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19世紀末のフランス作家マルセル・シュオッブ(Marcel Schwob)の「モネルの書」の翻訳とその周辺


by sbiaco
 崖の上にある学校の、灰色の校舎のまわりにめぐらした小さい生垣から、ピンクのリボンを結んだ包みをもった子供の手が延びて出た。
 ──まずそれをとって、と小さい女の子の声が言った、気をつけてね、こわれやすいから。そのあとで私が出るのを手伝ってちょうだい。
 こまかい雨が岩のくぼみにも深い入江にも一様に降っていて、崖の下で打ち返す波に雨粒のあとをつけていた。囲いのところで様子をうかがっていた少年水夫が進み出てきて低い声でこう言った。
 ──さあ、こっちへよこすんだ、早くしろ。
 女の子は大声をあげた。
 ──だめ、だめ、むりよ。その紙を濡れないようにして。私、自分に関係のあるものはぜんぶもっていくんだから。エゴイスト、エゴイストよ、あんたは。あんたのせいで私が濡れてるってこと、わかんないの。
 少年水夫は唇をゆがめてその小さい包みをつかんだ。紙は濡れて破れ、泥のなかに中身が転がり出た。花模様のついた黄色と菫色の絹の三角巾、ビロードの小さいリボン、バチスト亜麻の人形のズボン、内部が空になった蝶番つきのハート型の金のブローチ、赤い糸を巻いた真新しいボビンなど。それから女の子が生垣を越えてきた、硬い小枝で手を刺し、唇をわなわなとふるわせながら。
 ──ほら、これ見てよ、と彼女は言った、あんたが強情を張るからいけないんだわ。私の大切なものが台無しじゃないの。
 鼻の頭を上に向け、眉根にしわを寄せ、口の端をゆがめて、女の子はしくしくと泣きはじめた。
 ──ほっといて、ほっといて。もうあんたなんかに用はないわ。どっかへ行っちまってよ。あんたが私を泣かせたのよ。私、もうマドモワゼルのところへ帰るわ。
 それから女の子はいじらしく落ちた布地をかきあつめた。
 ──私のきれいなボビンがめちゃくちゃだわ、と彼女は言った、これでリリのガウンに刺繍しようと思っていたのに。
 女の子の短いスカートのポケットがぶざまに開いて、そこから磁器の人形の小さい整った顔と、ブロンドのとほうもないもじゃもじゃ頭とがみえた。
 ──来いよ、と少年水夫は小声で言った、きっとマドモワゼルはもう君を探しはじめてるぜ。
 女の子は少年にいわれるままついていった、インクの染みのついた小さい手の甲で涙をぬぐいながら。
 ──しかし今朝になって、いったいどういう風の吹きまわしだい、と少年は訊ねた、昨日は嫌だって言ってたじゃないか。
 ──箒の柄でひどく打たれたのよ、と彼女は唇をかんで言った、打たれただけじゃなくて、蜘蛛やら毛虫やらがうようよしてる木炭置場に閉じ込められたわ。私、戻ってきたら、あの人のベッドに箒を置いてやるわ、それから石炭で家を燃やして、鋏であの人を殺してやるわ。そうよ(と彼女は口をとがらせた)。ああ、私を遠くへ連れてって、二度とあの人の顔を見なくてもすむように。私はあのとがった鼻や眼鏡がこわいの。私、出てくる前にちゃんと復讐だけはしといたわ。あの人、自分の父さんと母さんの肖像画を、ビロードの雑貨といっしょにマントルピースの上に飾ってるの。二人とも年寄りよ、私の母さんとは大違いだわ。まああんたにはわかんないでしょうけどね。で、私その絵に蓚酸カリをふりかけてやったわ。きっとものすごいご面相になったことでしょう。いい気味よ。ちょっとあんた、なんとか言ったらどうなの、少なくとも。
 少年水夫は目をあげて海を見やった。海は暗く、靄が出ていた。雨がカーテンのように湾の全域を覆っている。岩礁も浮標もすでに見えなくなっていた。雨脚の糸で織られた水の帳がときたま開いて、束になった黒い海草があらわれた。
 ──きょうはもう出歩くのは無理だな、と少年水夫は言った、税関の小屋へ行ってみよう、あそこには干し草がある。
 ──いやだわ、汚らしい、と女の子は叫んだ。
 ──ぜいたく言うなよ、と少年水夫は言った、それとも君のマドモワゼルのところに戻るかい?
 ──エゴイスト! と女の子は言うと急にしゃくりあげはじめた、あんたがそんな人だとは思わなかったわ。もしそうと知ってりゃ、ああ神様、そうと知らなかったばっかりに。
 ──そんなら出てこなけりゃよかったじゃないか。この前の朝、おれが道を歩いていたときに、おれを呼びとめたのはどこのどなたでしたっけ?
 ──私が? まあ、なんて嘘つきなんでしょう。あんたに誘われなきゃ、出てきたりするもんですか。あんたが怖かったからよ。私もう帰る。干し草のなかで寝るなんてまっぴらよ。私は自分のベッドで眠るの。
 ──好きにするがいいさ、と少年水夫は言った。
 彼女は肩を聳やかせて歩きつづけた。が、しばらくたってから、
 ──私の気が変ったとしても、と彼女は言った、それは雨に濡れるのがいやだからよ、少なくとも。

