19世紀末のフランス作家マルセル・シュオッブ(Marcel Schwob)の「モネルの書」の翻訳とその周辺


by sbiaco

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1894年1月

 去年は私にとって怖ろしい苦しみの年でした。私が命をささげた哀れな少女が死んでいくのを目の前でじっと見ていなければならなかったのですから。この世にただ一人の子、その子のために私は仕事をしていたのです。もしその子に必要なものを与えてやらなくてもいいのなら、私は物書きなんかしやしなかったでしょう。あなたは私より年上で、つらい経験もされていると思いますが、しかしあの訴えかけるような哀れな小さい顔がもう二度と見られないと思うと、あの子供みたいな声がもう二度と聞けないと思うと、何をしたらいいのか途方に暮れてしまいます。あの子の病気が重いと知ったとき、もうあの子のこと以外なにも、だれのことも考えられなくなってしまいました。仕事もやめてしまいました……あの子の病気を治そうと、あらゆることをやってみました──それがあの子に苦しい思いをさせたんじゃないかと恐れます──自分のやったすべてのことが、まるで怖ろしい自責の念のように目の前に立ちはだかります。私はもうこの世になんの興味もなくなってしまいました。癆痎は怖ろしい病です。あの小さい子がどれだけ雄々しくがんばったか、あなたがご存知だったら! いままで多くのことを見てこられたあなたなら、私の生活においてあの子の存在がどういうものだったか、ご想像いただけると思います──あなたにはあの子のことはまったくお話ししませんでしたがね。私はあの子にすべてを教わりました。あなたの愛してくださる私のコントに出てくる女の子はみんなあの子なのです。マイもバルジェットも、ほかの少女もみんな、そして今や! 私はくたびれ果てました。ご憫笑ください。仕事をしようと努めていますが、いまのところ何も書けません。あの重大で怖ろしいことが起ったあとでは、こまごました描写がどれもつまらなく思われてきます。しかし打ちこめることが何もないとすると、この私はいったいどうなってしまうでしょうか。……
 私の頭はからっぽで──ただ読書、読書、読書──考えるのが怖ろしくて……ひどい話ですが、あの子より先に死んでしまいたいと思ったことにも、さして良心の咎めを感じません、もしそうしていたらあの子はまったくの一人ぼっちになっていたというのにね。そして、死ねばもう一度会えるかもしれないと、あの子のあとを追うほどの深い信念も私にはありませんでした。子供を亡くした親はたぶんこんな気持になるのだと思います。これに比べたら、どんな苦しみだってものの数ではありません。あれからほぼ二ヶ月、あなたにお会いできればと願っています。あなたのことは何度も頭をよぎったのですが、何をしようという気にもならないのでした。なにもかもがぐらぐらでした……


ジャック・フランセン『W.G.C.ビヴァンク──マルセル・シュオッブ』(1947年)より一部引用
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by sbiaco | 2010-01-31 23:34 | 附録
 どんな地獄から、またどんな極楽から、このふしぎな、優しい、善良なモネルは立ち上がってくるのだろうか、死んでから、この本のとば口で、妹たちの出現に先立って語るモネルは?──それは昔ながらのあの寡黙な娘たちすべての魂なのであろうか、私たちが理解することなく、黙ったままそばを通り抜けていったあの娘たち、《我々が彼女らを知っているのは、彼女らが同情にあふれているあいだだけ。我々が泣くのをやめたら、彼女らはもう我々の顔をまともに見られない》ような娘たちの魂なのであろうか? モネルは死という忠実な鏡の中に、いっとき自分の姿を映し出したのだろうか? 彼女は自分のために生きる時間をもたない女たちの一人だった。そしていまや、彼女はそのささやかな生の深い意義を垣間見るのである、彼女の微笑や、沈黙や、接吻のうちに隠された、もうひとつの世界の真実のすべてを。それらの真実に、彼女はわれ知らず従っていたのだ……そして今日、モネルは至高の言葉を発する、そのいくつかは不滅の言葉の観を呈する、それらはじっさい、不可解な微笑や、意味もなく動く口や、わけも知らず落ちる涙のうちにある霊的な裏面を語るものなのだ……モネルは私たちのほうへやってくる、彼女の観念的な自我の奥底から脱け出て。そして私たちはいまようやく、どうして自分たちがすでに彼女を妹のように愛していたのかを知るのだ、彼女があんなに哀れに、無意味にみえたとき、私たちがそれと知らないうちに……
 そして次はモネルの妹たちがやってくる番である。彼女らはとりとめもないことを私たちに言う。自分らの小さい住まいの奥でひそやかに行動する、泣くべきときに笑う、黙すべきときに語る、私たちはもう彼女らがどこかに実在することを疑うことができない。そして彼女らがうちにもっている言葉、モネルがすでに発した言葉が、聖なるランプのように彼女らの内面生活のすべてを照らし、彼女らのほんのちょっとした身振りを重大な、厳格な、意味深いものにするのである……
 魂から始めるという着想、勇気をもったことはじつに新しく、美しい。その次に起るすべてのことは、も う 一 つ の 生 の荘厳で光輝にみちた奥底で進展する。そこではもはや射程をもたない言葉、結果をもたない態度などは存在しない。そしてここにいるのはふしぎな少女たち、魂の香りに焚き込められ、その為人がじつに不可解な少女たちである!……「蟹」に出てくる小学生は、後年の彼女がそうであるように、すでに狡猾な生き方をしている。「青髭の小さい妻」は、青い罌粟の実に意地わるく爪をたて、あらゆる官能の称賛すべき完璧な期待のうちに剣の振り下ろされるのを待っている。風車小屋の娘、風変りな少女のマッジは、三つの身振りと三つの言葉のうちに、あのイプセンの驚くべきヒルデの生とほとんど変らないほどの異様なまでに深遠な生のあり方を私たちに見せてくれる。ひりひりするような生命をもつマッジは、おそらくモネルの妹たちの女王であろう。彼女は女性というものの源泉そのものから出てきたようにみえる、邪悪なまでに善良な聖なるヒステリーの根源的な露になおもぐっしょりと濡れながら……それからバルジェット、天国のような国を求めて河を下る彼女は、飛び去る鳥のような叫びのうちに、モネルの妹たちの失望のすべてを要約して示す。内面を見つめるビュシェットやジャニー、それにイルセ、イルセは私の知るかぎりもっとも本質的な幻影である。夜になると、夢のつまった七つの色あざやかな壷に砂粒を振りかけるマルジョレーヌ、それにシンデレラの妹であるシース、シースは猫とともに王子様のやってくるのを待っている。そしてリリーのあとで、モネルはふたたび帰ってくる……私はこれらのページをすべて引用するわけにはいかない、私たちの文学にあってもっとも完璧なページ、私が読むことを得たうちでもっとも単純で、宗教的な深さをもったページ、いかなる称賛すべき魔法のせいか、形定まらぬ両極端のあいだをたえず浮遊しているようにみえるこれらのページ……そのすべてを引用するわけにはいかない、とはいえ、「モネルの遁走」、比類なき優しさをもった傑作であるあのモネルの遁走、それに彼女の「忍耐」や「王国」や「復活」のあとで、この本は少女の語る別の言葉でしめくくられる、そして古い街が雨で覆われるように、それらの言葉が作品の全体を魂で覆いつくすのだ。……
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by sbiaco | 2010-01-30 03:48 | 附録
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 コント、歴史、心理学的分析など、シュオッブ氏の書くさまざまな文章について、私としてはまずいかなる区別もつけずにおこう、それが氏の方法にかなうやり方であり、私はその方法を信じているのである。実在的なものから可能的なものへの距離は、ただ「名」の有無にかかっている。可能的なものは「名」をもたないが、少なくとも一つの「名」を持ちうるのに対し、実在的なものはしばしば匿名性の底へ沈んで見えなくなる。ルーヴルにある(ほかのところでもいいが)未知の人物を彫った大理石の胸像のなかには、おそらく我々の知らないルクレティアやクローディアの像があるだろう、そしてその像に名前がついていなからこそ、それを眺めても、たとえば歴史上の人物像を前にして私たちが感じるような戦慄を、その未知の像に対してもちえないのだ。父祖以来の古い教訓のせいで、私たちはうやうやしくも、いっとき私たちのかぶる仮面が、まるで特権的な巣箱のように、思考の大いなる運動を、蜜蜂の高貴なうなりを、覆い隠してくれると思っている、しかし私たちが忘れがちなのは、人間の観念も、人間の行為も、その生身の顔の上に書かれてはいないということだ、そして芸術家によって見られ、創造されることによって露わになるのは、その芸術家自身の天才であって、モデルとなった人物の天才ではないのである。生まれながらに形象を解釈する才をもっている人にとっては、織工の顔もゲーテの顔も、未知の森の暗い樹木も聖ヴァンサン・ド・ポールの無花果の樹も、まったく同じ価値をもつ。それは差異の価値である。
 世界は差異の森のようなもので、世界を知るとは、形相的に同一のものは存在しないと料簡することである。これは判明な原理であって、人間のなかで完璧に実現されるものだ、というのも、存在の意識とは差異の意識にほかならないのだから。だから人間の学というようなものはない、ただし人間の芸術というべきものはある。それについてシュオッブ氏の言ったことは、私には決定的なものに思われる。たとえばこういう章句。《芸術は一般的概念の対極に位置するもので、個体的なものしか描かず、特異なるものしか望まない。芸術は分類しない、それは脱分類する》 奇妙に光を放つ言葉だが、これにはもうひとつの価値がある。すなわち、少ない言葉によって、卓越した精神のもつ現実的傾向をしっかりと固着することである。ギリシャ戦争に際して、だれか旅行者が私にギリシャの花売り娘のことを語ってくれたらどんなによかったことか、毎朝籠をもってアイオロス通りを歩いていた花売り娘のことを! その娘は何を考えていたのだろうか? 彼女の生、固有で、《特異な》その生は、あの騒動のなかでどんなふうに動いたのだろうか、それこそが私の知りたいことなのだ。花売り娘でも、靴屋でも、大佐でも、荷物運びでもいい。私はまた探検家がこういったことを話してくれるのを期待している、が、どうやら流れに沿って雁行する個々人の生に興味をもっている人はほとんどいないようなのだ、人間は書割に囲まれて生きていながら、それが木でできているのか、布製なのか、紙製なのかを、指でたたいて調べてみるほどの好奇心すら持ち合わせていないのである。
 実存するものを微分すること、この知られざる芸術を、シュオッブ氏はじつに鋭い聡明さをもって実践しようとする。歪曲という手法(これまた正当なものであるが)を用いずに、氏は外見上ほとんど同じような人物をいとも易々と特殊化してみせる。そのために氏に必要なのは、一連の非論理的な事実のうちに、ある種の事実を選び出すことである、つまりそれらもろもろの集合がある外面的性格を決定し、それが人間の内的性格を隠すのではなく、むしろそれと重なりあうような、そういった事実を選択することである。逸話によって創造され、再創造される個々人の生がそれだ。ジェローム・ラランドが蜘蛛を食べていたとか、アリストテレスがあらゆる種類の土製の壷を集めていたとか、そんなことは、前者が大天文学者であり、後者が大哲学者であることに何の因果関係もない、けれどもラランドからラランドを微分し、アリストテレスからアリストテレスを微分するためには、こういった特徴を数え上げることが必要なのである。こういう細部をおろそかにすることによって、俗人は著名人を、つねに同じ姿勢をたもつ蝋人形か何かのように考えてしまうのだ。そして、著名人たちがヴェールをはいだ姿で示されると、俗人は何が何だかわからなくなって、個体的な生のもっとも顕著なしるしであるものに対して腹を立てるのである。人間は、話題になっている人間が論理的であることを望むが、論理こそは個別的な実存の否定にほかならないことに気がついていないのである。
 試みに、ひとつの方法を解明してみよう、これはすでに得られた結果における氏の印象を語るよりむつかしい。得られた結果とは、氏のコント集、ことに『架空の伝記』に見られるように、幾多の人々が生まれ、動き、話し、生の驚くべき確信をもって陸路や海路をたどるということだ。もしシュオッブ氏の皮肉が、アメリカ人がhoaxeと呼ぶところの、韜晦というジャンル(エドガー・ポーが得意とした)に少しでも傾いていたなら、氏は「犬儒派クラテス」の伝記をもって、いかにも多くの読者を、博学な読者をすらも煙に巻くことができたに違いない。なにしろそこには正統的な伝記の静謐を乱すようなことは何一つ書かれていないのだから。このような印象を与えうるためには、確固たる博識、読み手の心にせまる視覚的創像力、変幻自在の文体、巧妙な手法、軽やかな筆、極端な繊細さなど、一言でいえば皮肉の賜物が必要である。こういった力量を、特殊な天分のうちに、自在に行使できる人間には、『架空の伝記』を書くことなどじつに易々たるものであったろう。
 シュオッブ氏の特殊な天分は、おそろしく複雑な単純さとでもいったものである。すなわち、氏の書くコントは、精確で適正な無数の細部を組み合わせ、調和させることにより、たったひとつの細密描写の印象を与えるのだ。花籠のなかに、人は他の花々を棄ててただ芍薬の花だけを見る、しかし他の花々に取り囲まれているのでなければ、人はその芍薬の花を見ないだろう。氏はパオロ・ウッチェロの幾何学的な天才を分析しているが、氏もまたウッチェロのように線を周辺へ引き、また中央へと戻す。異端者フラテ・ドルチーノの姿は、クロード・メランのキリストの絵のように、ただ一筆の螺旋によって描かれているようにみえるが、その線の先は最後に急なカーブを描いて出発点へと戻るのである。
 これらのコントや伝記に見られる皮肉がこの上なく強調されているのが、「殺人者バーク氏とヘア氏」の冒頭である、すなわち《ウィリアム・バーク氏は、もっとも低い社会的身分から成り上がって、永遠の名声を獲得するに至った》と。皮肉はむしろひっそりと、あらゆるページの上に拡がっている、ちょうどつつましやかな、最初はほとんど目につかない色調のように。シュオッブ氏は、その語りの全体を通じて、自分の発明を読者に理解させる必要をまったく感じていない。氏はいかなる意味でも説明的ではない。そのことがまた皮肉の印象を与えるので、それは、ある驚くべき、また厭うべきものにみえる事実と、一篇のコントの人を小馬鹿にしたような短さとの自然な対比によって、いっそう強調される。しかし至高点に達し、絶対的に優勢な、無関心なものとなった皮肉は、憐憫と見分けがつかなくなる。つまりある変様が起ったので、生命の光が我々にはもはや《暗い雨をやっと照らすだけの小さいランプ》のようなものにしか見えなくなるのだ。皮肉はその原因を食いつくし、我々は、我々を微笑ませた悲惨からもはや自分自身を区別できなくなり、自らがその一部であるところの人間的錯誤を愛するようになる。自らの優越性に我々が与えていた利害を低減された生は、もはや施療院の小部屋のようなものにしか見えない、そしてそこでは人形たちが錫の鉢に入った粟粒をついばんでいるのだ。悲痛な、しかし真心のこもった書物、悲しみと愛の傑作である『モネルの書』が描くのはそういった世界である。
 『モネル』の欠点はただひとつ、それは第一章が序文でありながら、そこで語られるモネルの言葉、晦渋で堅固な言葉が、後続の物語において必然的なかたちで活かされていないことだ、マッジの、バルジェットの、青髭の小さい妻の物語、またそのほかの、限りなく繊細な心理学をそなえたもの、逸話の集積から話を浮び上がらせるのに神秘を要するものなどの、どのページにおいても。けだしシュオッブ氏はこれらの少女たちに、その小さい、びっくりした頭に含まれている以上のことを言わせようとしたのだろう、それはモネルとて例外ではない。解釈と図とを交互に出すときに厄介なのは、自分勝手に図の解釈を見出そうとする人である。そういう人は、ときには推論によって彼の想像力を殺してしまう。大切なのは一つ一つ順を追って味わっていくことなので、モネルの言葉のとおりにモネルを享受しようと過度に望むのはよくない。序文はいずれも芸術作品のもつ線を乱す。見る人、読む人は、書かれているのが染みなのか、それとも字なのかによって理解するのではない。彼は作者の天分によって理解するのではなく、自分自身の天分によって理解するのである。私の見たところ、この本はある人には純然たる官能主義の産物に見え、また別の読み手には形而上学的見解に導くものに見え、また別の人にはたんに物悲しい思索へと導くものに見えるに違いない。願わくは、各自が気の向くままに著者と協働する楽しみをもたれんことを。
 しかしそういっても、我々はつねに、シュオッブ氏もつねに序文を作る、もっとも氏の序文は十分その労に値するもので、それらを適宜並べ替えれば、『秉穂録』式に何冊もの本ができるだろう、そして我々は章が変るごとに我々の人形の服を着せ替える義務によって気を散らされる心配はない。
 いずれにしても、『モネルの書』の序文は、シュオッブ氏の心理学にとっても、一時代の一般的心理学にとっても重要である。私はそこに、一世代のインテリたちに共通するほとんどすべての概念が、決定的かつ預言的な章句のうちに書かれてあるのを見る、すなわち美的なものに固執する道徳や、一瞬のうちに要約されて感得される生や、現時の空間に回帰する無限や、目的にこだわらない自由といったものに関する趣味のことだ。人間というものは神経繊維に似ている、つまり一連の小さい星々によって形成された、不連続なものに。そしてその繊維の髪がたえず動いて、睡眠中には偶然に、覚醒中には意志によって、隣接した髪に触れ、その気まぐれな動きが各人の相違を作り上げているのである。もしだれかが神経の中心部を切っても、髪がその傷口の上に伸びてくるだろう、なぜなら髪は他の髪に触れる必要を感じているから。生の極微のエゴイズムが、無限のうちに、いくつとなく併置されるのだ。
 シュオッブ氏の書物はどれも、思いもよらぬ調子、言葉、顔、着物、生、死者、態度などによって楽しませたあとで、沈思へと誘う。彼は現代のもっとも実質的な作家の一人であり、よき香りを発する新しい言葉をつねに唇に浮かべた人々、幾多の虐殺をかいくぐってきた人種の一人である。

