19世紀末のフランス作家マルセル・シュオッブ(Marcel Schwob)の「モネルの書」の翻訳とその周辺


by sbiaco

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 つづく何篇かのコントとともに、外界と夢とは密に混ぜ合わされ、互いに反応しあい、ときには幻想が、ときには現実が勝利を収める。とはいうものの、走馬灯のような夢と、いかにも現実らしく見えるものとのどちらに真の幻影があるのかは必ずしも分明ではない。イルセが嫉妬するのは、その中にもうひとりのイルセがあらわれる自分の鏡に対してだろうか? 幻影の力は強く、それは彼女の生活をめちゃくちゃにし、徐々に彼女から恋人を奪い、ついには彼女を死に至らしめる。一種の蜃気楼といえばいえるかもしれない。しかし存在すべてを呑みつくすほどの蜃気楼とは、これまたおそるべき現実の一つだとはいえまいか?

 ここでいう鏡は(後に「冷ややかな娘」ことモルガーヌ姫の話にも出てくるが)、この世の彼方にある実在のしるしというよりも、むしろ罠の一種にみえる。鏡に見入るものは自分の映像(かげ)に心をうばわれ、己のうちに己を失うのだ。《死物はものの姿をゆがめて映す鏡のようなものだ》とすでにモネルが言っている。ナルシスは鏡に映る自己に見入った。鏡像の誘惑はだれしも身におぼえがあるだろう。ある者はその誘惑に屈してしまう、たとえばシュオッブが『黄金仮面の王』のなかでその話を語っている《ミレトスの女たち》や、鏡の反映に自己の啓示を待ち設けるモルガーヌ姫のように。またある者は魅了されながらもその欺瞞に抵抗する。鏡を抹殺するもっとも過激なやり方は、もちろんそれを打ち砕いてしまうことである。しかしそこまで徹底した人間はほとんどいまい。鏡の誘惑と反撥とのあわいに生きる人、自己の喪失にも分身の喪失にもひとしく不安をおぼえる人、そういった人々は、欺瞞にみちた鏡面に覆いをかけることでとりあえず心の平静を得る。それは鏡がそこにあることを知りながらそれを見ないための方法なのだ。イルセが行ったのもこのやり方である、《イルセは白くて薄いリンネルの布で鏡に覆いをした。そして最後の小さい釘を打ちこむために端を少し持ちあげてから、「さよなら、イルセ」と彼女は言った》

 アンドレ・ジッドによれば、マルセル・シュオッブ本人もこんなふうに鏡に覆いをかけていたらしい。ジッドの証言は、彼がこの奇妙な話題を一度ならず取り上げているだけにいっそう興味が深い。シュオッブがユニヴェルシテ街に居を構えていたアパートを思い出しながら、ジッドはこのように書いている、
 
 その部屋には、私の覚えているかぎり、たしか小さいマントルピースがひとつあった。そのマントルピースだか家具だかの上に、鏡がひとつ置いてあって、これに布か紙で作った覆いがすっぽりかぶせてあった。シュオッブはすぐに、彼が鏡というものを嫌っていること、少なくともそこに映った自分の顔を見るのが嫌いなことを私に説明してくれた。

 そしてジッドはあっさりとこう結論している、《おそらく彼は鏡に映った自分が醜いことを気に病んでいたのだろう》と。しかしそうだとしたら、どうして自室に鏡を置く必要があろう? いっそ部屋から鏡を取っ払ってしまったほうが捷径ではないか、ことに覆いというものが、その<下に>鏡があることをいよいよ強く意識させるものでしかないとすれば。けっきょくシュオッブは、イルセと同じく、他者としての自己をたじろがずに見るか、それともその他者を身辺から遠ざけて存在しないものとするか、そのどちらとも意を決することができなかったのだ。それというのも、イルセが同じように《白いリンネルの布で》鏡を覆ったとしても、鏡の婦人は依然としてその薄い錫の膜の向うで生きつづけているのみか、姿が見えないだけにその存在はますます脅威的なものとなりまさるのである。覆いをかけられた鏡は鏡の不在を意味しない、それは一個の仮面である。

