼女に呼びかけた。
 ──なにか飲むかい、お嬢ちゃん?
 ジャニーは女たちがキスするにまかせ、胴のくびれたジョッキのひとつをとって飲んだ。でっぷりした女が彼女の指環に目をとめた。
 ──ねえあんたたち、この子結婚してるわよ。
 みながいっせいに応えた。
 ──あんた結婚してんの、お嬢ちゃん?
 ジャニーは頬を赤らめた、というのも、自分がほんとうに結婚しているのかどうか知らなかったし、どう答えればいいのか見当がつかなかったから。
 ──こんな花嫁さんだったらあたいも知ってるよ、と一人が言った。あたいだってね、小っちゃかったころ、七つのころにはペチコートなんかつけてなかったわ。すっぱだかで森へ行って、自分のお寺を建てたものよ──小鳥がみんなあたいの仕事を手伝ってくれたわ。禿鷲がいて石をつつきだして、それを鳩が長い嘴で切りだして、鷽がオルガンを弾いてくれたの。それがあたいの結婚式をあげるお寺で、おミサだったってわけ。
 ──でもこの子はちゃんと結婚指環をもってるじゃないの、とでっぷりした女が言った。
 そこでみないっせいに叫んだ。
 ──ほんとに、指環を?
 そういいながら女たちはひとりづつジャニーにキスをし、やさしく抱いて飲み物をあたえ、しまいには小部屋で縫い物をしている婦人までにっこりと笑いだす始末だった。
 そうこうするうちにヴァイオリンの調べが扉の前から聞こえてきて、ジャニーはつい眠りこんでしまった。二人の女がそっと彼女を抱えて小さい階段をのぼり、奥の小部屋のベッドへ運んでいった。
 それからみながいっせいに言った。
 ──なにかあの子にもたせてあげないとね。でも何にする?
 鸚鵡が目をさまして何かぺちゃくちゃとしゃべった。
 ──いい考えがあるよ、とでっぷりした女が説明しだした。
 彼女は低い声で長いことしゃべっていた。女のひとりは涙をぬぐっていた。
 ──たしかにそうだわ、と彼女は言った、あたしらいままでろくなものじゃなかったけど、これで運がむいてくるかもね。
 ──そうよきっと、あの子があたしら四人に、ともうひとりの女が言った。
 ──そうときまればあとはマダムにお願いするだけだね、とでっぷりした女が言った。

 次の日、ジャニーが出て行くとき、彼女は左手の指の一本一本に結婚指環をはめていた。恋人ははるか遠くにいる。けれどもこの五つの金の指環で心臓(むね)をたたけば、ただちにそこへ入って行くことができるだろう。
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by sbiaco | 2010-02-14 17:23 | II.モネルの妹たち
 イルセは背丈がじゅうぶんに伸びると、毎朝鏡の前へ行って《おはよう、イルセちゃん》と言うのが日課になった。そして冷たい鏡面にキッスしてから唇をすぼめてみせた。映像(かげ)はたったひとりでやってくるようにみえた。じっさいそれはずいぶん遠いところにいた。このもうひとりのイルセ、鏡の奥から立ち上がってくる青白い顔をした少女は、口を凍結させられた囚われの女なのだ。イルセは彼女をかわいそうに思った、なぜなら悲しげでいじわるそうにみえたから。彼女の朝のほほえみは、夜の恐怖がまだ揺曳しているほの白い夜明けの空を思わせた。
 それでもイルセは彼女を愛していて、こんなふうに話しかけた。《だれもあなたにおはようといってくれないのね、かわいそうなイルセ。さあ、私にキッスして。今日はいっしょに散歩に行くのよ、イルセ。もうじき私の恋人が私たちを迎えにくるわ。あなたもいらっしゃいな》 そう言ってイルセが鏡に背を向けると、もうひとりのイルセは憂わしげな顔をしながらまばゆい影のほうへと去っていくのであった。
 イルセは自分の人形やドレスを彼女に見せた。《私と遊んでね。いっしょに服を着ましょうね》 もうひとりのイルセも負けじと人形やらドレスやらをイルセのほうへ差し出したが、それらはいずれもイルセのものより白っぽく、また色あせてみえた。彼女は口がきけず、イルセがしゃべるのと同時に唇を動かすだけだった。