- 『第二・仮面の書』より
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by sbiaco | 2010-01-29 00:48 | 附録
『ロマンチック・アゴニー』の「ビザンチウム」の章より抜粋

 『モネルの書』において、シュオッブは、短い寓話のかたちで、「エゴイズムや、官能や、残虐さや、高慢さや、忍耐や、憐憫などにさいなまれる」少女たちの肖像を描いている。彼女らはモネルの妹たち、唯一無二のモネルのさまざまな化身である。シュオッブはモネルのうちに、亡くした恋人のイメージを、理想の娼婦の象徴的形象の域にまで高めた──それはデカダンスのベアトリーチェであり、彼が取り憑かれていた小さい娼婦という主題を崇高化したものとさえいえるだろう。彼が憂鬱な、しばしば倒錯した明りで照らし出す少女たちの肖像(たとえば「官能的な娘」や「よこしまな娘」など)の中から、ここでは「冷ややかな娘」に言及しておこう、というのも、それがデカダン派の作家たちに特徴的な主題、すなわちサロメの主題を扱っているからだ。
 この寓話で、モルガーヌ姫は「本物の鏡」を求めて「東邦」の遠い国へ行き、おぞましい慣習(フロベールの「聖アントワーヌの誘惑」のいくつかの描写を彷彿させる)をもつ人々の住む国々を経て、その昔「ある残酷な女王の居館であった」旅籠に到着する。この女王というのは、話の中では名指されていないが、まさにサロメその人である。そして首をはねられた聖者の血がまだ一杯に満ちている銅の盆に自分の姿を映してみるや、彼女はたちまち血に餓えた淫婦と化すのである、それまではずっと「冷ややかな娘」で通してきたというのに。
 「モルガーヌ姫がその血の鏡の中に何を見たかはだれも知らない。しかし旅の帰途、彼女の騾馬曳たちは、輿のなかへ引きこまれたあと、毎晩一人づつ殺されていった、いずれも喉を割られ、土色になった顔を虚空へ向けた姿で。人々はいつしかこの姫のことを「赤のモルガーヌ」と呼ぶようになったが、まことに彼女こそは悪名高い娼婦にして恐るべき殺戮者であった」
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by sbiaco | 2010-01-28 22:27 | 附録

第一章:『モネルの書』


 モネルとはだれだったのか? 彼女は本名をルイーズといった。ひとが彼女について知っているのは、ただマルセル・シュオッブが1891年ごろ彼女と出会ったこと、三年間の同棲のあと、1893年12月7日に彼女が二十五歳で死んだことだけである。ルイーズの父は娘を勘当していた。トマス・ディ・クィンシーのアンのように、また《十一月のある夜、ボナパルトがシェルブール・ホテルの自室に連れこんだ娘》のように、ルイーズもある日街角でふと出会う《小さい娼婦》の一人だった。体が弱く、すでに結核に冒され(それは後に致命的なものになるのだが)、知性も教養もない娘だったが、青年時代というものをもたなかったマルセル・シュオッブにとって、彼女が日々の暮しにもたらしてくれた若々しい息吹はかけがえのないものだった。悩める青年はたちまち彼女の単純さに魅せられ、自分では及びがたしと嘆じていた。彼は娘を《かわいいヴィーズ》と呼び、子供っぽい手紙をいくつも書き送った。彼はジュール・ルナールにこんな告白をしている、《僕の相手の女はまだほんの小娘なんだが、すいぶん馬鹿な娘でね、しかしそいつがじつに可愛らしいんだ》と。しかしじっさいのところ、彼女は美しいとはいいがたかった、そのことはシュオッブも認めていて、やはりルナールにこう語っている、《こいつはしかし、あの女の体に惹きつけられてるわけじゃないんだ。それじゃ、いったいなんだろう?》と。彼を惹きつけたのは、たどたどしくしゃべる彼女の子供のような心、素朴で率直で、打算や駈引を知らず、ひたすら現在にのみ生き、おもちゃや人形を愛し、目指すところへ真一文字に飛び込んでいく彼女の心であった。恋人を《遊びをする家》に連れて行き、そこで《刹那を耕す》すべを教える小さい娼婦、モネルとはそういう女である。

 彼女が死んだ当初、シュオッブの嘆きはとうてい慰められるようなものではなかった。《家から家へとさまよい、とシャンピオンが言っている、どこへ行っても涙にくれる彼の姿がみられた。……それから彼は『モネルの書』を書き、ルイーズについて語ることをふっつりとやめた》と。

 そんなわけで、『モネルの書』の霊感源になったのは、シュオッブの個人的な恋愛体験であった。これは彼にあっては例外的なことに属する。しかし体験から直接に材をとって書かれたこの作品においても、彼は内心をことごとく吐露しているわけではない。これが打明け話だとしても、ヴェールをかぶった打明け話なのだ。シュオッブはモネルを象徴にまで高める一方で、その実在性を除き去る。彼女は血肉をそなえた女であることをやめ、ひとつの《記号》になる、すなわち非物質化される。彼がもっとも自己をさらけだした本書のページにおいてすら、シュオッブはなおも姿を隠したままである。たしかに出発点においてはモネルはルイーズであり、語り手の《私》はマルセル・シュオッブであったかもしれない……が、この同定をどこまでも推し進めるわけにはいかないだろう。

 『モネルの書』は三つの部分に分れている、《モネルの言葉》と《モネルの妹たち》と《モネル》と。この三つに世人が何の連関も見出さなかったのもふしぎではない。じっさい、ぱっと見ただけではそこに共通なものはほとんどないのである。《モネルの言葉》はなにやら奇妙で逆説的な格言集の観を呈していて、読み書きはできなくとも、もって生れた叡智によって世界のあらゆる智恵をわがものとしている少女が預言者的な口調で語るといった体裁になっている。それがすむと、マルセル・シュオッブはただちに《モネルの妹たち》、すなわち十一篇のコントの章にすすむ、これらはどこか遠い国々に住む少女や若い婦人を主人公にした物語群で、彼女らを互いに結びつけるのは、めいめいがモネルの妹であるという一点のみである。三つめの章に至って、われわれはふたたびモネルその人を見出す、そしてこの章は最初のページへと読者を連れ戻すかにみえるが、しかしここでも物語の結びつきはきわめてゆるやかなので、われわれはここに出てくるモネルは第一章のモネルとは別人かといぶかってしまうほどだ。いずれにしても第一章の調子はあとの二つの章と比べて歴然と違っているので、これを本書の《序文》のたぐいと考えて、ここでシュオッブはモネルの口を借りながら自己の信仰告白を行っているのだとする見方が出てくるのはやむをえない。じっさい、レミ・ド・グールモンのような目利きの読者も《モネルの言葉》を序文の一種と見なしている。彼はこう述べている、《「モネル」の欠点はただひとつ、それは第一章が序文であることだ》、なぜなら序文というものは一般的にいって《芸術作品の線を乱す》ものだから、と。

 『モネルの書』は(『二重の心』や『黄金仮面の王』がそうであるように)序と跋とを備えた短篇集と見なすべきだろうか、モネル自身はたんに全体を結びつけるためのゆるい紐帯にすぎないのだろうか? こういった解釈を裏付ける理由が三つある。まず最初に、中間の章は前後の章との間に何の連関ももっていないこと、モネルは(タイトルを除けば)どこにも現れてこないこと。これらのコントに出てくるヒロインたち、ジャニーやマルジョレーヌやバルジェットがモネルの妹であるというだけで、はたして読者は納得するだろうか、なによりもまず集中の一篇(「バルジェット」)は先に出た短篇集『黄金仮面の王』にすでに収録されていて、もちろんそこではモネルとはいかなる関係もないのである。次に、『モネルの書』を構成する物語のいずれもが、書かれた順序のとおりに並んでいないこと。マルセル・シュオッブはいつものやり方にしたがって、これらの物語を集めて一巻に編むさいに徹底的に手を入れ、発表した順序などはお構いなしに、最初に書いたテクストを後のほうに据えた。最後に、《モネル》という名前そのものが(ある人々によれば、これのみが一巻の書に統一をもたらしているというのだが)、かなり後になってから出てきたもので、初出は1893年7月29日に「エコー・ド・パリ」紙に発表された同名のコントであること。ところで、そのふた月ほど前、同じ新聞に「ランプ売りの娘」と題されたもう一つ別のコントが出ている。これは初版では「モネルとの出会い」という題に変更されたところの、まさにそのコントなのだが、ふしぎなことに、この初稿にはモネルのモの字も出てこない。要するに、もとは別々に発表された物語に一貫した筋を通しながらその全体を編み直そうという考えをシュオッブが抱いたのは後になってからのことで、彼が作品をまとまったものとして構想したのは、それを構成する断片をほうぼうに書き散らした後のことのように思われるのである。