 《夢を追う娘》がわれわれに示すのは、自己のイメージではなく、外部のオブジェに心をうばわれて狂っていく人の落胆である、じっさいマルジョレーヌの七つの壷はオブジェ以外の何物でもない。マルジョレーヌはこれら埃をかぶった七つの古い壷に魔法の力が宿っていると信じている。彼女の家屋敷はいまは魔法使いに占拠されているけれども、そのうち王子様があらわれて魔法使いを退治し、彼女はその王子と結婚して家屋敷はふたたび自分のものとなるだろう。彼女はこういった確信を七色に光る七つの壷から得たのだが、この壷を作った彼女の父その人がすでに《夢の紡ぎ手》であった。そしてこの七つの壷を愛するあまり、彼女はジャンというりっぱな若者との結婚を断念する、ジャンはマルジョレーヌにひそかに思いを寄せていて、彼女から色よい返事を期待していたのだが。マルジョレーヌの過ちは、自分ひとりが胸のなかに納めている神秘の啓示を事物に期待したことである。その過ちに気づいたとき、彼女は夢想の容器である七つの壷を次々に打ち壊していく。しかし時すでに遅し、ジャンはすでに立ち去ったあとである。マルジョレーヌもまた、約束を守らぬ事物の見かけにだまされて、まんまと罠にはまってしまったのだ、というのも約束するのは事物ではなくわれわれのほうなのだから。エゴイズムから憐憫への道は、他者との出会いを契機として、自我がそれ自体から脱け出して拡がってゆくことを要求する。もしその途上で道に迷うなら、それは人が往々にして思うように、現実をさしおいて夢を選んだからではなく、両者を混同したためである。非実在を、それがあるがままに受け入れ、決然と選び取る人々は、彼らの夢が実現されることを期待もしなければ望みもしない。それゆえに、われわれがこれまで見たように、またこれからも見るように、モネルは断固として実在を放棄する立場を説くのである。しかるにマルジョレーヌにとっては王子は実在していて、彼女の家屋敷も《アフリカの黒い沙漠》のどこかにある。王子はいつかやってきて彼女と結ばれるだろう。たしかに王子は王子である時空に存在し、ジャンはジャンである時空に存在する、問題はただそのふたつの時空が同じ事象性をもっていないことなのだ。

 《願いがかなった娘》ことシースはマルジョレーヌとは対称的である。彼女もまた夢を、シンデレラの夢を生きていて、やはり王子様を待っている。ただし彼女は幸運にも目をさまさない、その点では姉の「夢を追う娘」よりも夢への信念が深いというべきだろう。そしてこの信念の深さが、皮肉にも彼女を真理の近くへ位置せしめるのである。彼女に近づいてくる霊柩車は王子の馬車で<あり>、そこから立ちのぼる饐えた匂いは彼女には芳香で<ある>。《王子さまの御者は金のかぶりものをつけている。重そうな長方形の箱にはきらびやかな婚礼の装身具がぎっしり詰まっているんだろう》。彼女がそう望んだからこそ、事物はこのようなものとしてあるのだ。

 だれをも愛さぬ姫君、《冷ややかな娘》ことモルガーヌとともに、現実はこの上なく奇妙なかたちでふたたびわれわれの前にあらわれる。外部の世界が整合性を獲得するにつれて、今度は自己の実在性がもはや確たるものとして感じられなくなる、それがモルガーヌの場合である。彼女は次々に新たな鏡を覗きこみ、自己を探し出そうとするが、それはどこにも見つからない。《彼女の願いはただ自己を愛することだけだった、しかし鏡に映る影には沈静で手の届かぬ冷ややかさがあった……磨きあげられた緑金の薄板にしろ、重々しい水銀の鏡面にしろ、それらはモルガーヌにモルガーヌを映し出してはくれなかった》