 イルセはときたま子供みたいに、無言の女にかんしゃくを起こすことがあったが、そんなときは彼女のほうでもまたイルセにかんしゃくを起こした。《いじわるな、いじわるなイルセ!》と彼女は叫んだ、《返事してよ、キッスしてよ!》 そう言って鏡を手でたたくのだった。どこにも胴体のないふしぎな手がイルセの手の前にあらわれた。イルセはどうしてももうひとりのイルセのところへ行くことができなかった。
 夜のあいだに二人は仲直りした。イルセは彼女にまた会えるのが嬉しくて、ベッドから飛び起きると、《おはよう、イルセちゃん》とつぶやきながら彼女にキッスをしにいった。
 イルセにほんとうの婚約者ができたとき、彼女は彼を鏡の前へ連れてきて、もうひとりのイルセにこう言った。《ごらん、私の恋人よ、でもあんまり見つめちゃだめ。彼は私のものよ、あなただから見せてあげるの。私たちが結婚したら、毎朝私といっしょに、彼にもあなたにキッスさせてあげるわ》 イルセの婚約者は笑いだした。鏡のなかのイルセもほほえんだ。《この人すてきでしょ、愛してるの》とイルセは言った。《そうね、そうね》ともうひとりのイルセが言った。《あんまり見つめると、もうあなたにはキッスしてあげないわよ》とイルセは言った。《私、あなたとおんなじくらいやきもち焼きなの、知ってて。それじゃまたね、かわいいイルセちゃん》

 イルセが恋を知るにつれて、鏡のなかのイルセはいよいよ孤独になっていった。朝になってももう友達がキッスしにやってこなくなったからである。イルセは彼女のことなどもうすっかり忘れてしまっていた。明け方、イルセの目覚めを訪なうのはむしろ婚約者のまぼろしであった。昼のあいだ、イルセはもはや鏡の女など眼中になかったが、いっぽう彼女の婚約者は鏡の女にじっと目を注ぐのだった。《ああ、とイルセは言った、あなたはもう私のことなんか頭にないのね、いじわるな人。あなたはもうひとりの女ばかり見てるんだもの。あれは囚われの女よ、けっしてやってきやしないわ。あの女はあなたのことで嫉妬してるのよ、でも私のほうがもっと嫉妬してるわ。お願いだからもうあの女を見ないで、ねえあなた、私を見て。いじわるな鏡のイルセ、私の婚約者に返事なんかしたら承知しないわよ。どのみちあんたは出てこれやしないわ、これからもぜったいにね。私から恋人を奪わないで、いじわるなイルセ。私たちが結婚したら、私といっしょに、彼にもあんたにキッスさせてあげるから。さあ、笑って、イルセ。あんたはこれからも私たちといっしょよ》

 イルセはもうひとりのイルセに嫉妬した。恋人が来ないまま日が暮れたときなど、《あんたが彼を追っ払ったのよ、あんたが追っ払ったんだわ、とイルセは叫んだ、あんたのそのふてくされた顔でね。いじわるな女、どっかへ行っちまって、私たちにかまわないで》
 イルセは白くて薄いリンネルの布で鏡に覆いをした。そして最後の小さい釘を打ちこむために端を少し持ちあげてから、《さよなら、イルセ》と彼女は言った。
 しかし彼女の婚約者はやはりつれないままだった。《もう私のこと愛してくれてないんだ》とイルセは思った。《あの人はもう来やしない、私はひとり、たったひとりで取り残されるんだわ。もうひとりのイルセはどこにいるんだろう。あの人といっしょに行ってしまったのかしら》 彼女は金の鋏で布を少しばかり切り裂いて覗いてみた。鏡は白っぽい影に覆われていた。
 《行ってしまったんだ》とイルセは思った。

 ──とにかく、とイルセはひとりごちた、しんぼうづよく待つことだわ。もうひとりのイルセはそのうち嫉妬して悲しい気持になるにきまってる。恋人は戻ってくるわ。私、あの人だったらいつまででも待っていられるわ。
 彼女は毎朝枕の上で、夢うつつのうちに、恋人の顔をありありと自分の顔のそばに見るような気がした。《ああ、愛しい人》と彼女はつぶやいた、《やっぱり戻ってきてくれたのね。おはよう、おはよう、かわいいあなた》 そういって手をのばしたが、手に触れたのはひんやりしたシーツだった。
 ──とにかく、とイルセはふたたびひとりごちた、しんぼうづよく待つことだわ。
 イルセはひたすら婚約者を待っていた。彼女の忍耐はいつか涙のなかに溶けていった。湿った靄が彼女の目を覆った。涙のあとが幾筋も彼女の頬にしるされた。顔の全体がげっそりと痩せてきた。歳月が、毎日、毎月、毎年と、次第に重みを増す指先で彼女をやつれさせていった。
 ──ああ、愛しい人、とイルセは言った、あなた、ほんとに戻ってきてくれるの?