 さもあらばあれ、シュオッブが(作家ならば当然のことであるが)テクストに手を入れ、外面的なものにすぎない序列(執筆の前後関係における偶然)を無慙にかき乱したとしても、それはおそらく自らの考えるより真正な、意味のある序列におきかえようとしてのことであった。ばらばらの要素に還元されれば、『モネルの書』は、折にふれて書かれた断章を、後になって一巻の書にまとめあげる必要から、多少なりとも恣意的にかき集めてきてできた雑然たる集録と見るよりほかないが、しかしそういう見方は、統一ある作品を作り出さんとする意志を、たんなる手段の水準にまで格下げすることにひとしい。シュオッブがそういった意志をもっていたことを疑うものはいまい。ところでこの意志なるものにこそ注意を払うべきなので、さらにいえば、作家の意志こそが書物に固有の意味を与えるのである、というのも、この意志があって初めて『モネル』はとりとめのない雑文の堆積たることを免れるのであるから。芸術家が欲した秩序なるものは、その作品にとってどうでもいい要素ではけっしてなくて、むしろ構築そのものである。すべての詩篇が制作年代順に整然と並んだボードレールの本を考えてみるがいい。それは何であるか? ボードレール詩集ではあっても──『悪の華』では断じてない。そしてこういった《調整》を経た作品にはまったく違った意味合いが加わってくる、たとえその保持するものが一つだけだったとしても。『モネルの書』の場合もことは同じである。総体的に吟味してみるならば、冒頭の一行から末尾の一行まで同一の主題によって読者を導いてゆけるように素材を排列したシュオッブの意図は明瞭であろう。こういった全体的な見方からすると、《モネルの言葉》は《序文》であるどころか、モネルの探求における本質的な契機を画するものになる──モネルの奇妙な妹たちについても同様で、彼女らはモネルがその《王国》に達し、ついには《復活》をとげるために、どうしても通過しなければならなかった必然的な段階をそれぞれ表しているのである。
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by sbiaco | 2010-01-27 18:17 | 附録
第二章:『モネルの言葉』


 《モネルは私が正道を失ってさまよっていた曠野で私を見つけ、私の手をとった》

 『モネルの書』はある旅の記録、ある霊的探求の寓話である。モネルはこの巡礼の旅において、ウェルギリウスでもあればベアトリーチェでもある案内役として、《影暗き森》に迷いこんだ恋人を森の外へ連れ出すのだ。《森》はここでは《曠野》になっているが、いずれにしてもその類似は一目瞭然である。この一節を読めば、だれでもすぐに『神曲』の冒頭を思い出すだろう。著者も半ばは無意識的記憶、半ばは意識的想起によってこのくだりを書いたのではないかと思われる。とはいうものの、この冒頭の類似を除けば、シュオッブの書物はダンテの作品とほとんど似たところはない。モネルの語る言葉はベアトリーチェのそれとは似ても似つかない、それどころか正反対だとさえいってもいいだろう。にもかかわらず、本質的なテーマは同じである、すなわち、正道を失った《さまよえる》詩人が、善意の人の差し延べる救いの手に導かれ、さまざまな試練を乗り越えたあとで目的の場所へ到達する、というテーマである。

 モネルという女の素性は全体を通じて謎のままである。そもそも彼女に素性などというものがあるのだろうか? きわめて疑わしい。《私よ、そして私じゃないの》と彼女は言う。先のほうにはこうある。
 
 私はただひとりの女だから、モネルという名前で呼んでくださってけっこうよ。でもほかのどんな名前でもありうることを忘れないでね。
 私はこの女であり、あの女であり、名もない女でもあるの。

 じっさい、一人でいる女に与える名前として、《一人》をあらわすギリシャ語の語根よりも相応しいものがあるだろうか。しかし《monos》という字には《唯一の》という意味もある。モネルは「ひとりぼっちの女」であるとともに「かけがえのない女」でもあるのだ。ここにモネルのどっちつかずの性格があらわれている。唯一者としての彼女はあらゆる名前をもつが、またいかなる名前ももたない。この雲をつかむような側面が、モネルの人物像にきわめて非物質的な性質をあたえている、マーテルリンクが正しく指摘したように、モネルは霊魂そのものだともいえるのである。

 モネルはだれであってもかまわない、と私は言った。しかしじつのところそうではない。彼女は社会的身分とまるきり無縁というわけではないのだ。それは娼婦という身分である。
 
 そしてモネルはなおも言った、あなたに小さい娼婦たちのことを話してあげるわ、そしたらあなたには始まりがわかるから、と……
 私は夜の闇から脱け出てきたの、と彼女は言った、そして夜の闇へ帰っていくのよ。だって私もまた小さい娼婦のひとりなのだから。

 どんな女でもいいというわけではなく、娼婦でなければならないのである。いったいどうしてこういう留保が出てきたのだろうか。

 もちろん売春そのものは1894年になって初めて出てきたテーマではない、十八世紀と十九世紀とを通じてこれを文学的紋切型のひとつにした作家たちの長々しいリストを持ち出すまでもなく、シュオッブはこの分野を刷新するようなことは何一つしていない、彼が先輩作家たちのあとをうけてこのテーマを一再ならず取りあげているにしても、である。あるひとは、シュオッブにとって売春はひとつの口実だったのだ、というだろう、彼はみずからの体験に汲んでいるだけのことで、その証拠にルイーズはそういうたぐいの女だったじゃないか、というわけである。実在の人物と精神の創作物とをごっちゃにする人々にはこれで十分説明がつくのかもしれないし、もしモネルがルイーズだとしたら、われわれとしてもこれを認めるにやぶさかではない。しかし残念ながら、ルイーズがモネルの源泉であり、いろんな点で似通ったところがあるとしても、そのことは『モネルの書』の読解においていささかも寄与するところはない。小さい娼婦ことモネルは、シュオッブの愛した実在の娘とはどこまでも別物なのである。

 というわけで、とりあえず文学の話に戻って、この永遠のテーマの文学的解釈について見てみよう。

 売春一般を扱った作家たちについてこのテーマを調べてみると、各作家を特徴づける細部の相違を超えて、そこにある種の類似があることに気がつくが、その根底になっているのは同一の公準に対する作家たちの暗黙の了解である。程度の差こそあれすべての作家がそれに対して無意識的な一致を示している、この《常数》とでもいうべきものをおおざっぱに列挙してみれば、
 
 1.──売春とは精神的双関者を欠いた肉体的行為を含意する社会的身分である。
 2.──この肉体的行為は堕落であり、罪過とみなされる。
 3.──この罪を洗い落とすにはある種の贖罪によるしかない。娼婦は娼婦であることを廃することによってのみ堕罪から免れる。
 4.──この贖罪の取りうる唯一の形式は、愛(人への愛にしろ神への愛にしろ)と呼ばれる自己放棄である。
 5.──人への愛の場合、それが全的であるためにはほぼ例外なく、その愛は金銭の授受をともなわぬ肉体的結合でなければならない。肉体の罪の贖いは、罪を犯した肉体を捧げることによってのみ可能となる。娼婦の罪は恋人をもつことによって贖われる。この一種の犠牲により、同じ肉体的行為がふしぎなことにいまや正反対のしるしを帯びるにいたり、その恩寵によって悪が善へと根底から転化するのである。

 ところでモネルだが、これらの制約のどれ一つとして彼女にはあてはまらない。その点、多くの作家が描いた正統的な娼婦の型からは外れているといっていいだろう、しいてモネルと近しい関係にある娼婦を探すとすれば、それはドストエフスキーの描いた娼婦たちくらいのものだ。シュオッブの先行者たちのうちではもっともよく堕落の娘たちに霊的価値を認めたボードレールにあってさえ、娼婦はやはり何よりもまず罪ある女なので、その堕罪を決するのは第一に肉体的行為なのである。二元論の見地からすれば、こういったこともやむをえない仕儀であろう、なにしろそこでは肉体と精神とが対立して永遠にいがみ合いながら、互いに相手を打ち負かさんと争っているのだから。

 ヒロインをイデア的存在に仕立て上げるために、マルセル・シュオッブはこういった二元論をすべて放棄する。モネルにはほとんど肉体性がなく、そのため売春といっても、この言葉をふつうの意味に解するかぎり、彼女にとって重要な意味をもたない。変幻自在の彼女にとって、売春というのは多少なりとも外在的要素である社会的様態をあらわすというより、むしろ内在的属性、モネルの本質をなす当のものをあらわしていると見なければならない。彼女は今も、昔も、これからも、この世に生のあるかぎり、ずっと娼婦でありつづけるのだ。

 この非肉体性ならびに必然性という二重の性格がモネルを際立たせている。彼女に関するかぎり、《淪落》や罪過や贖罪は問題にならない。彼女に贖罪すべき何かがあるだろうか? いや、それどころか、彼女のほうこそ他者の罪を贖うためにやってくるのだ。かつての、彼女の姉にあたるような娘たち、《人殺しのナポレオンが十八歳のとき》彼を慰めた娘や、《あの阿片飲みのトマス・ディ・クィンシーが大きなランプのともったオックスフォード街の広い通りで気を失いかけたとき、彼のそばに駆け寄って……甘い葡萄酒の入った瓶を彼の唇に押しあて、彼を抱きしめてやさしく撫でてあげた》娘や、《徒刑囚のドストエフスキー》のところへやってきて、《熱病で死にかかっているにもかかわらず、その大きな黒い目をふるわせながら長いこと彼を見つめていた》小さいネリーや、《罪の告白を聴き終えたあと》ラスコリニコフを掻き抱いた小さいソーニャや──その他大勢の娘たちと同じく、モネルは《善意の務めを果たす》ためにやってくるのである。《というのも、小さい娼婦たちが夜の人ごみから脱け出てきて善意の務めを果たすのはただの一度にかぎられているから》

 売春と憐憫との二つのテーマはシュオッブにおいては緊密に結びついている。本書に顕著な憐憫についていえば、それを体現しているのはボナパルトでもなければトマス・ディ・クィンシーでもなく、ドストエフスキーでもなければラスコリニコフでさえなく、ある晩彼らのところへやってきた小さい娼婦こそがその担い手なのだ。かくして淪落の女は一転して聖女、あるいは少なくとも慈善の修道女となり、絶望した男に励ましと慰めとをもたらすのである。

 ひとり娼婦のみがこういった務めをはたすことができる。何ひとつ所有しない──自分というものすら持たない娼婦にとって、自分を捨てることは他の人々よりもずっと容易であろう。すでに1891年に、『二重の心』の序文で、マルセル・シュオッブがエゴイズムから博愛へ、恐怖から憐憫へ、自我から他我へと導く道を、《自己のみの生の拡張から万人の生の拡張へ》と定義づけていることを思い出されたい。自己の生をもたず、まさしく万人の生を生きる女こそ、あらゆる人々のうちで、もっとも運命の祝福をうけた存在、《善意の務め》を果たすのにうってつけの存在ではあるまいか。売春はかくして自己犠牲のもっとも高度な形式となる。ボードレールは次のように書いたのも、まさにこうした意味合いにおいてである、すなわち、《売春のど天井は、卓越せる存在、神である、何となれば、神こそは各個人の至高の友であり、共同貯蔵庫であり、無尽蔵の愛の源泉であるから》と。ジュール・ルナールの『ねなしかづら』の注目すべき書評において、マルセル・シュオッブはこの自我から他我への拡張を、倒錯性の一形式として定義している。その理由は、と彼は言う、
 
 人間の道徳的出発点はエゴイズムである……道徳的倒錯性は……人間が自分以外にも似たものがいることを知って、彼らのために自己の一部を犠牲にするときに生れる。この倒錯性の痛々しい花は犠牲の悦びなのである。

 この定義はわれわれがモネルを理解するのに役立つ。しかしモネルの《倒錯性》は、アンやソーニャやネリーの場合と同じく、もっぱら弱い者、不幸な者、苦しんでいる者、失われた自己を求める者に対して行使される。《もし人々がひどく不幸でなかったら、彼女ら(娼婦)は彼らのことを理解しやしないでしょう。彼女らは人々といっしょになって泣き、慰めてくれる存在なのよ》 目の前にありながらそれと気づかぬ行為、すなわち救済の行為である。モネルが曠野へやってきた理由もこれで説明がつく。彼女は恋人が道に迷ってさまよっているのを見て、その失われた正道をもう一度見出す手助けをするために彼のところへ来たのだ。もう一度見出すべき正道とは、もちろん正しい認識 connaissance──クローデルならco-naissaceというところだが──の道、すなわち真実へと導く道のことである。《あなたがふたたび私を見つける前に、あなたにこの曠野で教えてあげるわ、そしてあなたはモネルの書を書くことになるのよ》

 その教えとはどんなものか?
 