 自分がだれなのかをいったいどうやって知ればよいのか──自分が何物かであるのかどうか、それすら不明なときに? 彼女にとっての自己とは、さしあたっては虚無、自己の不在としか感じられない。彼女はこの《冷たいまっしろな心》、自己の底にぽっかりと開いた穴がほんとうの自分ではないことを知っている。けれどもこの世のどこかに、モルガーヌにモルガーヌを映し出してくれる《まことの鏡》があるに違いない。そこでモルガーヌは探求の旅に出る。このコントの恐ろしい皮肉は、彼女がついに自己を見出すことである。《まことの鏡》とは洗礼者ヨハネの血をたたえた銅製の盆なのであった。その鏡を見たとたん、彼女は自分が本来どういう人間であったかをまざまざと知るのだ。
 
 モルガーヌ姫がその血の鏡の中に何を見たかはだれも知らない。しかし旅の帰途、彼女の騾馬曳たちは、駕籠のなかへ引きこまれたあと、毎晩一人づつ殺されていった、いずれも喉を割られ、土色になった顔を虚空へ向けた姿で。人々はいつしかこの姫のことを「赤のモルガーヌ」と呼ぶようになったが、まことに彼女こそは悪名高い娼婦にして恐るべき殺戮者であった。

 モルガーヌにとっても、イルセにとってと同様、鏡は一種の罠である。ただしイルセは、自分と映像(かげ)との間に──たとえ上首尾には終らずとも──一定の距離をおこうと努める、いっぽうモルガーヌはといえば、一目見たとたんその映像に圧倒されてしまい、その結果彼女は血鏡に映じたものに「化してしまう」のである。彼女にのりうつって生きるために、サロメが《はるかな昔から》彼女を待っていたのであった。以後、モルガーヌはモルガーヌとしてではなく、サロメとして行動する。そしてこうした代償と引き換えに、彼女は自己の実在性を認識し、その冷たい心の奥底にひそむもの──それまでは無縁だと思っていた官能性や残虐性──を知ったのであった。

 さて、モネルの妹たちのうち最後の一人を残すのみとなった。われわれは《エゴイズムや、官能や、残虐さや、高慢さや、忍耐や……にとりつかれ》ている娘たちを見てきた。リリーがとりつかれているのは憐憫、あるいは憐憫以上のなにものかである。ある晩のこと、不治の病に倒れた友達のナンを癒すことができるのはマンドジアーヌ女王だけだという夢のお告げを受けた彼女は、どこか遠い国に住むというこの女王を尋ねる旅に出る。長年月を費やして探すものを得た彼女が故郷に戻ってみると(マンドジアーヌは薬草であった)、ナンはとっくの昔に病気が治り、すでに結婚していた。リリーはもうお婆さんになっている。彼女の自己犠牲は無意味だったのだ……しかしはたしてそうだろうか、いや、そうではあるまい、われわれは、リリーの物語を皮肉なコントとみなす人々には与することができない。たしかにリリーの試みは失敗に終った、なぜならナンはその薬草の助けなしに治ってしまったのだから。しかし彼女が探求の旅に出たのはおそらく無駄ではなかった。玄妙な代償の法則によって、ナンが治るためにはりリーの自己犠牲が必要だったといえないだろうか? この解釈の正当性を示すのは、ナンの病気が治ったのは、いずれにせよ奇蹟だとしか思えないことである。往診にきた医者たちは、《手をつくした診察の結果》、おそらく彼女は寝たきりで二度と歩けないと診断を下したのではなかったか。マルセル・シュオッブはこの問題にはっきりした回答を与えていない、それは読者のめいめいが考えるべきことである。