 彼女は鏡の内側を覆っている白いリンネルを裁ち切った。色あせた枠のなかに、ぼんやりした染みだらけの鏡面があらわれた。鏡には皺のようなくっきりした筋がついていて、ところどころ裏箔が剥がれ落ちたあとには影が湖のように広がっていた。
 もうひとりのイルセが鏡の奥からあらわれた、イルセと同じく黒い服を着け、痩せ細った顔をして。すべてを反射する鏡面のなかにあって、彼女の影だけは反射ではないかのような、奇妙な存在感を示していた。そして鏡そのものがまるで泣いていたかのようだった。
 ──あなたもさびしいのね、私とおなじで、とイルセが言った。
 鏡の女はさめざめと泣いた。イルセは彼女にキッスして言った、《こんばんは、かわいそうなイルセちゃん》と。
 イルセはランプを手にして部屋をうろついていたが、いきなりぎくりとした。もうひとりのイルセがランプを手にし、悲しげな目つきで彼女のほうへ歩み寄ってきたからである。イルセはランプを頭の上にかざして、ベッドの上に腰をおろした。もうひとりのイルセもランプを頭の上にかざして、彼女のそばに腰をおろした。
 ──やっと合点がいった、とイルセは考えていた。鏡の女は解き放たれたんだ。で、私を迎えにやってきたのよ。私、もうすぐ死ぬんだわ。
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by sbiaco | 2010-02-13 16:53 | II.モネルの妹たち
 マルジョレーヌは両親を亡くしたあとも、小ぢんまりした生家で、年老いた乳母といっしょに暮らしていた。両親が彼女に遺したのは、茶色がかった藁葺き屋根の小屋と、大きな暖炉のマントルピースだった。というのも、彼女の父は夢の語り手であり紡ぎ手であったから。かつて彼の非凡な着想に惹かれたさる友人が、焼き物のための土と、夢想のためのいくばくかのお金とを彼に貸し与えたことがあった。彼は目もあやな七宝を焼かんものと、長年月を費やしていろんな種類の粘土に金属の粉を混ぜ合わせていた。ガラスを溶かして珍奇なオブジェをこしらえたり、それに金箔を貼ってみたりしたこともある。彼は硬質素地をこねあげて作った中子に「窓」をあけ、冷却されたブロンズは沼のおもてのように虹色の光を発した。しかし、父が残したものはといえば、黒こげになった二、三の坩堝と、金屎(かなくそ)のこびりついている摩滅した青銅板と、暖炉の上に置いてある色のあせた七つの大きな壷があるばかりだった。マルジョレーヌの母は信心深い田舎出の娘だったが、彼女のものはなにひとつ残っていなかった。母は彼女のいわゆる「陶物師(すえものし)」のために、銀の数珠さえ売り払っていたからである。
 マルジョレーヌは父のそばで大きくなった。父は緑の前掛けをして、手はいつも泥だらけで、目は火のせいで赤く充血していた。彼女は暖炉の七つの壷を驚きのまなざしで眺めていた。それらは煙にいぶされ、神秘に満ちていて、まるでうつろな波打った虹のように見えた。奴隷娘のモルジアヌならば、血の色をした壷から、油まみれの盗賊を、ダマスクスの花で覆われた剣もろとも飛び出させたであろう。オレンジ色の壷のなかには、アラジンの場合と同じく、ルビーの果実、アメチストのすもも、柘榴石のさくらんぼう、トパーズの榲桲、オパールの葡萄、ダイヤモンドの漿果などを見出すことができた。黄色の壷には、カマラルザマン王子がオリーヴの実の下に隠しておいた砂金がいっぱいつまっていた。蓋の下にオリーヴの実のひとつが少し見え、器の縁はつやつやと光っていた。緑色の壷は大きな銅の印璽で封印されたものらしく、ソロモン王の名が刻まれていた。歳月がそれにうっすらと緑青を刷かせていた。というのも、その壷はかつて海の底に沈んでいたので、何千年も前からそのなかにはジンニーが、すなわち王子が閉じ込められていたのである。うら若い賢い乙女だけが、満月の夜、マンドラゴラに声をあたえたソロモン王の許可のもとに、その呪縛を解くことができるのだ。青い壷にはジャワール姫が彼女の紺色の衣装をすべて詰めこんでいたが、それらの衣装はいずれも海草で織られ、藍玉をあしらい、貝から採った緋色の染料を散らしてあった。南国の花の青い穀斗がそのまま大きくなったような藍色の壷には、地上の「楽園」のすべての空が、木に実るゆたかな果実が、燃えるような蛇のうろこが、天使のもつ赫々たる剣が封じ込められていた。最後の壷には謎めいたリリス姫が天上の「楽園」の空をそっくり注ぎ込んでいた。というのも、その壷は紫色で硬く、まるで司教の着る頭巾付の外套のようにすっくと立っていたからである。