 ──この松明をお取りなさい、と彼女は言った、そして燃やすのよ。地上にあるものも天上のものもぜんぶ燃やすの……
 そしてモネルはなおも言った、破壊について話してあげるわ、と。
 これがその言葉よ。破壊して、破壊して、破壊しなさい。あなた自身のうちに、あなたの周囲に破壊するのよ。あなたの心と他の人々の心のために場所をつくるの。

 ピエール・シャンピオンが本書をマルセル・シュオッブの《ニヒリズム提要》と呼んだとき、おそらく彼の念頭にあったのはこういったモネルの《言葉》であった。これらの言葉はたしかにまったき破壊の伝道、刹那の讃美、あらゆる超越の否定のようにみえる。

 マルセル・シュオッブはここで、救世主の口調で語りながら、自分のものとは正反対の教説を述べているのだ。ツァラトゥストラと同じく、彼は反キリストとなって人間を救済しよういうのである。1880年から1890年にかけて、ニーチェと彼の競合者たちがはやらせたニヒリズム思想がシュオッブに与えた影響に関する研究のうち、ここではとくにゴダルト氏のものに注目したい。ゴダルト氏は、このニヒリズム思想の運動がフランスで開花するのに与って力あった要因をあれこれ検討したあげく、このように言う、《遅かれ早かれマルセル・シュオッブを刺戟することになるのは一種の「スノビズム」であった》と。彼は、と氏は言う、《やや遅れてニヒリズムの影響を……こうむった》、そしてその哲学は《「モネルの言葉」に明確に表現されている》と。スノビズムの問題はしばらく措こう。ニヒリズムのシュオッブへの影響ということになると、たとえそれが疑いの余地のないものだとしても(なにしろまるまる一世代が影響を受けているのだから)、それだけで《モネルの言葉》のすべてを説明しつくすことはとうていできない。むしろその説明が有効なのは、モネルの言葉がコンテクスト抜きでそれ自体において考察される場合にかぎられるといってもいいだろう。われわれがここで採用している見方においては、ニヒリズムはこの「書物」の分節のひとつ──必然的ではあるが本書の形成する全体性と不可分な──分節のひとつにすぎない。

 じっさい、そのニヒリズム的教説を通じてモネルが提示するのは、まったき精神修養なのである。すなわち自己のうちに、自己の周囲に、体系的な破壊を及ぼすことにより、空なる場所を作り出し、無一物と無知と忘却とのうちに、生の失われた意味を再発見すること。自己を明け渡してそこに自己と他者とのための座をもうけること。《あなたの心と他の人々の心のために場所をつくるの》 否定的苦行、というのはつまり、その果てにすべての差異が排去され、精神が究極の同一性に到達し、ある一点──そこではもはや星間空間と分子間空間とが異なるものとしては認識されない──から万有を眺めわたすことができるようになるための、内的脱皮の努力なのである。この段階まで到達したとき、われわれの使う諸概念、類似と差異だとか、連続と不連続とかは、もはやひとつの同じ実在の両面にすぎなくなる。《無限に分割された時間の刹那の間にも無限はありうる》 世界は不連続である──が、この総体的無限から切り出された欠片(かけら)は、それ自体が無限なのである。

 《宇宙について原子論的な観照をもつこと》とモネルは言う。原子のひとつひとつに宇宙を見ること、一刻一刻を永遠と観ずること。こうしてマルセル・シュオッブは不連続のうちに統一を見出すことによって自己の矛盾を超えようとする。《そしてモネルはなおも言った、刹那について話してあげるわ、と》

 ここは一節すべてを引用しなければならない。
 
 一切を刹那の相のもとに眺めなさい。
 あなたの自我を刹那の好みのままに赴かせるの。
 刹那において考ること。どんな考えも長引けば矛盾になるから。
 刹那を愛すること。どんな愛も長引けば憎しみになるから。
 刹那に誠意をつくすこと。どんな誠意も長引けば偽りになるから。
 刹那に対して公正であること。どんな公正さも長引けば不正になるから。
 刹那に対して行うこと。どんな行為も長引けば亡びた統治になるから。
 刹那とともに幸福であること。どんな幸福も長引けば不幸になるから。
 あらゆる刹那に敬意を払うこと、そして事物の間に関係を設けないこと。
 刹那を遅らせてはいけません、それは禍根を残すことになるから。
 見て、刹那はすべて揺籃で、また棺桶なの。あらゆる生と死があなたに珍しく新しいものに見えればそれでいいのよ。

 レーモン・シュワーブはモネルの哲学のうちに、すでに《それ自体ひとつの生の規則》になっているところの《純粋な印象主義》を見る。
 
 この宇宙の力、われわれを取り囲み支配するこの神秘、これに従うことを少女モネルは詩人に命ずるのだ、あたかも自然の法則に従うように……移り変わる刻一刻はすべて違っていて、気まぐれで、不可解なものだが、この連続がわれわれに世界の秘密を暴き出してくれるのである。対象が何であれ、それに固着するのは愚かなわざである、逃げ去る水の一滴を手につかまえていようなどと望むのは愚かなわざである。

 生を絶えざる変化として、意識するそばから過去になってゆく<現在>の不断の破壊として受け入れることで、無関心の、忘却の、無知の幸福が生れる。絶え間なく、惜しみなく《過去の行為》を焼き滅ぼし、自己のうちに、自己の周囲に晴れやかな荒廃を押し広げてゆきながら、シュオッブはついに反ソクラテス主義へ達するのだ、すなわち《汝自身を知るべからず……汝自身を忘るべし》と。

 この反ソクラテス主義なるものについても一考が必要である。じっさい、モネルが《汝自身を知るべからず……汝自身を忘るべし》と明言したとしても、それはいっそう事象に即した認識、すなわち自己滅却、万有の忘却のはてに見出される認識へ到達するためなのである。新しい精神を獲得するためには、いままでもっていた精神の記憶までも脱ぎ捨てなければならないのだ。《蛇が古い皮を脱ぐように、精神は古い形式を投げ捨てる》とモネルはさらに言う。モネルがわれわれに招きよせるのは精神の死、それがなければ復活もありえないところの精神の死なのである。一粒の麦もし死なずば……

 もうひとつ忘れてはならないのは、モネルが事物の間に関係を設けてはいけないと言うとき、それらの事物、それらの《刹那》はそれぞれが還元不可能な<全体>であり、無限であるということだ。逃げ去る水(ふたたびレーモン・シュワーブのイメージを借りて言えば)とは水の一滴一滴にほかならず、そのうちには河を含み、あるいは河以上のものを含んでいる、というのも、一滴一滴の水は同一でありながら、しかも無限に異なっているのだから。

 最後に、シュワーブのいわゆる《無関心の幸福》なるものの意味についても思い違いをしないことが大切である。無関心という言葉は、われわれの言語においてはあまりいい意味で使われておらず、ほとんど無気力とか興味索然とかと同義である。こういう意味に解するならば、これほどマルセル・シュオッブに似つかわしくない言葉もない。モネルも、その恋人も、さらには読者も、この意味で無関心なわけではない。モネルの教えるところは、すべては等価なのだからどれを取ろうが変りはない、ということではおそらくなくて、すべては等価であり同等に望ましいものであるがゆえに、すべてを愛さねばならぬということであろう。無関心、そうかもしれない、しかしそれは活性化された無関心なのである。ビュリダンの驢馬の無関心といってもいいだろう、一杯の水と一杯の燕麦とに等しく惹かれながら、どちらとも決めかねて空腹を抱えている驢馬という意味で。

 モネルはまさにこういった教説を授けるためにやってきたのだが、彼女自身もまた刹那の存在であり、いずれは烏有に帰す運命にあることも知っておかなければならない。これもまた精神修養の一環なのである。なぜなら、確たる所有などというものはすべて嘘偽りであり、モネルはけっしてだれのものにもならない女であるからだ。彼女は姿を消さなければならない。彼女の愛も──その憐憫も──不在の相のもとでしか明らかにされないのだ。
 
 そしてモネルはなおも言った。
 愛しい人、私、あなたが不憫で、不憫でならないわ。
 それでも私は夜の闇へ帰っていくの。なぜならあなたが私をふたたび見つける前に、私を見失うことが必要だからよ。

 すべてを忘れたあとで、彼女をも忘れなければならない、彼女をふたたび見出すためにはそうするしかないのだ。彼女をつかまえ、自分のものにして、いつまでも手元においておくことは、彼女を失うもっとも確実な方法なのである。彼女を手中にしえたと思うそのときにこそ、彼女はもっとも遠いところにいる。《というのも、あらゆるものは移ろいゆくけれども、モネルはなかでもいちばん移ろいやすいの》《私を忘れて、そしたら私はあなたのものになるわ》

 《命を助からんと願う者は命を失わん》と福音書にあるが、言葉そのものといい、その声の調子といい、まさに同じことをいっているのではないか。

 そんなわけで、モネルの探求はまさしく自己の探求であり、その努力の果てに、忘却のうちに《よみがえった》モネルが奪還されるのである。さしあたって、恋人のために彼女にできることはこれだけである。彼女は曠野で男に言葉を託した、いまや男が自力で問題を解決すべきときである。あと彼女に残されたのはただ立ち去ることのみ。

 しかしその前に、みずからの教説を完足的なものにするために、彼女は恋人を自分の妹たちのところへ案内する、彼女らはモネルの化身であり、《また知性なき娼婦たちの同類でもある》。彼はモネルの妹たちすべてを見るだろう。その一人一人が闇の中からあらわれては、いっときの生を生きるのを目の当りにするだろう。彼女らはめいめい順番がくると舞台にあらわれ、ちょっとした役柄をこなして、また夜の闇の中へ消えて行くのだ、自己探求の危険がどんなものか、身をもって示しながら。彼は、人が自己イメージに執するあまり、いかにして道を踏み外すか、また目を一点に据えてしつこく意志を貫くあまり、いかにして目的を超えてその彼方へ突っ走ってしまうかをその目で見るだろう。
 
 いずれあなたを私の妹たちのところへ連れてってあげるわ。妹たちは私そのものであり、また知性なき娼婦たちの同類でもあるの。
 あなたは彼女らがエゴイズムや、官能や、残虐さや、高慢さや、忍耐や、憐憫などにさいなまれながら、なおも自分を見出せないでいる姿を見ることでしょう。

 事物の全体性を把握して、その固有の多様性のうちに自己完成を遂げるすべを知らなかったため、自己を見出すことができないでいるモネルの妹たちというのは、つまるところ、私の言う《旅》において、精神が自己を求めつつ乗り越えなければならない障害物をあらわしている。

 こうしてみると、《モネルの言葉》に見られるマルセル・シュオッブのニヒリズムは、せいぜいがかりそめのニヒリズムであり、それは不動の恒久すなわち死の淵に沈みこまないために超克されるべきものとしてある。刹那の理論に忠実ならんとすれば、ニヒリズムもまた一つの刹那として忘れ去る必要がある、ちょうどモネルを、その言葉までも忘れ去る必要があるように。というのも、言葉は保存されることなく飛び去るにまかせるのがいいのだから。
 
 そしてモネルはなおも言った、私の言葉について話してあげるわ、と。
 言葉が言葉であるのは、ただ話されているあいだだけ。
 保存された言葉は死んでいて、疫病を撒き散らすわ。
 私の話す言葉にだけ耳を傾けて、私の書かれた言葉のとおりにしちゃだめよ。

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by sbiaco | 2010-01-26 20:53 | 附録
 マルセル・シュオッブの本と、その三年後に出たもうひとつの《無一物のすすめ》ともいうべき書物、すなわち『地上の糧』との間にみられるいくつかの明白な一致に最初に気づいたのはS.A.ローズである。そう言われてみればこの類似はだれの目にも一目瞭然なので、彼以前にだれもそのことを指摘しなかったのがふしぎなくらいだ。この二つの作品には、同じテーマ、同じ着想、ときには同じ言葉が見出される。相似はこの二人の著者に共通の、預言者的な口調にまであらわれている。S.A.ローズはその論稿中にこの《親近性》の例証をいくつもあげているが、それらは当惑をおぼえるまでに暴露的なものである。こうした相似がたんなる偶然の産物であるとはどうしても思えない。ジッドが、たとえ無意識にもせよ、友人の本を念頭に置きながら自分の作品を書いていた、とまでは言うつもりのなかったS.A.ローズだが、それでもやはり気にはなるので、彼のいわゆる《この二作間に見られる……驚くべき一致》について、間接的にジッド本人に説明を求めることにしたとのことである。アンドレ・ジッドは、質問への(やはり間接的な)回答のなかで、この二つの作品を比較検討してみることの重要性を認めている。それをしも否定するのは困難であろう。たとえばジッドが《ナタニエルよ、僕は瞬間について君に語ろう!》と書いているとき、同じ情念をもって《刹那についてあなたに話してあげるわ》と語るモネルの声を思い出さないという法があるだろうか。この手の合致をあげていけばきりがない。ここではいくつかを引用するにとどめる。
 
 シュオッブ: 《あなたも薔薇と似たものでありなさい。あなたの葉を官能がむしりとるに任せ、苦痛が踏みにじるに任せるの。
 どんな法悦もあなたの内で息も絶えだえであるように、またどんな官能も死滅することを望むように》

 ジッド: 《ナタニエルよ、僕は君に熱中を教えよう。……もし、僕らの魂に何らかの価値があったとしたら、それは他の或る霊魂より壮んに燃え熾ったからに他ならない》
 
 シュオッブ: 《過ぎ去った日々を反芻せずに、未来のことで身を養いなさい》

 ジッド: 《ナタニエルよ、過去の水を再び味おうとは願い給うな》

 シュオッブ: 《すべてのことに驚くがいいわ、だってすべては生においては相違し、死においては同一なのだから》

 ジッド: 《君の幻想の一瞬ごとに新しからんことを。すべてに驚く者こそは智者なのだ》

 『地上の糧』の末尾の一句もまたモネルの教説に結びつく。《私を忘れて、そしたら私はあなたのものになるわ》《ナタニエルよ、さあ、今度はいよいよ僕の本を捨て給え。そこから脱け出し給え。僕と別れ給え……》
 しかし、この二冊の本の類似がいかに大きくとも、その相違のほうがさらに重要であろう、それはこの二人の作家の教養のみならず気質の違いに根ざしている。だからわれわれとしては、一考の後、S.A.ローズとともに《「モネルの書」と「地上の糧」との類似性は、その主題の相違にもかかわらず、形式的かつ本質的である》と認めるのに躊躇するのである。われわれには反対に両者の対照こそが本質的なものにみえる。なによりもジッド本人が一言もってこれを要約している、《局面こそ異なれ、と彼は書いている、この二冊の本にある奨励は同じものであった、ただしシュオッブにあってはそれがあくまでも理知的なものにとどまった》と。