 これら一連のコントに共通する要素として、重要なものを二つあげておきたい、すなわちどのコントもある探求の物語であること、そしてその探求の担い手が少女であることである。探求は数時間で終るものもあれば、数年かかるもの、あるいは一生を費やさねばならぬものもある。探求が遊びのかたちをとった例をあげると、たとえば青髭の小さい妻の場合や、またシースの場合もある程度まではそうだろう。探求がいっときの冒険、あるいは冒険の一刹那のかたちをとることもある、たとえば風車小屋の娘の場合。また探求すなわち旅というかたちをとることもある。この旅という象徴は、たしかにもっとも伝統的であり、解釈の容易なものでもあるが、マルセル・シュオッブはこの旅のトポスをことのほか好んだ。いっぽうこれらの物語の生起する時と所はといえば、一篇づつそれぞれ異なっている。現代のフランスを舞台にしたもの(《官能的な娘》、《よこしまな娘》)、そのうちでも特にブルターニュ地方を念頭においたもの(《わがままな娘》)、はっきりと特定できないがどこかの北国を背景にしたもの(《当てがはずれた娘》)、外国ではまず英国(《われとわが身を投げうつ娘》)、それから古代オリエント(《冷ややかな娘》)、あるいは時代も地域も特定できないもの(《野生の娘》、《夢を追う娘》、《願いがかなった娘》)など。《われとわが身を投げうつ娘》の場合は、シュオッブが意図的に取り入れた古語法(《l'hiver qu'il fait froid...》や《par grande consultation...》や《lors elle s'ecria...》など)のみが、漠然とではあるがこの挿話にそれらしい雰囲気を与えている。とはいうものの、そんなことは些事にすぎない。われわれとしては、モネルの十一人の妹たちがめいめいの仕方で光をあてるのがただ一つの主題、探求という主題であることを銘記しておけばそれでいい。

 しかし何を探求するのか、と問う人がいるかもしれない。それは必ずしも一言でいえるようなものではないし、モネルの妹にしても、その幾人かは自分でもそれが何なのか知らないのである。ピエール・リエヴルが言うように、彼女らは《まだほんの子供であり、その心にうごめいている感覚や情動にせよ、ほとんど意識の表面に顕在化していない》のだ。悪徳、残虐性、異常といった面においてすら、彼女らは無意識に由来する言語以前の無垢を保っていて、まさにその無垢によって悪をなすのである。じつのところ、彼女らは悪の何たるかを知らない。善とか悪とかいった倫理範疇は彼女らの知るところではない。彼女らは未知の力に促されて衝動的に行動するが、その必然性を自分では分析しようとせず、また分析できもしないのである。われわれは彼女らに代ってそれをやってみた。しかし確かなことは、小さいエゴイストや、青髭の妻や、よこしまな娘マッジが自分たちの行為の意味を知らないのと同じく、ジャニーやネリーも彼女らを駆って貞節や献身の行為へ赴かせる動機については何も知らないのだ。しかしだからといって、彼女らがみな無意識の同じ水準にいると結論する必要はあるまい。これまで見てきたことからも明らかなように、マルセル・シュオッブが描こうとしたのは、彼女らが次々にたどる道そのものであり、その探求は彼女らを超えて、彼自身の探求へと導くものであった。
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by sbiaco | 2010-01-23 13:15 | 附録
第四章: 《モネル》


 この本の第三章では、モネルの生涯の軌跡が幻のように立ち現れてくる、それはあまりにもはかない一生だったが、シュオッブはこの章において彼が愛した少女の顔の捉えがたくも多彩な諸相を喚起するのである……それはなじみの顔というより夢のなかでちらりと見た顔、薄暗がりで見かける事物に特有のくっきりした輪郭をもった顔、長くはわれわれのもとに留まれないことを知っている人々の、物憂げな笑みを浮かべた蒼白な横顔だ、そしてモネルはここに最後の転身をとげる、モネルがモネルとして受肉するのである。ここでのモネルはもはや第一章の彼女ではない、そのおもざしはいっそうあえかに、いっそう穏やかになっている。かつての衒気は影をひそめ、代りにそれとは別の確信が彼女に輝きを与えている。おそらく第一章での彼女はやや知的でありすぎたのだ、あえていえば独断的でありすぎた。いまや彼女は墓の向うから語る、その声は新しい調子を帯びていて、この独特の懐かしい調子は、すでにヴェルレーヌが耳にし、《無言の声の懐かしき恋しき節の鳴り響く》と歌ったのと同じ類のものである。