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 こういったことに通じていない人々にとっては、暖炉に張り出したマントルピースの上にあるのは、ただの古びて色あせた七つの壷にすぎなかった。しかしマルジョレーヌは、父のしてくれたお話によって、ほんとうのことを知っていた。冬の炉辺、薪や蝋燭のちらちらする火影のあいだに、彼女は眠る時間がくるまで、これらの不可思議がひしめきあう様子を目で追っていた。
 そういってもパン櫃も塩入れも空っぽとあっては、さすがの乳母もたまりかねてマルジョレーヌに哀訴した。《結婚しなせえ、と彼女は言った、かわいいたんぽぽ娘さんよう、あんたがたのお母さんはジャンのことを考えていなすったよ。ジャンのとこへ嫁にいったらどうかえ。かわいいジョレーヌ、ジョレーヌ嬢ちゃん、あんたならきっときれいな花嫁さんになれるよう》
 ──マルジョレーヌの花嫁には騎士たちがいたわ、と夢みるように少女は言った、私は王子さまと結婚するの。
 ──マルジョレーヌ姫さんよう、と乳母は言った、ジャンと結婚しなせえ、そしたらジャンがあんたの王子さまになるんだよう。
 ──いいえ、小母さん、と夢みる少女は言った、私は糸を紡ぐほうがいいわ。私、もっとりっぱなジンニーのために、ダイヤモンドやらドレスやらを待ってるのよ。麻と、紡錘竿(つむざお)と、ぴかぴかの紡錘(つむ)とを買ってきてちょうだいな。もうじき私たちのお屋敷がもてるでしょう。そのお屋敷は、いまはアフリカの黒い沙漠にあるのよ。そこには血と毒にまみれた魔法使いが住んでるの。魔法使いは旅人のお酒に茶色の粉をまぜこんで、それを飲んだ旅人は毛むくじゃらの獣になってしまうんだわ。お屋敷は赤々と燃える松明に照らされていて、食卓にはべる黒人たちはみな頭に金の冠をかぶってるの。私の王子さまがその魔術師を退治すると、お屋敷はこの田舎へ飛んできて、小母さんは私の赤ん坊をあやすことができるのよ。
 ──おお、マルジョレーヌ、ジャンと結婚しなせえ、と年老いた乳母は言った。
 マルジョレーヌは座って糸をつむいだ。彼女は熱心に紡錘をまわし、麻糸を撚ったり、撚りを戻したりした。紡錘竿は細くなったかと思うとまた太くなった。彼女のそばにはジャンがやってきて座りこみ、彼女をほれぼれと眺めるのだった。しかし彼女はそんなことにはいっさいお構いなしだった。というのも、大きなマントルピースの上の七つの壷には不可思議がいっぱい満ちていたから。昼のあいだ、彼女は壷がうなったり歌ったりするのを聞いているんだとばかり思っていた。が、彼女が糸をつむぐ手をとめると、紡錘竿はもう壷に向かってささやくのをやめ、紡錘もまた壷に音を響かせるのをやめた。
 ──おお、マルジョレーヌ、ジャンと結婚しなせえ、と年老いた乳母は毎晩のように言った。
 けれども真夜中になると、夢を追う娘はむくりと起き上がった。彼女はモルジアヌのように壷に砂粒をふりかけ、さまざまな不可思議を呼びさまそうとした。にもかかわらず、盗賊はあいかわらず眠りこけていた。珍奇な果実が触れあう音もしなければ、砂金のさらさらいう音も、衣装の生地がこすれる音も聞こえてこなかった。そしてソロモンの封印は、閉じ込められた王子の上に重々しくのしかかったままだった。
 マルジョレーヌは砂粒を壷にひとつひとつふりかけていった。七たび砂粒は壷の硬い土に当って音を発し、七たび沈黙が繰り返された。
 ──おお、マルジョレーヌ、ジャンと結婚しなせえ、と年老いた乳母は毎朝のように言った。

 それがうるさくてマルジョレーヌはジャンの姿を見ると眉をひそめるようになり、ジャンはそれっきりもう来なくなった。そしてある明け方のこと、年老いた乳母が死んでいるのが見つかった、顔にはおだやかな笑みを浮かべながら。マルジョレーヌは喪服をつけ黒い頭巾をかぶり、なおも一心に糸を紡ぐのであった。
 彼女は毎晩起き出すと、モルジアヌのように壷に砂粒をふりかけては不可思議を呼びさまそうとした。しかしくさぐさの夢想はあいかわらず眠りこんだままだった。