 まず注目すべきは、S.A.ローズの定立した両者の平行関係が、シュオッブの本の第一章にしか適用されないこと。彼のあげる例証はことごとく《モネルの言葉》から引かれている。じっさい、この比較を先へすすめるのはきわめて困難であったろう。《モネルの妹たち》と《モネル》の二つの章にはもはや『地上の糧』との比較において見るべきものはほとんどなく、むしろ両者の開きのほうがよほど目につく。すでに《モネルの言葉》において、微妙なニュアンス──語調とか、そんなもの──の点で、かなりの差異が認められる。同じような言葉の後ろに、明らかに違った声が聞こえるのだ。ほとんど同じ語を用いながら、その与える印象はまるで別物の観がある。こういった対照は皮相的なものにみえるかもしれない、が、じつのところその意味するところは深い。書物の価値をきめ、意味を与えるのはこういった対照なのである。

 そんなわけで、ジッドが好んで聖書に言及するのに対し、マルセル・シュオッブは多くギリシャ古典の記憶に訴える。彼の場合、古典文学のイメージが頻出するが、しかしそのいくつかは適切とはいいがたく、《小詩人選》や修辞学級の生徒のありふれた参考書から借用されたと思しいものも少なくない。《譲り渡された土製の盃などどれもあなたの手のなかで粉々に砕けてしまえばいい。あなたが飲み干した盃はみな粉々に割ってしまうがいい。人が走りながらあなたに差し出す生命のランプに息を吹きかけるのよ。なぜなら古いランプはどれも煤けた煙をたてるから》

 こうしたイメージ、そしてそれに伴う語彙(《ナルテコフォル》など)が彼の思考に抽象的な様相を与えているが、これはジッドには見られない点だ。ジッドはあくまでも具体的であることを念じ、母なる大地とじかに接していたいと願う。いっぽうシュオッブにはどこまでも書物臭がつきまとう、彼の霊感源はまず第一に理知なのである。彼にあっては学究と詩人とが同居しており、ちょっとした言葉のはしばしに学究としての彼が顔を出すのだ。事物を直接手づかみにするのは彼の得手ではなく、事物は彼のペンの下でたちどころに概念に変ってしまう、彼は一般名辞(一般的すぎて逆にあいまいになった言葉)を使うよりほか、事物をあらわすすべを知らないのである。《どんな<黒さ>もその内に未来の<白さ>への期待をもっているべきなの》

 直接的な光景を描こうとするときにも、やはり彼の見出すのは抽象物ばかりである。それは数学者が、自分とは関わりのない、それどころか真であるためには読み手の賛同すら必要としない客観的判断を提出するさまを思わせる。《秋の薔薇はひとつの季節を長らえる。それは毎朝開いて、毎晩閉じる》

 この実在と自己とを隔てる距離が、彼とジッドとを本質的に分つ契機である。われわれのいわゆるモネルの非実在性なるものは、要するにシュオッブ自身のありようを反映したものなのだ。だから彼はどこまでいっても現実を十全に把握することはないだろう、現実は彼から身をふりほどいて逃げ、彼が追いつくとそれは神話になってしまうのである。ジッドが肉欲にふけり、薫香に酔い、不潔な川の水を飲んで渇を癒し、その楽しみをいっそうよく味わうために日向に出て喉の渇きを募らせているあいだ、シュオッブのほうは雲に遊び、狭霧に包まれ、なにやら奇妙な霊的王国の探求にふけっているようにみえる。官能について語るときすら、彼はいささかも肉感的ではない。
 
 シュオッブ: 《秋の薔薇はひとつの季節を長らえる。それは毎朝開いて、毎晩閉じるわ。
 あなたも薔薇と似たものでありなさい。あなたの葉を官能がむしりとるに任せ、苦痛が踏みにじるに任せるの。
 どんな法悦もあなたの内で息も絶えだえであるように、またどんな官能も死滅することを望むように》

 ジッド: 《もちろん、唇の上に見つけるほどのすべての笑いに、僕は吻づけずにはおかなかった。頬を赤らめる血、眼を霑す涙、僕はそれを飲まずにはおかなかった。たわわな枝が僕に差し出すすべての果物の果肉を噛まずにはおかなかった。宿へ着くたびに貪欲が僕に一礼した、泉の一つ一つの前に渇きが僕を待っていた──それぞれの泉に対して、それぞれに別種な渇きがあった……》

 この二つのくだりにはなんという対照があることだろう、シュオッブの《法悦》はなんと色青ざめていることだろう、とりわけジッドを欲望の対象へと駆り立てるあの肉のうずきと比べてみれば!

 『地上の糧』をすみずみまで浸している宗教的妄念もまた『モネルの書』には不在である。ジッドはいくら追い払ってもしつこくつきまとってくる神にうんざりしているようにも見える。彼はよんどころなく自己の実存に言及し、あちこちそれを捜しまわり、思いもよらないところにそれを見出す。彼は議論し、推論し、断言し、神学者となって神学を攻撃し、新教(プロテスタンティズム)に抗議(プロテスト)する二重の意味でのプロテスタントになる。心中にアナーキーへの呼び声を聞きながらも、彼がじっさいに追求するのは、首尾一貫した体系の構築、理性を土台にした倫理の構築である。《「功徳」なる観念を捨て去ること。そこには精神にとって大いなる躓きの石がある》 マルセル・シュオッブはといえば、彼の神に対する決意表明はじつにあっさりしたものだ。つまりほとんど問題にしていないのである。神は彼にとって真剣に対峙すべき存在ではない。彼が神について語るのは、それを複数形におくためで、これは多数化による神の抹殺ともいうべき手法である。
 
 昔の神々が死んでいくのは放っておけばいいわ、泣き女みたいに神々の墓のそばにいつまでも座りこんでちゃだめよ。
 だって、昔の神々はその墓廟から次々に飛び去っていくんだから。
 また若い神々を包帯で巻いて守ってやる必要もないわ。 
 どの神もみな作り出された瞬間に飛び去ってしまうがいい……

 これらの神々は、もちろんキリスト教の神でもなければユダヤ教の神でもなく、むしろギリシャやエジプト伝来の漠とした異教の神格であって、その役割はマルセル・シュオッブに文学的なイメージを提供するにとどまる。いずれにせよ、これらの神々は気難しくもなければ意地悪でもなく、たんに安かに死ぬことだけを望んでいるような印象がある。

 神にわずらわされないのと同様に、彼は倫理の問題にもわずらわされない。《功徳なる観念》をあげつらおうなどとは一瞬たりとも彼の頭には浮ばないだろう……もちろんそんなものに躓く心配はない。彼がそういうものを排去するのは、それが実在しないからである。モネルの教説はいかなるときも首尾一貫を目指してはいない。もしそうだとしたら、それは自壊するしかないだろう、そのことはシュオッブもよく弁えていた。ある意味では、シュオッブはジッドよりも過激に破壊を行ったといえるかもしれない、というのも、彼が破壊するものは、それ自体のうちに実在性をもたないのだから。アンドレ・ジッドはたえず証明する必要にかられている。いっぽうモネルは何も証明しない。彼女はただ小さい娼婦として、その単純な心のままに、そこにあるものを静かに承認するだけだ。そこにあるもの、つまりばらばらになった刹那からなる不連続の世界、しかもその刹那はそれだけで自足していて、そのうちに可能的な無限の世界をはらんでいるのである。

 われわれは、学究であり、知性の人であるマルセル・シュオッブが、ジッドそこのけのまったき無一物に迫っているという逆説に逢着した。そしてモネルが教える忘却はいっそう真の無知に近い、なぜなら彼女は何も知らないまま《彼方へ突き抜ける》ことができるが、ジッドはといえば、たえず《学んだことを忘れる》必要に迫られているからである。
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by sbiaco | 2010-01-25 21:06 | 附録
第三章: 《モネルの妹たち》


 ジュール・ルナールは《モネルの言葉》をあまり好まなかった。彼は言葉の意味のとれないことが再三あることを認め、《彼女の妹たちの間ではもっと楽な気持ちでいられる、彼女らはみんな小鳥の、花の、僕たちが愛していた少女の俤をもっている》と打ち明けている。この断案は意想外で、モネルをよく理解できなかったジュール・ルナールは、今度は彼女の妹たちにありもしない特質を与えて、やはり彼女らを誤解しているのではあるまいか、と自問したくもなる。たしかに彼の記述に合致しそうな娘もいるけれども、その反対に、花や小鳥と比較すること自体がナンセンスであるような娘もいるのだ……じっさい、これはまたなんという奇怪な夜の鳥であり、毒の花であることか!……

 モネルの妹はみなで十一人、それが一人づつ順番に曠野でわれわれの前にあらわれる。すなわち、わがままな娘、官能的な娘、よこしまな娘、当てがはずれた娘、野生の娘、健気な娘、宿業の娘、夢を追う娘、願いがかなった娘、冷ややかな娘、われとわが身を投げうつ娘。じつをいえば、彼女らがこういった呼び名をつけられたのは、1903年にマルセル・シュオッブが旧作をあつめて『プシュケのランプ』の総題のもとに刊行してからのことである。おそらく彼はモネルの妹たちを互いに緊密に結びつけることで、これらのコントの象徴的な意味を強調しようとしたのであろう。それと同時に、初版ではよく見えなかった彼女らの典型的な特徴が一目で分るようになっている(註)。こういった題名のせいで、彼女らはいくらか現実感を喪失したかもしれない、しかしもともと彼女らに現実感は希薄なので、この喪失はとくに気になるほどのものではない。

 (註)初版では下記のような題がつけられていた:《蟹》、《青髭の小さい妻》、《風車小屋の娘》、《バルジェット》、《ビュシェット》、《ジャニー》、《イルセ》、《マルジョレーヌ》、《シース》、《モルガーヌ》、《マンドジアーヌ》

 前の章でモネルが告知したところによると、彼女の妹に仮装して次々にわれわれの前にあらわれる娘たち、かわるがわるよこしまであったり、可憐であったり、冷酷であったり、親切であったりする娘たちは、いずれも彼女自身なのである──それは唯一者モネルの化身ともいうべきもので、あたかもこれら十一人の娘がそれぞれモネル自身の生れ変りであるかのごとく、彼女の最後の転身にいたるまで、その探求の諸段階を画するのだ、しかもこの探求が行われるのは通常の時間の外部、すなわち現実的な持続の外部にある時間、たとえば本質のみからなる世界に可能的に流れる時間においてである。ある者はわれわれに近く、ある者ははるかに遠く、ある者はいずれの時代に属するとも定かでない。しかしどの娘も独自のあり方でこの探求の一局面を代弁しているのである。じつのところ彼女らは、それと気づかずに全員が同じ探求を行っているので、ただ自己を求めるのに熱心なあまり、つねに道に迷ってしまうのである。

 マルセル・シュオッブがこれらのコントを編み直して『モネルの書』の真ん中に置いたのは、ただに偶然の導きによるものではあるまい。最初の一篇は「わがままな娘 L'Egoiste」と題され、最後の一篇は「われとわが身を投げ打つ娘 La Sacrifiee」と題されている。これは『二重の心』の序文で彼自身が示した均斉(シンメトリー)の法則に従わんためばかりでなく(もっともモネルの妹たちのなかには互いに対称的なのもいるが)、そこにはもっと深い理由がある、彼の十八番であり、ことあるごとに持ち出してくる理論がそれである。この「人間精神の諸段階の理論」とも名づくべき説を、マルセル・シュオッブは上述の序文においてもジュール・ルナール論においても開陳した。そのアウトラインをざっと思い出してみよう。

 《人の心は二重である》とシュオッブはいう。心は自我と外界という二つの極の間でたえず揺れ動いている。人間の本能のうち、第一にしてかつ最強のものは《生きんとするエゴイズム》である。外的現実に直面した人間は、《わが存在にまつわる不安》をしか感じない。存在するは我のみ、他はもっぱら我との関係においてのみ存在する、それが盲目的な力としてであれ、自己の投影としてであれ。この段階においては生のエゴイズムは対になるものを持たず、生得の衝動が全権をふるっている。エゴイズムに対応する感情は恐怖である。しかしながら徐々に《人は自分の苦しんでいる不安を他の人々もまたもっていることに気づき始める》。霊の光が身体から放たれ、態度の変様が起る。そこでエゴイズムが憐憫に取って代られるのだが、これは他者意識の一形態にほかならない。この進展が極点に達すると、個人は自己が実在のすべてであると思うことをやめ、自分よりも他者のほうにより多くの実在を認めるようになり、この考えに身も心も捧げるにいたる。そのとき人は自己犠牲に到達するのだが、これは生きんとする本能からすると、正真正銘の倒錯といわねばならない。

 まず恐怖、それから憐憫。この一方から他方へと導く道こそが、マルセル・シュオッブがすでに『二重の心』の序文で示そうとしたところのものであった。『モネルの書』において彼はさらに歩を進め、そこに自己犠牲をつけ加えている。モネルの十一人の妹たちがわれわれに見せてくれるのは、この道に沿ったいくつかの段階なのである。