 それでは彼女は死者の霊なのか? それがよく分らないのである。彼女は絶えず生と死との間を往還していて、おそらくは生でも死でもない中間領域にいるのだが、そこは非実在の事物の形見の集積所である。われわれがこれから見るモネルは、人間的な皮を脱ぎ捨て、いわば尸解して最後の転身に備える、すなわち彼女の再来、遁走、そして不在の相のもとでの最終的な回帰である。いまや彼女はその教説を成就するためにやってくる、そして恋人に真の救いの道を示そうというのだ、それはモネルの妹たちのだれにも見出せなかった道である、というのも彼女らは自分自身をすら《見出すことができな》かったのだから。

 『モネルの書』の終章を構成する六つのエピソードは、一見したところ、第二部のコント群よりは全体的にまとまっているようにみえる。そこには色調と雰囲気との統一がはっきりと認められる。雨と霧と夜の雰囲気、そしていっときその闇を照らすふしぎな小さいランプ。シュオッブは《モネルの言葉》で語ったテーマをもう一度とりあげてそれを敷衍し、象徴へと変様させるのである。

 この本全体のうち、真正な意味で自叙伝的といえるのはこの第三部だけだということについては、すでに少なからぬ人々が論じている。じっさいどこかにルイーズの面影を探し出そうというのなら、この部分をおいてほかにない。しかし、『モネルの書』のこの逸話的な面はもっと大きな意味合いをもっているので、そこではモネルはルイーズを超えた何者かであり、同じく作中の恋人もマルセル・シュオッブを超えた何者かであるということを忘れるべきではないだろう。この章がきわめて個人的なもので、仲間内ですすんでやる打明け話めいたところがあり、意図的にざっくばらんな調子をとり、その記述にほとんど技巧のあとが見られないように工夫されているとしても、全体として見るならば、やはり彼に霊感を与えた口実以上の何物かなのである。マルセル・シュオッブが文学者であること、それも非常に意識的な文学者であることを銘記しておこう。そして自覚的と否とを問わず、いかなる文学者も、結局のところは一人称では語らないものなのである。《君はすべてを語ることができる、ただし「私は」と言わないかぎりにおいてだが》とプルーストが断言している。じっさい文学者はけっして「私」とはいわない、彼にとって「私」とはつねに他者なのである。作家の実生活などというものは、作品を作るための素材にすぎない。未定形で粗雑な最初の素材、作家が理念的統一への還元によってそれに意味を与えないうちはいかなる真実を表現するにも適さぬものであって──その統一というのは、作家の現実的生活にはどこにも見出されないものなのである。マルセル・シュオッブはこういったことを熟知していた。彼は『モル・フランダース』の翻訳の序文で、デフォーの小説を作者の個人的体験の象徴的な転換とみなし、そこに見られる寓意的な面を分析しながらこのように書いている。
 生を芸術的に表現するために、おのれの生を思考によって絶対的な単純さにまで還元したあとで、彼〔デフォー〕は象徴的表現を幾度となく変形し、それをさまざまな人間タイプに当てはめた。