 マルジョレーヌが倦まずたゆまず糸を紡いでいるあいだに、彼女はいつしか老年にさしかかっていた。しかしソロモン王の封印のもとに囚われの身になっている王子は、幾千年も生きていながら、おそらくはいまもなお青年のままなのに違いなかった。ある満月の夜、夢を追う老女は暗殺者のように起き上がると、槌を手にとった。彼女は気が狂ったように六つの壷を叩き割ったが、不安のあまり額には脂汗が流れた。器のくだける音が響いて、ぽっかりと穴があいた。中は空っぽだった。彼女はリリスが紫色の「楽園」を注ぎこんだ壷を前にして、しばらくのあいだためらっていた。それから意を決して、ほかの六つと同じようにその壷を打ち壊した。砕け散った破片のあいだに、干からびた灰色のジェリコの薔薇が転がり出た。マルジョレーヌはその花を咲かそうとしたが、しかし薔薇は粉々になって飛び散った。
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by sbiaco | 2010-02-12 23:19 | II.モネルの妹たち
 シースは小さいベッドのなかで脚を縮め、壁に聞き耳をたてた。窓がほんのりと白んでいた。壁は震えていて、まるで息を殺して眠っているかのようだ。小さな白いペチコートが椅子の上にふくらみ、その下からふたつの長靴下が、柔らかくてぺしゃんこの脚みたいに黒く垂れ下がっている。壁に掛かったドレスはあやしいまでにくっきりと輪郭を示し、そのままするすると天井まで登っていきそうにみえる。嵌め木の床板がぎしぎしと夜の闇に低い音を響かせている。広口の水差しは、さながら金盥にうずくまった白い蟇蛙といったところで、そいつがゆっくりと影を吐呑している。
 ──私、あまりにもみじめだわ、とシースは言った。そしてシーツにくるまって泣き出した。壁の吐息が切迫してくる。しかし二本の黒い脚はあいかわらずだらりと垂れたままで、ドレスはいっこうに壁を這いのぼる様子もなく、うずくまった白い蟇蛙はその濡れた口をぽかんと開けたままだった。

 シースはなおも言った。
 ──みんなが私に腹を立てているし、この家では姉さんたちばかりちやほやされているし、晩ごはんの途中で脱け出して寝てしまってもだれもなんにも言わないんだから、私、もう家を出てってやるわ、そうよ、遠い遠いところへ行ってやるわ。私はシンデレラ姫といっしょ、それがほんとの私なのよ。いずれ姉さんたちに思い知らしてやるわ、ええ。王子さまをつかまえてみせるわよ、きっと。姉さんたちには恋人なんかひとりだって見つかるもんですか、ぜーったいに、ひとりもね。で、私はきれいな馬車に乗って、王子さまといっしょに帰ってくるというわけよ、それが私のやることなんだわ。もしそのとき姉さんたちがやさしくしてくれたら許してあげるつもりよ。かわいそうなシンデレラ姫、でもあんたのほうが姉さんたちよりずっとすてきなんだってことがいまに分るわ、ええ。
 長靴下を手早くはき、ペチコートの紐を結んでいるうちに、彼女の小さい胸は高鳴ってきた。空になった椅子が部屋のまんなかにほったらかしのまま残された。
 シースは忍び足で台所へ下りていくと、暖炉の前に膝まづき、手を灰のなかに突っこんで、またしくしくと泣き出した。
 糸車の規則的な音がきこえたので彼女は振り向いた。毛の生えた暖かいものが彼女の脚にそっと触れた。
 ──魔法使いのお婆さんはいないけれど、とシースは言った、でも猫がいるわ。ほら。
 彼女が指を差し出すと、猫はその指をゆっくり舐めたが、それはまるで小さくて熱いやすりでこすられているような感触がした。
 ──おいで、とシースは言った。
 彼女が庭の扉を押すと、涼しい風がどっと一吹きした。濃い緑色の影が芝生の上にくっきりと浮び上った。その大きな楓の木は枝をふるわせていて、星がその枝のあいだにいくつも吊り下がっているようにみえる。野菜畑が木々の向こうに明るくみえ、メロンを覆う鐘形のガラスがいくつも光っていた。
 シースは丈の高い草が心地よく肌に触れてくる藪をかすめるように通り過ぎた。そしてちっぽけな光を飛ばしているガラスの鐘のあいだを駆け抜けた。
 ──魔法使いのお婆さんはいないの。猫、お前、馬車を作れるかい? と彼女は言った。
 小さいけものは灰色の雲がたなびく空へ向かってあくびをした。
 ──王子さまはまだみたいね、とシースは言った。いつ来るのかしら?