 「わがままな娘」の主人公はまだ真実の手前、意識の辺獄(リンボ)にとどまっている。彼女は他者も知らなければ自分というものも知らない。エゴイズムは彼女にあってはそのもっとも原始的な相のもとにあらわれている。利己的な娘は、外部世界が彼女から独立した実在であることも、それが彼女のためばかりに存在しているわけではないことも知らないままに、おのれの自我を表出し、それを周囲の事物に投影する。それらの事物の性質は、彼女との関係次第でよくもなればわるくもなる。それはちょうど未開人にとって神々が彼らの恐怖から生れるのと同じである。不幸な目にあっている娘が孤児院から脱け出すのに手を貸す少年水夫もまたエゴイストである、彼は雨が降ろうが娘が濡れようが、そんなことはいっこうに気にしていない。こういった態度は明らかに盲目的信念に発する。われわれを取り巻くものの使命がわれわれの欲望に応えることだとするなら──さもなければそれらに存在意義はない──なんらかの理由でその使命が果たされないとなると、われわれはそれを悪魔の横槍のせいにし、周囲の事物がわれわれに魔力を揮っていると思いこんでしまう。爾後、それらは恐怖によって君臨することになる。宇宙はわれわれをつけ狙う超自然的存在であふれ返り、それらはまるで気まぐれな神々のように、これといった理由もなしにわれわれに賞罰を与えるのである。わがままな娘の《宗教的な》性格は、彼女が《マドモワゼル》と呼ぶ婦人との関係にも現れている。そもそも彼女が逃げ出したのはこの婦人が原因なのだ、マドモワゼルは彼女を《箒の柄でひどく打》ち、《蜘蛛やら毛虫やらがうようよしてる木炭置場に閉じ込め》るが、これは娘にはとくに理由もなく、楽しみでやっているようにしか見えない。それゆえに娘はマドモワゼルを嫌うのだが、その憎悪にはまた盲信的な恐怖がないまぜになっている、《ああ、私を遠くへ連れてって、二度とあの人の顔を見なくてもすむように。私はあのとがった鼻や眼鏡がこわいの》。偶像(すなわち権威者)に対するわれわれの反抗と、偶像がわれわれに及ぼす恐るべき力とを同時にあらわすための最上の方法は、偶像を褻涜することであるが、彼女も脱出する前に冒涜的行為に及んでいる。
 
 私、出てくる前にちゃんと復讐だけはしといたわ。あの人、自分の父さんと母さんの肖像画を、ビロードの雑貨といっしょにマントルピースの上に飾ってるの。二人とも年寄りよ、私の母さんとは大違いだわ。まああんたにはわかんないでしょうけどね。で、私その絵に蓚酸カリをふりかけてやったわ。きっとものすごいご面相になったことでしょう。いい気味よ。

 この小エゴイストが復讐の対象にしようとするのは外在的な権力であり、彼女は明確な象徴的意味をもつ即物的行為によってそれを追い払うことができると思っている。彼女は偶像を汚し、さて脱出をはかる。しかしこの脱出は偽りのものにすぎない、というのもそれは遁走であって、真の意味での解放ではないからだ。逃げても逃げても、同じような亡霊が次々にあらわれて、悪意のこもった目でどこまでも彼女を追っかけてくるだろう、その恐ろしい目は、外界に投影された彼女自身のまなざしにほかならない。そして脱出の試みが失敗に終るとすれば、それは亡霊によるものというより、むしろ彼女がそれらの亡霊の存在を信じているという、その信念によるのである。亡霊の魔力はたしかにある意味で客観的な実在性をもっているが、しかしそれは、亡霊に客観的実存を与えるのが彼女自身である場合にかぎられるのだ。

 「官能的な娘」とともに、「自我」と「他者」との関係はいっそう微妙な陰影を帯びる。邪悪な力は主体にとって純粋に未知なるものとしてあらわれるのではなく、主体においてすでに内面化されたものとしてある。奇妙なコントで、そこに登場するのは男友達と青髭ごっこに興じる少女である。もちろんこれはどこまでも遊びであって、二人の間にのっぴきならぬ事態が持ち上がるわけではない。とはいうものの、これは遊び以上の何かでもある、なぜなら、ふしぎなことに話がすすむにつれて、青髭ごっこをする少女がほんものの青髭の妻にみえてくるからだ、それは主人よりもはるかに残酷な妻であり、たんに殺されたい一心で主人にたてつくのである。
 
 それで次は、あなたが私に結婚の申し込みをしたの。私の両親も大賛成よ。二人はめでたく結婚しました。さ、鍵をぜんぶ私に渡してちょうだい。《この小さくてきれいなのは何の鍵かしら》 そこであなたは太い声で、開けてはならぬぞ、と言うのよ。
 それで次は、あなたがどこかへ出かけてしまうと、私はすぐにそのいいつけを破るんだわ。

 ところでこの遊びでは少女がすべての役柄を掌握していて、自分の好きなように筋をつくり、自分の望む結末へもってゆく、その結末とは自分の死である。仲間の少年に主導権がわたされることはない。彼にはほとんど発言権がないのだ。少年は青髭のお話のとおりに物語が終ることを望んでいる、すなわち青髭の小さい妻は最後には救われなければならない。しかし少女は強引に結末を変更する。
 
 のどを切り裂くには膝まづかせなきゃならないんでしょ?
 ──たぶん膝まづかなきゃならないだろうね、と彼は言った。
 ──おもしろくなってきたわ、と彼女は言った。でもあなた、本気で私ののどを切り裂くつもり?
 ──もちろんさ、だけど、と彼は言った、青ひげはお妃を殺すことができなかったんだよ。
 ──どうでもいいわ、そんなこと、と彼女は言った。

 青髭の妻の助かったのが妹のアンヌのおかげだとすれば、妹のいない少女に助けがくるはずはない。もちろん兄たちも来ない。《兄さんたちがやってこないんだから、と彼女は言った、私を殺さなくちゃいけないわ、かわいい青ひげさん、きつく殺るのよ、とてもきつく》

 このコントにおける恐怖は、前の一篇とは異なり、もはや外部の力を盲信することから生れるのではない。恐怖はやってくるものではなく、こっちから求めるものなのだ。いけにははみずから望んでいけにえになるのであって、それが想像力の生んだ玩具にすぎないとしても、彼女がそこに愉しみを見出すかぎりにおいてそうなのである。彼女はもはやねんねではない。いまや神々は彼女の内にいる、彼女はおのれの判事にして刑吏、というわけだ。彼女はいつでも望むときに処刑を中止できることをちゃんと知っている……もしそう望むならの話だが。しかし彼女がしくじるのはまさにこの瞬間においてである。とどのつまり、すべては遊びであり、<彼女もそのことを知っているのだ>。青髭は──つまり少年は──おそらく土壇場になって彼女を殺さないだろう。それに彼は木刀しかもっていない。こうして「官能的な娘」もまた、姉の「わがままな娘」と同じく、運つたなくして自分の欲望がかなえられないままなのを知るが、二人の不満のあり方は異なっている、つまり「わがままな娘」のほうは事物を神にしたのが間違いの元であり、「官能的な娘」のほうは自己の内部に神々を宿したことが間違いの元なのである。

 次に登場するのは「よこしまな娘」ことマッジだが、彼女は青髭の小さい妻とは好対照をなしている。残虐性は、他者に向けられればサディズムになる。風車小屋の娘の登場とともに、外部の世界は人間の活動地盤として存在しはじめるが、少女マッジはまだ四分の三は内面の世界に埋没したままなので、その世界意識は化け物じみた想像のかたちを取るのである。われわれを取り巻く世界はもはや運命を決する暗黒の力としては感じられないが、かといって自己を支配する内面的な力に優位を与えるために根源から否定されるわけでもない。一杯の水を乞いにやってくる乞食はマッジにとって現実に存在するものである。乞食はマッジとは独立に存在している。彼女はこの還元不可能の現実を目の当りにして、嘔吐の感覚をおぼえるが、この感覚はその後もしばしば言及される。《彼女は乞食が好きだった。もっともそれはひきがえるや、かたつむりや、墓地に対する好みと同様、多少の嫌悪の気持が混じっていたが》

 残虐性は、未熟な精神にあってはごく自然な態度、つまり事物の抵抗と、それらの事物と向き合うわれわれの実在とを同時に感じとる態度であろう。たとえば、もがき苦しむ虫をいじめて遊ぶ子供の場合。これは厳密には遊びというよりひとつの体験なので、子供は嫌悪感をおぼえながら、その嫌悪感そのものに激しく魅了されているのだ。子供は生きている虫に──逃れようと懸命にもがくのは生きている証拠、執念く生きている証拠だ──自分の力をふるうのが楽しくてたまらないのである。この子供は実力を行使している。マッジも実力を行使したいと願う。しかし上述のごとく彼女の意識はいまだに半睡半覚の状態なので、彼女は世界に対して現実的な力を及ぼすわけにいかず、その行為は想像の領域から脱け出せない。彼女にできるのは、乞食のパンを盗み、夜になって腹をすかせた彼が沼で溺れるのを期待することだけだ。夜になってからマッジは乞食を探しに行き、お話にある巨人のようにその骨を挽いて粉にし、死人の骨でパンをこねるだろう。

 《当てがはずれた娘》ことバルジェット、この水門管理人の娘とともに、われわれはさらに一歩を進める。彼女もまた夢にとりつかれた娘であり、ここに展開するのもやはり個人と外界との軋轢の物語であるが、しかしここでは外界は新たな次元のもとにあらわれる。それは直前のコントでのように想像力の気まぐれに左右されるものではない。じっさいのところ、現実はマッジにとってなんら否定すべきものではなかった。たとえ彼女が乞食の死体を発見できなくても、それは乞食が沼で溺れなかったことの確たる証拠にはならないのだ。バルジェットの場合はその反対である、《お日さまが出る》国、《緑の蠅や青い蠅がいて夜の闇を照らす》国、木の枝にパンがなる国へ行くために、こっそりと運搬船(バルジ、荷足船)に乗りこんだ娘は、現実が夢とは似ても似つかないことをいやでも見なければならない。
 
 それというのも、太陽が陽焼けした小さい窓ガラスごしに楽しげな光の輪をいくら床の上に投げかけても、またかわせみが水の上に飛び交ったり、燕が濡れたくちばしを動かしたりしたところで、彼女は花の上に住む鳥も、樹に登った葡萄も、ミルクをいっぱい満たした大きな胡桃も、犬のような蛙も見たわけではなかったのだから。

彼女がいくら《嘘つき! あんたらみんな嘘つきよ!》と叫んでも、夢の世界に助けを求めても、現実は彼女に消えない烙印を押したのだ。にもかかわらず、彼女が語っている国はこの世のどこかにあるに違いない、しかしどこに? 以後の彼女の生は長い探求の旅とならざるをえない、運さえよければ、いま少し南へ下れば、おそらくミルクの入った胡桃のなる、驚くべき土地が見つかることであろう。

 《野生の娘》はシュオッブのコントのうちでも解釈のむつかしいものの一つである。樵夫の娘のビュシェットがある日森の洞窟の奥で見つけた緑色の娘とはいったい何者なのか? 言葉を覚えようともせず、火を怖がるこのやさしい、感じやすい娘は、森の神の眷属であろうか、それとも森そのものの精でもあろうか? あるいはむしろビュシェット自身のやさしい、思いやりのある魂、この野生の娘と奇妙によく似ていて、しかも奇妙に違っているビュシェット自身の理想化された魂のあらわれとみなすべきか? 《この子は私にそっくりだ、とビュシェットはつぶやいた、それにしても変な色をしてるわ》 このコントでは新しい要素が顔を出す、それはまだ「慈善」と呼べるようなものではないが、しかしすでにみずからの限界を超えんとする自我の《拡張》のひとつではある。ビュシェットと彼女の緑色の妹との間に、憐憫にもとづいた関係が成立する、それは双方向の関係であって──これまで見てきたコントのように一方向の関係ではなく──そこでは互いが相手の生のうちにみずからの生の意味を見出すのである。《緑の悪魔っ子》がビュシェット自身の魂のあらわれだとしても、その間の事情は変らない、ただやや曖昧になるだけである。おそらくは魂の不完全な《拡張》でもあろうか……ところでビュシェットが悲しんでいたとき、彼女の妹がやってきて彼女の手をとったあの晩に、二人がそれを追い求めて家を脱け出した《未知の自由》とは何であろうか? これは永遠の謎だ。もしかしたらたんに夢の世界を指すのかもしれないが……

 《健気な娘》ことジャニーもまた探求の旅に出るが、彼女が探すのは、水夫になって彼女のもとを離れていった恋人である。ジャニーはマルセル・シュオッブが喚起した少女たちのなかでもとびきり愛らしい娘の一人である。彼女はジュール・ルナールがモネルの妹たちについて讃美した花や鳥の性質をことごとく備えている。彼女は優雅でメランコリックな幻のようにあわられ、われわれの目の前を通り過ぎてゆく、その姿は非常に軽いタッチで描かれているので、人間の女というよりは妖精か仙女のようにみえる。もちまえの明るさと指につけた金の指輪とのおかげで、粗野な連中にも怖じることなく旅をつづける彼女は、彼らからキスは受けても自分からはけっして返さない、《というのも、恋をしている女が恋人に内緒でキスをし返すと、そのしるしが血の痕になって頬にあらわれるからである》。ジャニーにあってはマルセル・シュオッブのいわゆる《自己の生の拡張》が十全になされていて、彼女に接すると娼婦でさえも(こちらは正真正銘の娼婦たちで、娼家を旅館と称してジャニーを迎え入れるのだが)、失われた純粋さをじゃっかん取り戻し、いっときにせよ子供のころの夢にふけるのである。そして翌朝宿を出て行く彼女は、もちろん恋人がまだずっと遠くにいることは承知しているが、彼の心へつづく道は見つかるだろうと思っている、なぜなら彼女はいまや余分に四つの指環を左手にはめているからで、それらの指環は、娼婦たちがそれぞれの思いを託してジャニーに贈ったものであった。
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by sbiaco | 2010-01-24 13:10 | 附録
 つづく何篇かのコントとともに、外界と夢とは密に混ぜ合わされ、互いに反応しあい、ときには幻想が、ときには現実が勝利を収める。とはいうものの、走馬灯のような夢と、いかにも現実らしく見えるものとのどちらに真の幻影があるのかは必ずしも分明ではない。イルセが嫉妬するのは、その中にもうひとりのイルセがあらわれる自分の鏡に対してだろうか? 幻影の力は強く、それは彼女の生活をめちゃくちゃにし、徐々に彼女から恋人を奪い、ついには彼女を死に至らしめる。一種の蜃気楼といえばいえるかもしれない。しかし存在すべてを呑みつくすほどの蜃気楼とは、これまたおそるべき現実の一つだとはいえまいか?