 マルセル・シュオッブの行ったこともこれと同じである、『モネルの書』は彼のもっとも直截な告白の記録であると同時に、もっとも寓意的な作品でもあるのだ。

        ***

 『モネルの書』はおそらく様々な解釈を許すだろう。じっさい最後のページで著者は、愛し、苦しみ、働くために娑婆世界へ立ち帰ることによって、それまでの教説を撤回しているようにみえる。そうすると、「モネル」は皮肉な作品──そしてある点までは反象徴主義的な作品ということになるだろう──マルセル・シュオッブはここで象徴派の仮面をかぶりながら、この派が振りかざす真理、つまり夢と想像とが現実以上の実在性をもつという真理に真向から対立していることになる。雨の降る夜の闇を照らしながら、大きくなるのを嫌がる子供たちにいっときの慰安を与えるモネルのランプは、けっきょく欺瞞を売っていることになる。そもそもこれらのランプは子供と人形のためのものであって、大人のために燃えるわけではないのだ。ランプの目的は──これまた欺瞞的なものだが──過ぎ去ってゆく少年期をほんのひととき長引かせることにある──そしてその少年期は子供たちの顔が鏡に映っているあいだだけしか続かないのである。

 子供たちがたえず遊びまわっているモネルの家、(この本の初めのところで彼女が語る福音に沿ったかたちで)一切の仕事が閉め出されている家は、《窓が塗り塞がれてい》て、そこでみなが享楽している喜びは偽りの喜びにしかみえず、そこでの暮しは生そのものからのまったき逃避の観を呈している、《その家はまるで牢獄か施療院のようにみえた。牢獄といっても、それはいとけない子供たちがつらい思いをせずにすむように彼らを閉じこめておく場所であり、施療院といっても、それは生活のための労働という病を癒す場所ではあったが》

 いっぽう、《遁走》したモネルが死後そこへ逃げ込んだ「白の王国」、欺瞞的な声の導きにより不幸な恋人たる語り手が入ることを許されたこの王国は、しかしながらまったく接近不可能にみえる。ひとはその王国へは悲しみによっても、暴力によっても、思い出によっても、思考によっても入ることができないのだ。そこで彼はこれらすべてを自分の内で打ち壊すが、それでもまだ入ることができない、というのも、その王国は《まっしろな壁で閉ざされてい》て、彼は最後まで鍵を渡してもらえないのである。

 要するに、最後の章が示しているのは詩人の現世への帰還であって、彼はいま一度《生れたばかりの嬰児の無知と錯覚と驚きを学ぼうと》つとめたが、その努力は無駄に終り──その試みを最後に、彼は決定的に生の道を選び、新しくできた現実の恋人とともにその道を行くのである。《そのとき、ルーヴェットに記憶がよみがえった、彼女は愛すること、苦しむことを選んだのである。彼女は白い着物のまま私のところへ戻ってきて、私たちは二人ながら野原を横切って遁れ去ったのであった。》

 そうするとモネルの探求は現実への回帰によって終末を迎えることになる。見せかけの国々を経巡り、それらを次々に却下しながら続けられたこの長い探求の旅の終局に待ちうけていたのは、まさに現実だったことになる。こうしてモネルは生の道が避くべからざるものであることを恋人に示しながら、そこへと彼を連れ戻す。とどのつまり、彼女の教説は一種の背理法であったわけだ。

 しかしながらこの解釈は唯一無二のものではなくて、同じ前提から出発してまったく正反対の結論に達することも可能である。真の実在とは想像力の欺瞞の謂であって、見せかけとは目にみえる世界の諸現象にほかならない。こういった説明は一見逆説的に思われるかもしれないが、この書物のいくつかの重要な要素に対する配慮の点で、如上の説に優っているともいえるだろう。

 まず最初に、マルセル・シュオッブが最後にモネルの教説を放棄したと断言するのが正しいかどうか。その教えの本質的なテーマ──中心的テーマではないにしても──が、あらゆる所有を捨て去ること、いかなるものにも留まらないことであるとするなら、というのも停止はすなわち死を意味するからだが(《どんな愛も長引けば憎しみになる、どんな公正さも長引けば不正になる》)、上に述べたモネルの否認にはまったく別の意味があることが明らかになるだろう。生への回帰は彼女の言葉の否定ではなく、その成就なので、そのことは彼女自身が書物の初めに告知していて、最後のページでも繰り返していることなのである、《すべてを忘れよ、そうすればすべてはお前に戻ってくるだろう。モネルを忘れよ、そうすればモネルはお前に戻ってくるだろう》 その理由は、真の所有とは永続性のなかにあるのではなく、所有されたものを超えんとする不断の運動のなかに見出されるべきものだからだ、モネルは恋人のもとを去るからこそ彼に忠実なのであり、彼はモネルを否認するからこそ彼女に忠実なのである。