 彼女は紫色のあざみのそばに腰をおろして、野菜畑の垣根を眺めた。それから履物を片方だけ脱いで、すぐりの木立の向こうに力いっぱい投げつけた。履物は本街道へ落ちていった。
 ──さ、猫、耳をすまして。もし王子さまが私の履物をもってこなかったら、お前に長靴を買ってあげるわ、そしていっしょに王子さまを探しに行きましょう。王子さまはとてもりっぱな若者なの。緑の服を着ていて、ダイヤモンドもいっぱいつけてるわ。王子さまは私のことが大好きなんだけど、まだ私を見たことがないの。お前、やきもちを焼いてはいけないよ。二人と一匹でいっしょに暮らすんだからね。私はシンデレラよりも幸せになるわ、だって私のほうがずっとみじめだったんだもの。シンデレラは毎晩舞踏会に行ってたし、とっても豪華なドレスをもらっていたわ。なのに私ときたら、お前しかいないんだもの、私のかわいい小っちゃな猫さん。
 そして濡れたモロッコ皮のような猫の鼻面に頬ずりした。猫はかぼそい声でにゃおと鳴いて、耳のうしろへ足をまわした。それから体を舐め、ごろごろと喉を鳴らした。
 シースは緑色のすぐりの実を拾いあつめた。
 ──ひとつは私に、ひとつは王子さまに、ひとつはお前に。ひとつは王子さまに、ひとつはお前に、ひとつは私に。ひとつはお前に、ひとつは私に、ひとつは王子さまに。ほら、私たちこんなふうに暮していくのよ。なにもかも二人と一匹で分けあうの、そしていじわるな姉さんはもう私たちのところにはいないのよ。

 空に灰色の雲がいくつも積み重なった。ほの白い帯が東の方に昇ってくる。木々はどんよりとした薄暗がりのなかでじっとしている。すると突如として凍てつくような風が吹いて、シースのペチコートの裾をなびかせた。まわりのものがいっせいにおののいた。紫色のあざみが二、三度大きく傾いた。猫は背を丸くして伸びあがり、体じゅうの毛を逆立てた。
 シースは遠くのほうの路上に車輪のきしむ音を聞いた。小さい家の屋根にそって、風に揺れる木々の梢のほうへ、ぼんやりした灯火が走ってくるのがみえた。
 それから車の音が近づいてきた。馬のいななきと、人々のがやがや言う低い声がする。
 ──さ、猫、耳をすまして、とシースは言った。ようく耳をすますのよ。あすこへ大きな馬車がやってきたわ。あれが私の王子さまの馬車なの。急いで、急いで。じき王子さまが私を呼ぶわ。
 またひとつ、金褐色の皮製の履物がすぐりの木立の向こうへ飛んでいって、ガラスの鐘が並んでいるちょうどまんなかに落ちた。
 シースは柳の柵のほうへ駆けていってそれを開けた。
 縦長の陰気な馬車が一台、重々しく進んできた。御者のかぶった二角帽が赤い光に照らされている。黒ずくめの服を着た男が二人、馬の両側を歩いていた。馬車の後部は低くて細長く、まるで柩のようにみえた。饐えたような匂いが夜明けの風にのって漂ってくる。
 しかしそんなことはいずれもシースの知ったことではなかった。彼女に分るのはただひとつ、目を見張るような馬車がそこにあるということだけである。王子さまの御者は金のかぶりものをつけている。重そうな長方形の箱にはきらびやかな婚礼の装身具がぎっしり詰まっているんだろう。箱を包みこむ、あの不気味で崇高な匂いは、きっと王権のしるしなのだ。
 そこでシースは腕を突き出してこう叫んだ。
 ──王子さま、私を連れてって、私を連れてって!