 ここでいう鏡は(後に「冷ややかな娘」ことモルガーヌ姫の話にも出てくるが)、この世の彼方にある実在のしるしというよりも、むしろ罠の一種にみえる。鏡に見入るものは自分の映像(かげ)に心をうばわれ、己のうちに己を失うのだ。《死物はものの姿をゆがめて映す鏡のようなものだ》とすでにモネルが言っている。ナルシスは鏡に映る自己に見入った。鏡像の誘惑はだれしも身におぼえがあるだろう。ある者はその誘惑に屈してしまう、たとえばシュオッブが『黄金仮面の王』のなかでその話を語っている《ミレトスの女たち》や、鏡の反映に自己の啓示を待ち設けるモルガーヌ姫のように。またある者は魅了されながらもその欺瞞に抵抗する。鏡を抹殺するもっとも過激なやり方は、もちろんそれを打ち砕いてしまうことである。しかしそこまで徹底した人間はほとんどいまい。鏡の誘惑と反撥とのあわいに生きる人、自己の喪失にも分身の喪失にもひとしく不安をおぼえる人、そういった人々は、欺瞞にみちた鏡面に覆いをかけることでとりあえず心の平静を得る。それは鏡がそこにあることを知りながらそれを見ないための方法なのだ。イルセが行ったのもこのやり方である、《イルセは白くて薄いリンネルの布で鏡に覆いをした。そして最後の小さい釘を打ちこむために端を少し持ちあげてから、「さよなら、イルセ」と彼女は言った》

 アンドレ・ジッドによれば、マルセル・シュオッブ本人もこんなふうに鏡に覆いをかけていたらしい。ジッドの証言は、彼がこの奇妙な話題を一度ならず取り上げているだけにいっそう興味が深い。シュオッブがユニヴェルシテ街に居を構えていたアパートを思い出しながら、ジッドはこのように書いている、
 
 その部屋には、私の覚えているかぎり、たしか小さいマントルピースがひとつあった。そのマントルピースだか家具だかの上に、鏡がひとつ置いてあって、これに布か紙で作った覆いがすっぽりかぶせてあった。シュオッブはすぐに、彼が鏡というものを嫌っていること、少なくともそこに映った自分の顔を見るのが嫌いなことを私に説明してくれた。

 そしてジッドはあっさりとこう結論している、《おそらく彼は鏡に映った自分が醜いことを気に病んでいたのだろう》と。しかしそうだとしたら、どうして自室に鏡を置く必要があろう? いっそ部屋から鏡を取っ払ってしまったほうが捷径ではないか、ことに覆いというものが、その<下に>鏡があることをいよいよ強く意識させるものでしかないとすれば。けっきょくシュオッブは、イルセと同じく、他者としての自己をたじろがずに見るか、それともその他者を身辺から遠ざけて存在しないものとするか、そのどちらとも意を決することができなかったのだ。それというのも、イルセが同じように《白いリンネルの布で》鏡を覆ったとしても、鏡の婦人は依然としてその薄い錫の膜の向うで生きつづけているのみか、姿が見えないだけにその存在はますます脅威的なものとなりまさるのである。覆いをかけられた鏡は鏡の不在を意味しない、それは一個の仮面である。

 《夢を追う娘》がわれわれに示すのは、自己のイメージではなく、外部のオブジェに心をうばわれて狂っていく人の落胆である、じっさいマルジョレーヌの七つの壷はオブジェ以外の何物でもない。マルジョレーヌはこれら埃をかぶった七つの古い壷に魔法の力が宿っていると信じている。彼女の家屋敷はいまは魔法使いに占拠されているけれども、そのうち王子様があらわれて魔法使いを退治し、彼女はその王子と結婚して家屋敷はふたたび自分のものとなるだろう。彼女はこういった確信を七色に光る七つの壷から得たのだが、この壷を作った彼女の父その人がすでに《夢の紡ぎ手》であった。そしてこの七つの壷を愛するあまり、彼女はジャンというりっぱな若者との結婚を断念する、ジャンはマルジョレーヌにひそかに思いを寄せていて、彼女から色よい返事を期待していたのだが。マルジョレーヌの過ちは、自分ひとりが胸のなかに納めている神秘の啓示を事物に期待したことである。その過ちに気づいたとき、彼女は夢想の容器である七つの壷を次々に打ち壊していく。しかし時すでに遅し、ジャンはすでに立ち去ったあとである。マルジョレーヌもまた、約束を守らぬ事物の見かけにだまされて、まんまと罠にはまってしまったのだ、というのも約束するのは事物ではなくわれわれのほうなのだから。エゴイズムから憐憫への道は、他者との出会いを契機として、自我がそれ自体から脱け出して拡がってゆくことを要求する。もしその途上で道に迷うなら、それは人が往々にして思うように、現実をさしおいて夢を選んだからではなく、両者を混同したためである。非実在を、それがあるがままに受け入れ、決然と選び取る人々は、彼らの夢が実現されることを期待もしなければ望みもしない。それゆえに、われわれがこれまで見たように、またこれからも見るように、モネルは断固として実在を放棄する立場を説くのである。しかるにマルジョレーヌにとっては王子は実在していて、彼女の家屋敷も《アフリカの黒い沙漠》のどこかにある。王子はいつかやってきて彼女と結ばれるだろう。たしかに王子は王子である時空に存在し、ジャンはジャンである時空に存在する、問題はただそのふたつの時空が同じ事象性をもっていないことなのだ。

 《願いがかなった娘》ことシースはマルジョレーヌとは対称的である。彼女もまた夢を、シンデレラの夢を生きていて、やはり王子様を待っている。ただし彼女は幸運にも目をさまさない、その点では姉の「夢を追う娘」よりも夢への信念が深いというべきだろう。そしてこの信念の深さが、皮肉にも彼女を真理の近くへ位置せしめるのである。彼女に近づいてくる霊柩車は王子の馬車で<あり>、そこから立ちのぼる饐えた匂いは彼女には芳香で<ある>。《王子さまの御者は金のかぶりものをつけている。重そうな長方形の箱にはきらびやかな婚礼の装身具がぎっしり詰まっているんだろう》。彼女がそう望んだからこそ、事物はこのようなものとしてあるのだ。

 だれをも愛さぬ姫君、《冷ややかな娘》ことモルガーヌとともに、現実はこの上なく奇妙なかたちでふたたびわれわれの前にあらわれる。外部の世界が整合性を獲得するにつれて、今度は自己の実在性がもはや確たるものとして感じられなくなる、それがモルガーヌの場合である。彼女は次々に新たな鏡を覗きこみ、自己を探し出そうとするが、それはどこにも見つからない。《彼女の願いはただ自己を愛することだけだった、しかし鏡に映る影には沈静で手の届かぬ冷ややかさがあった……磨きあげられた緑金の薄板にしろ、重々しい水銀の鏡面にしろ、それらはモルガーヌにモルガーヌを映し出してはくれなかった》

 自分がだれなのかをいったいどうやって知ればよいのか──自分が何物かであるのかどうか、それすら不明なときに? 彼女にとっての自己とは、さしあたっては虚無、自己の不在としか感じられない。彼女はこの《冷たいまっしろな心》、自己の底にぽっかりと開いた穴がほんとうの自分ではないことを知っている。けれどもこの世のどこかに、モルガーヌにモルガーヌを映し出してくれる《まことの鏡》があるに違いない。そこでモルガーヌは探求の旅に出る。このコントの恐ろしい皮肉は、彼女がついに自己を見出すことである。《まことの鏡》とは洗礼者ヨハネの血をたたえた銅製の盆なのであった。その鏡を見たとたん、彼女は自分が本来どういう人間であったかをまざまざと知るのだ。
 
 モルガーヌ姫がその血の鏡の中に何を見たかはだれも知らない。しかし旅の帰途、彼女の騾馬曳たちは、駕籠のなかへ引きこまれたあと、毎晩一人づつ殺されていった、いずれも喉を割られ、土色になった顔を虚空へ向けた姿で。人々はいつしかこの姫のことを「赤のモルガーヌ」と呼ぶようになったが、まことに彼女こそは悪名高い娼婦にして恐るべき殺戮者であった。

 モルガーヌにとっても、イルセにとってと同様、鏡は一種の罠である。ただしイルセは、自分と映像(かげ)との間に──たとえ上首尾には終らずとも──一定の距離をおこうと努める、いっぽうモルガーヌはといえば、一目見たとたんその映像に圧倒されてしまい、その結果彼女は血鏡に映じたものに「化してしまう」のである。彼女にのりうつって生きるために、サロメが《はるかな昔から》彼女を待っていたのであった。以後、モルガーヌはモルガーヌとしてではなく、サロメとして行動する。そしてこうした代償と引き換えに、彼女は自己の実在性を認識し、その冷たい心の奥底にひそむもの──それまでは無縁だと思っていた官能性や残虐性──を知ったのであった。

 さて、モネルの妹たちのうち最後の一人を残すのみとなった。われわれは《エゴイズムや、官能や、残虐さや、高慢さや、忍耐や……にとりつかれ》ている娘たちを見てきた。リリーがとりつかれているのは憐憫、あるいは憐憫以上のなにものかである。ある晩のこと、不治の病に倒れた友達のナンを癒すことができるのはマンドジアーヌ女王だけだという夢のお告げを受けた彼女は、どこか遠い国に住むというこの女王を尋ねる旅に出る。長年月を費やして探すものを得た彼女が故郷に戻ってみると(マンドジアーヌは薬草であった)、ナンはとっくの昔に病気が治り、すでに結婚していた。リリーはもうお婆さんになっている。彼女の自己犠牲は無意味だったのだ……しかしはたしてそうだろうか、いや、そうではあるまい、われわれは、リリーの物語を皮肉なコントとみなす人々には与することができない。たしかにリリーの試みは失敗に終った、なぜならナンはその薬草の助けなしに治ってしまったのだから。しかし彼女が探求の旅に出たのはおそらく無駄ではなかった。玄妙な代償の法則によって、ナンが治るためにはりリーの自己犠牲が必要だったといえないだろうか? この解釈の正当性を示すのは、ナンの病気が治ったのは、いずれにせよ奇蹟だとしか思えないことである。往診にきた医者たちは、《手をつくした診察の結果》、おそらく彼女は寝たきりで二度と歩けないと診断を下したのではなかったか。マルセル・シュオッブはこの問題にはっきりした回答を与えていない、それは読者のめいめいが考えるべきことである。

 これら一連のコントに共通する要素として、重要なものを二つあげておきたい、すなわちどのコントもある探求の物語であること、そしてその探求の担い手が少女であることである。探求は数時間で終るものもあれば、数年かかるもの、あるいは一生を費やさねばならぬものもある。探求が遊びのかたちをとった例をあげると、たとえば青髭の小さい妻の場合や、またシースの場合もある程度まではそうだろう。探求がいっときの冒険、あるいは冒険の一刹那のかたちをとることもある、たとえば風車小屋の娘の場合。また探求すなわち旅というかたちをとることもある。この旅という象徴は、たしかにもっとも伝統的であり、解釈の容易なものでもあるが、マルセル・シュオッブはこの旅のトポスをことのほか好んだ。いっぽうこれらの物語の生起する時と所はといえば、一篇づつそれぞれ異なっている。現代のフランスを舞台にしたもの(《官能的な娘》、《よこしまな娘》)、そのうちでも特にブルターニュ地方を念頭においたもの(《わがままな娘》)、はっきりと特定できないがどこかの北国を背景にしたもの(《当てがはずれた娘》)、外国ではまず英国(《われとわが身を投げうつ娘》)、それから古代オリエント(《冷ややかな娘》)、あるいは時代も地域も特定できないもの(《野生の娘》、《夢を追う娘》、《願いがかなった娘》)など。《われとわが身を投げうつ娘》の場合は、シュオッブが意図的に取り入れた古語法(《l'hiver qu'il fait froid...》や《par grande consultation...》や《lors elle s'ecria...》など)のみが、漠然とではあるがこの挿話にそれらしい雰囲気を与えている。とはいうものの、そんなことは些事にすぎない。われわれとしては、モネルの十一人の妹たちがめいめいの仕方で光をあてるのがただ一つの主題、探求という主題であることを銘記しておけばそれでいい。