 このあらゆる瞬間の破壊、あらゆる形態を次々に脱け殻として放棄する連続的脱皮が、『モネルの書』のもうひとつのテーマを構成する、すなわち転身のテーマである。

 このテーマは、本書の第一章と第三章においてマルセル・シュオッブがはっきり示したところのもので、第二章はその例証となっている、というのも、モネルの妹たちは著者によって唯一者モネルの数々の化身として紹介されているからだ。《いずれあなたを私の妹たちのところへ連れてってあげるわ。妹たちは私そのものであり……》

 転身のテーマは、明快な比喩により二度にわたってはっきりと言及されている。《モネルの言葉》と《彼女が耐え忍んだこと》から、その箇所を引こう。
 蛇が古い皮を脱ぐように、精神は古い形式を投げ捨てる。
 古い蛇の皮をこつこつ集めている人々を見ると、若い蛇は悲しい気持になるけれど、それはそういう収集家が若い蛇には一種の魔力をもっているからなの。
 というのも、古い蛇の皮をもってる人々は、若い蛇が変様しようとするのを妨げるのよ。
 そんなわけで、蛇は奥まった藪の緑の水路で脱皮をし、年に一度若い蛇が集まって輪になり、古い皮を燃やすの。

 眠りにつく前は〔とモネルは言う〕、私はあなたのいう「小さいおばかさん」だったわ。だってまるで裸の芋虫同然だったんだもの。いつだったか、私たちはいっしょにまっしろの、絹のようにすべすべした、どこにも孔のあいていない繭を見つけたわね。いたずら好きのあなたはそれを割いてみたけれど、中は空っぽだった。羽のある虫がそこから出て行ったんだって、あなたは思わなかった? でも、どうやって出て行ったのかはだれにもわかりはしないわ。虫は長いあいだ眠っていたのよ……

 だれしもすぐに気づくように、第一の例では、真の転身というよりむしろ変様が問題になっている、もっともこの二つは象徴的には似たようなものであるが。

 いっぽう第二の場合に問題になっているのは、まさしく自己の転身である、それは彼女の言によれば《待つこと》であって、それは「白の王国」、すなわち死における最終的な解脱を待つことを意味する。

 しかし転身は、同時に彼女の恋人のそれでもなければならない──彼にとっての待つことであり解放であり、測り知れない叡智に満ちた現実世界への回帰でなければならない。というのも、モネルの王国は、それが想像力や愛や子供の笑顔、もしくは憐憫の情動によってわれわれの目に見えるものとなるかぎり、どこにでも存在するからである。この王国が欺瞞だとしても、少なくともそれは夜の闇を照らす嘘つきのランプと似たような意味合いでそうなのだ。「モネルの書」は、レーモン・シュワーブが適切に述べたように、《少女によって口述された欺瞞の福音書である》。シュワーブはさらにこう述べる、《モネルとその妹たちの家では、想像力こそが現実を裁くのである》。じっさいこうも言えるだろう、マルセル・シュオッブはその探求の結末で夢と現実との矛盾を超え──モネルの妹たちはまさにこの矛盾を生きているのだが──いっときにせよある統一、ある平衡に達したのだ、と。もちろんこの平衡は不安定なものでもかまわない、なぜならどんな平衡も長くつづけば不均衡になるのだから!

 もしかしたら、モネルその人がひとつの嘘、あらゆる嘘のうちもっとも美しい嘘だったのかもしれない……
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by sbiaco | 2010-01-22 23:00 | 附録