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by sbiaco | 2010-02-11 23:55 | II.モネルの妹たち
 モルガーヌ姫はだれをも愛さなかった。彼女は冷たいまっしろな心の持主で、花々や鏡に囲まれて暮らしていた。髪には赤い薔薇をさし、その姿を鏡に映しては眺めていた。他人というものは、それが若い娘であろうが青年であろうが、彼女の眼中になかったのである、というのも、彼女は彼らのまなざしのなかに自己の姿しか認めなかったから。残虐さや官能なども彼女のあずかり知らぬことであった。その黒髪はゆるやかな波のように顔のまわりに垂れ下っていた。彼女の願いはただ自己を愛することだけだった、しかし鏡に映る影には沈静で手の届かぬ冷ややかさがあったし、沼に映る影はといえばぼんやりと色あせていて、また川に映る影はゆらめきながら遠ざかっていった。
 モルガーヌ姫はいろんな鏡の話を本で読んで知っていた、たとえば『白雪姫』の、人語を解し姫に死を告げ知らせる鏡の物語や、もうひとりのイルセが鏡を抜け出てイルセを殺しにやってくる「イルセの鏡」の話や、夜のしらじら明けに市民の女を縊死させる、ミレトスの町の夜の鏡の綺譚など。彼女はまた、許婚(いいなづけ)に剣をふりかざす青年の姿を描いたふしぎな絵を見たことがある、それは彼らが夕べの霧の中で自分たちの影に出くわしたからで、けだし分身は死の前触れなのだ。そういっても彼女は自分の影を怖いとは思わなかった、なぜなら鏡の中で姫と対面する姫自身は、いつもまっしろでヴェールをかぶっていて、残虐でもなければ官能をそそることもなかったから。磨きあげられた緑金の薄板にしろ、重々しい水銀の鏡面にしろ、それらはモルガーヌにモルガーヌを映し出してはくれなかった。
 彼女の国の司祭たちは土占い師であり火の崇拝者であった。彼らは四角い箱に砂を敷きつめ、そこに何本も線を引いた。そして自前の羊皮紙の護符を使って計算をたて、煙とまぜあわせた水で黒い鏡をこしらえた。夜になってからモルガーヌは司祭たちのところへおもむき、供え物の菓子を三つ火のなかへ投げ入れた。《ごらんなさい》と土占い師は言って、黒い水鏡を指し示した。モルガーヌが覘いてみると、はじめは表面に白い靄が漂っていたが、やがて色のついた輪が湧き出てきて、そこにひとつの映像が軽やかに浮き上がって流れ出た。それは縦長の窓のついた立方体の白い家の像で、三つめの窓の下に大きな青銅の環が吊り下がっていた。そしてその家のまわりには灰色の砂が一面に広がっていた。《これがその場所です、と土占い師は言った、ここに本物の鏡があるのです。もっともわたくしどもの知識では、その位置をはっきり示すことも、説明することもできませんがね》
 モルガーヌは身をかがめて、供え物の菓子をさらに三つ火のなかへ投げ入れた。しかし像は揺らいで暗くなっただけだった。白い家は底のほうへ消えてゆき、モルガーヌはむなしく黒い鏡を眺めていた。
 その翌日、モルガーヌは旅に出たいという強い望みをいだいた。というのも、彼女はあの砂の陰気な色をどこかで見たことがあるような気がしたので、とりあえず西へ向かって出発することにした。彼女の父が選りぬきの隊商と、銀の鈴つきの騾馬とを与えてくれたので、彼女は内部が豪奢な鏡張りになっている輿におさまって旅をつづけた。
 そんなふうにして彼女はペルシャを通り過ぎ、人里離れたところにある旅籠を一軒づつ綿密に調べてみた。井戸のそばに建てられた、旅人の群が出入りする旅籠はもちろん、夜ともなれば女たちが歌を歌い、金貨や銀貨を打ち鳴らすいかがわしい娼家までも。
 ペルシャ王国の最果ての地で、彼女は白い、立方体の、縦長の窓のある家をたくさん見た。けれどもそこには青銅の環は吊り下がっていなかった。人々の話では、くだんの環は西の方、シリアのキリスト教国で見つかるだろうとのことだった。