 しかし何を探求するのか、と問う人がいるかもしれない。それは必ずしも一言でいえるようなものではないし、モネルの妹にしても、その幾人かは自分でもそれが何なのか知らないのである。ピエール・リエヴルが言うように、彼女らは《まだほんの子供であり、その心にうごめいている感覚や情動にせよ、ほとんど意識の表面に顕在化していない》のだ。悪徳、残虐性、異常といった面においてすら、彼女らは無意識に由来する言語以前の無垢を保っていて、まさにその無垢によって悪をなすのである。じつのところ、彼女らは悪の何たるかを知らない。善とか悪とかいった倫理範疇は彼女らの知るところではない。彼女らは未知の力に促されて衝動的に行動するが、その必然性を自分では分析しようとせず、また分析できもしないのである。われわれは彼女らに代ってそれをやってみた。しかし確かなことは、小さいエゴイストや、青髭の妻や、よこしまな娘マッジが自分たちの行為の意味を知らないのと同じく、ジャニーやネリーも彼女らを駆って貞節や献身の行為へ赴かせる動機については何も知らないのだ。しかしだからといって、彼女らがみな無意識の同じ水準にいると結論する必要はあるまい。これまで見てきたことからも明らかなように、マルセル・シュオッブが描こうとしたのは、彼女らが次々にたどる道そのものであり、その探求は彼女らを超えて、彼自身の探求へと導くものであった。
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by sbiaco | 2010-01-23 13:15 | 附録
第四章: 《モネル》


 この本の第三章では、モネルの生涯の軌跡が幻のように立ち現れてくる、それはあまりにもはかない一生だったが、シュオッブはこの章において彼が愛した少女の顔の捉えがたくも多彩な諸相を喚起するのである……それはなじみの顔というより夢のなかでちらりと見た顔、薄暗がりで見かける事物に特有のくっきりした輪郭をもった顔、長くはわれわれのもとに留まれないことを知っている人々の、物憂げな笑みを浮かべた蒼白な横顔だ、そしてモネルはここに最後の転身をとげる、モネルがモネルとして受肉するのである。ここでのモネルはもはや第一章の彼女ではない、そのおもざしはいっそうあえかに、いっそう穏やかになっている。かつての衒気は影をひそめ、代りにそれとは別の確信が彼女に輝きを与えている。おそらく第一章での彼女はやや知的でありすぎたのだ、あえていえば独断的でありすぎた。いまや彼女は墓の向うから語る、その声は新しい調子を帯びていて、この独特の懐かしい調子は、すでにヴェルレーヌが耳にし、《無言の声の懐かしき恋しき節の鳴り響く》と歌ったのと同じ類のものである。

 それでは彼女は死者の霊なのか? それがよく分らないのである。彼女は絶えず生と死との間を往還していて、おそらくは生でも死でもない中間領域にいるのだが、そこは非実在の事物の形見の集積所である。われわれがこれから見るモネルは、人間的な皮を脱ぎ捨て、いわば尸解して最後の転身に備える、すなわち彼女の再来、遁走、そして不在の相のもとでの最終的な回帰である。いまや彼女はその教説を成就するためにやってくる、そして恋人に真の救いの道を示そうというのだ、それはモネルの妹たちのだれにも見出せなかった道である、というのも彼女らは自分自身をすら《見出すことができな》かったのだから。

 『モネルの書』の終章を構成する六つのエピソードは、一見したところ、第二部のコント群よりは全体的にまとまっているようにみえる。そこには色調と雰囲気との統一がはっきりと認められる。雨と霧と夜の雰囲気、そしていっときその闇を照らすふしぎな小さいランプ。シュオッブは《モネルの言葉》で語ったテーマをもう一度とりあげてそれを敷衍し、象徴へと変様させるのである。

 この本全体のうち、真正な意味で自叙伝的といえるのはこの第三部だけだということについては、すでに少なからぬ人々が論じている。じっさいどこかにルイーズの面影を探し出そうというのなら、この部分をおいてほかにない。しかし、『モネルの書』のこの逸話的な面はもっと大きな意味合いをもっているので、そこではモネルはルイーズを超えた何者かであり、同じく作中の恋人もマルセル・シュオッブを超えた何者かであるということを忘れるべきではないだろう。この章がきわめて個人的なもので、仲間内ですすんでやる打明け話めいたところがあり、意図的にざっくばらんな調子をとり、その記述にほとんど技巧のあとが見られないように工夫されているとしても、全体として見るならば、やはり彼に霊感を与えた口実以上の何物かなのである。マルセル・シュオッブが文学者であること、それも非常に意識的な文学者であることを銘記しておこう。そして自覚的と否とを問わず、いかなる文学者も、結局のところは一人称では語らないものなのである。《君はすべてを語ることができる、ただし「私は」と言わないかぎりにおいてだが》とプルーストが断言している。じっさい文学者はけっして「私」とはいわない、彼にとって「私」とはつねに他者なのである。作家の実生活などというものは、作品を作るための素材にすぎない。未定形で粗雑な最初の素材、作家が理念的統一への還元によってそれに意味を与えないうちはいかなる真実を表現するにも適さぬものであって──その統一というのは、作家の現実的生活にはどこにも見出されないものなのである。マルセル・シュオッブはこういったことを熟知していた。彼は『モル・フランダース』の翻訳の序文で、デフォーの小説を作者の個人的体験の象徴的な転換とみなし、そこに見られる寓意的な面を分析しながらこのように書いている。
 生を芸術的に表現するために、おのれの生を思考によって絶対的な単純さにまで還元したあとで、彼〔デフォー〕は象徴的表現を幾度となく変形し、それをさまざまな人間タイプに当てはめた。

 マルセル・シュオッブの行ったこともこれと同じである、『モネルの書』は彼のもっとも直截な告白の記録であると同時に、もっとも寓意的な作品でもあるのだ。

        ***

 『モネルの書』はおそらく様々な解釈を許すだろう。じっさい最後のページで著者は、愛し、苦しみ、働くために娑婆世界へ立ち帰ることによって、それまでの教説を撤回しているようにみえる。そうすると、「モネル」は皮肉な作品──そしてある点までは反象徴主義的な作品ということになるだろう──マルセル・シュオッブはここで象徴派の仮面をかぶりながら、この派が振りかざす真理、つまり夢と想像とが現実以上の実在性をもつという真理に真向から対立していることになる。雨の降る夜の闇を照らしながら、大きくなるのを嫌がる子供たちにいっときの慰安を与えるモネルのランプは、けっきょく欺瞞を売っていることになる。そもそもこれらのランプは子供と人形のためのものであって、大人のために燃えるわけではないのだ。ランプの目的は──これまた欺瞞的なものだが──過ぎ去ってゆく少年期をほんのひととき長引かせることにある──そしてその少年期は子供たちの顔が鏡に映っているあいだだけしか続かないのである。

 子供たちがたえず遊びまわっているモネルの家、(この本の初めのところで彼女が語る福音に沿ったかたちで)一切の仕事が閉め出されている家は、《窓が塗り塞がれてい》て、そこでみなが享楽している喜びは偽りの喜びにしかみえず、そこでの暮しは生そのものからのまったき逃避の観を呈している、《その家はまるで牢獄か施療院のようにみえた。牢獄といっても、それはいとけない子供たちがつらい思いをせずにすむように彼らを閉じこめておく場所であり、施療院といっても、それは生活のための労働という病を癒す場所ではあったが》

 いっぽう、《遁走》したモネルが死後そこへ逃げ込んだ「白の王国」、欺瞞的な声の導きにより不幸な恋人たる語り手が入ることを許されたこの王国は、しかしながらまったく接近不可能にみえる。ひとはその王国へは悲しみによっても、暴力によっても、思い出によっても、思考によっても入ることができないのだ。そこで彼はこれらすべてを自分の内で打ち壊すが、それでもまだ入ることができない、というのも、その王国は《まっしろな壁で閉ざされてい》て、彼は最後まで鍵を渡してもらえないのである。

 要するに、最後の章が示しているのは詩人の現世への帰還であって、彼はいま一度《生れたばかりの嬰児の無知と錯覚と驚きを学ぼうと》つとめたが、その努力は無駄に終り──その試みを最後に、彼は決定的に生の道を選び、新しくできた現実の恋人とともにその道を行くのである。《そのとき、ルーヴェットに記憶がよみがえった、彼女は愛すること、苦しむことを選んだのである。彼女は白い着物のまま私のところへ戻ってきて、私たちは二人ながら野原を横切って遁れ去ったのであった。》

 そうするとモネルの探求は現実への回帰によって終末を迎えることになる。見せかけの国々を経巡り、それらを次々に却下しながら続けられたこの長い探求の旅の終局に待ちうけていたのは、まさに現実だったことになる。こうしてモネルは生の道が避くべからざるものであることを恋人に示しながら、そこへと彼を連れ戻す。とどのつまり、彼女の教説は一種の背理法であったわけだ。

 しかしながらこの解釈は唯一無二のものではなくて、同じ前提から出発してまったく正反対の結論に達することも可能である。真の実在とは想像力の欺瞞の謂であって、見せかけとは目にみえる世界の諸現象にほかならない。こういった説明は一見逆説的に思われるかもしれないが、この書物のいくつかの重要な要素に対する配慮の点で、如上の説に優っているともいえるだろう。

 まず最初に、マルセル・シュオッブが最後にモネルの教説を放棄したと断言するのが正しいかどうか。その教えの本質的なテーマ──中心的テーマではないにしても──が、あらゆる所有を捨て去ること、いかなるものにも留まらないことであるとするなら、というのも停止はすなわち死を意味するからだが(《どんな愛も長引けば憎しみになる、どんな公正さも長引けば不正になる》)、上に述べたモネルの否認にはまったく別の意味があることが明らかになるだろう。生への回帰は彼女の言葉の否定ではなく、その成就なので、そのことは彼女自身が書物の初めに告知していて、最後のページでも繰り返していることなのである、《すべてを忘れよ、そうすればすべてはお前に戻ってくるだろう。モネルを忘れよ、そうすればモネルはお前に戻ってくるだろう》 その理由は、真の所有とは永続性のなかにあるのではなく、所有されたものを超えんとする不断の運動のなかに見出されるべきものだからだ、モネルは恋人のもとを去るからこそ彼に忠実なのであり、彼はモネルを否認するからこそ彼女に忠実なのである。

 このあらゆる瞬間の破壊、あらゆる形態を次々に脱け殻として放棄する連続的脱皮が、『モネルの書』のもうひとつのテーマを構成する、すなわち転身のテーマである。

 このテーマは、本書の第一章と第三章においてマルセル・シュオッブがはっきり示したところのもので、第二章はその例証となっている、というのも、モネルの妹たちは著者によって唯一者モネルの数々の化身として紹介されているからだ。《いずれあなたを私の妹たちのところへ連れてってあげるわ。妹たちは私そのものであり……》

 転身のテーマは、明快な比喩により二度にわたってはっきりと言及されている。《モネルの言葉》と《彼女が耐え忍んだこと》から、その箇所を引こう。
 蛇が古い皮を脱ぐように、精神は古い形式を投げ捨てる。
 古い蛇の皮をこつこつ集めている人々を見ると、若い蛇は悲しい気持になるけれど、それはそういう収集家が若い蛇には一種の魔力をもっているからなの。
 というのも、古い蛇の皮をもってる人々は、若い蛇が変様しようとするのを妨げるのよ。
 そんなわけで、蛇は奥まった藪の緑の水路で脱皮をし、年に一度若い蛇が集まって輪になり、古い皮を燃やすの。

 眠りにつく前は〔とモネルは言う〕、私はあなたのいう「小さいおばかさん」だったわ。だってまるで裸の芋虫同然だったんだもの。いつだったか、私たちはいっしょにまっしろの、絹のようにすべすべした、どこにも孔のあいていない繭を見つけたわね。いたずら好きのあなたはそれを割いてみたけれど、中は空っぽだった。羽のある虫がそこから出て行ったんだって、あなたは思わなかった? でも、どうやって出て行ったのかはだれにもわかりはしないわ。虫は長いあいだ眠っていたのよ……

 だれしもすぐに気づくように、第一の例では、真の転身というよりむしろ変様が問題になっている、もっともこの二つは象徴的には似たようなものであるが。

 いっぽう第二の場合に問題になっているのは、まさしく自己の転身である、それは彼女の言によれば《待つこと》であって、それは「白の王国」、すなわち死における最終的な解脱を待つことを意味する。

 しかし転身は、同時に彼女の恋人のそれでもなければならない──彼にとっての待つことであり解放であり、測り知れない叡智に満ちた現実世界への回帰でなければならない。というのも、モネルの王国は、それが想像力や愛や子供の笑顔、もしくは憐憫の情動によってわれわれの目に見えるものとなるかぎり、どこにでも存在するからである。この王国が欺瞞だとしても、少なくともそれは夜の闇を照らす嘘つきのランプと似たような意味合いでそうなのだ。「モネルの書」は、レーモン・シュワーブが適切に述べたように、《少女によって口述された欺瞞の福音書である》。シュワーブはさらにこう述べる、《モネルとその妹たちの家では、想像力こそが現実を裁くのである》。じっさいこうも言えるだろう、マルセル・シュオッブはその探求の結末で夢と現実との矛盾を超え──モネルの妹たちはまさにこの矛盾を生きているのだが──いっときにせよある統一、ある平衡に達したのだ、と。もちろんこの平衡は不安定なものでもかまわない、なぜならどんな平衡も長くつづけば不均衡になるのだから!

 もしかしたら、モネルその人がひとつの嘘、あらゆる嘘のうちもっとも美しい嘘だったのかもしれない……
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by sbiaco | 2010-01-22 23:00 | 附録