 甘草(かんぞう)の林が生い茂った湿気の多い平野からなる地方があり、その周りを囲むように河が流れていて、モルガーヌはその河の平らな土手を通り過ぎた。末端の上にそそり立つ狭い岩盤を丸彫りにして作った家々があり、また隊商の通り道の、日のあたるところに座った女たちは、馬の尻尾の赤毛を編んで作った鉢巻のようなものを額に巻いていた。その地で暮らす人々はみな馬の群を引き連れ、銀の穂先のついた槍をかついでいた。
 さらに遠くへ行くと、追剥の棲む荒涼とした山があって、彼らは自分たちの神々を祀るために麦から作った火酒を飲んだ。また彼らは奇妙なかたちをした緑色の石を崇拝していて、火を放った円形の藪のなかでたがいに相手をとりかえては淫楽にふけるのである。モルガーヌは彼らを見て怖気をふるった。
 さらに遠くへ行くと、黒衣の人々の棲む地下の町があって、彼らは眠っているあいだだけ神々の訪いを受けるのである。彼らは大麻の繊維を食い、顔にはチョークの粉を塗りたくっていた。そして大麻に酔った連中が、、夜陰に乗じて眠っている人々の喉を割り、彼らを夜の神々のもとへ送り届けてやるという寸法である。モルガーヌは彼らを見て怖気をふるった。
 さらに遠くへ行くと、灰色の沙漠が一面に拡がっていて、そこでは植物も鉱物も砂と見まがうばかりである。そしてその沙漠へ足を踏み入れたところで、モルガーヌはくだんの環のついた旅籠を発見した。
 姫は輿を止めさせ、騾馬曳たちは騾馬の荷物をおろした。それは古びた館で、セメントを使わずに建てられていて、石の塊は陽に焼けて白くなっていた。しかし宿の主人は鏡のことは彼女に何も話すことができなかった、というのも、彼はそんなことはまったく知らなかったのである。
 その夜、みんなが薄い煎餅を食べたあと、宿の主人はモルガーヌに、この環のついた館はその昔ある残酷な女王の居館であったことを語った。その女王は残酷さのゆえに罰せられた。それというのも、かつてある宗教者がいて、だだっ広い沙漠のただなかに一人で住み、旅人たちを河の水で沐浴させて福音を伝えていたのだが、女王はその男の首をはねるように命じたのである。その後ほどなくしてこの女王は世を去り、一族もともに絶え果てた。そしてその居館のうち、女王の部屋だけが壁でふさがれた。宿の主人はモルガーヌに石をつめてふさいだ扉を見せてくれた。
 そのあとで宿の客たちは庇のついた四角い部屋々々に分かれて寝た。しかし真夜中になると、モルガーヌは騾馬曳たちを起こし、塗りつぶされた扉を破るよう命じた。そして手に鉄の松明をもち、砂埃の舞う穴から中へ入っていった。
 やがて悲鳴が聞こえたので、モルガーヌのお供のものどもは姫を追って中へ入った。彼女はふさがれた部屋のまんなかで、銅を打って作った盆を前にして膝まづいていたが、その盆には血がなみなみと満たされていて、姫はそれを一心に見つめていた。宿の主人は双手をあげて天をあおいだ。というのも、皿にたまった血は、この閉ざされた部屋のなかで、残酷な女王が斬り落とされた首をそこに置かせたときからずっと、乾きもせずに残っていたからである。
 モルガーヌ姫がその血の鏡の中に何を見たかはだれも知らない。しかし旅の帰途、彼女の騾馬曳たちは、輿のなかへ引きこまれたあと、毎晩一人づつ殺されていった、いずれも喉を割られ、土色になった顔を虚空へ向けた姿で。人々はいつしかこの姫のことを「赤のモルガーヌ」と呼ぶようになったが、まことに彼女こそは悪名高い娼婦にして恐るべき殺戮者であった。
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by sbiaco | 2010-02-10 18:54 | II.モネルの妹たち