 その小屋は海に面した斜面に建っていて、土の屋根に突き立った藁の束から雨水が静かにしたたり落ちていた。二人は入り口の戸を押した。奥のほうが一種の寝室になっていて、箱の蓋が並べられ、干し草がいっぱい敷きつめてある。
 女の子はそこに腰をおろした。少年水夫は彼女の足と脛とを乾いた草で覆ってやった。
 ──ちくちくするわ、と彼女は言った。
 ──でもあったかいだろう、と少年水夫は言った。
 彼は扉の近くにすわって天候をうかがっていた。湿気のせいで彼は少し体をふるわせていた。
 ──寒いんじゃないの、少なくとも、と女の子は言った、あんたが病気になったら、この私はどうなるのよ。
 少年水夫は首を振った。二人はなにもいわずしばらくじっとしていた。空は曇っていたが、夕闇の迫ってくる気配が感じられた。
 ──お腹がすいたわ、と女の子は言った、今夜、マドモワゼルのとこでは焼鳥と栗が出るわ。ああ、あんたってば、なんにも考えてなかったのねえ。私パン粥をもってきたの。ちょっと煮込みすぎだけどね。ほら、どうぞ。
 そういって彼女は手を差し延べた。指には冷えきった粥がべっとりとくっついていた。
 ──おれ、ちょっと行って蟹をとってくるよ、と少年水夫は言った、ピエール=ノワールの端にいるんだ。下にある税関のボートを借りていこう。
 ──ひとりきりじゃ心細いわ。
 ──腹が減ってるんじゃないのかい。
 彼女はなんとも答えなかった。
 少年水夫は上衣についた藁屑をふるい落すと、すべるように外へ出ていった。灰色の雨が彼をつつんだ。女の子は少年の靴が泥にめりこむ音を聞いた。

 やがて突風が吹いたかと思うと、あとはときおりにわか雨が降るだけで、あたりはひっそりと静まり返った。影はいよいよ濃く、陰鬱に迫ってきた。マドモワゼルのところの夕食の時間は過ぎ去った。眠りにつく時間も過ぎ去った。あっちでは吊り下がった灯油ランプのもと、きちんと整えられた白いベッドで、みんなぐっすり眠っているのに違いない。鴎の鳴声がきこえ、それに呼応するかのように嵐がきた。つむじ風が吹きまくり、大砲のような高波が断崖の大きなうろを直撃した。女の子は夕食を待ちながら眠りこんでしまったが、やがて目をさました。少年はきっと蟹で遊んでいるのだ。なんというエゴイストだろう! 彼女は船というものがつねに水に浮かんでいるものだということをよく知っていた。船がなければ人は溺れてしまうということも。
 ──私が眠っているのを見たら、きっとがっかりするわ、と彼女はつぶやいた。ひとことも返事なんかしてやるもんですか、狸寝入りをするのよ。ざまみろだわ。

 真夜中近くなって、彼女はふと自分が提灯の火影に照らされているのに気づいた。尖のとがった合羽を着た男がやってきて、二十日鼠のように縮こまった彼女を見つけたのである。彼女の顔は水と灯りとでぎらぎらと光ってみえた……
 ──ボートはどこだ? と彼は言った。
 それを聞くと、彼女は地団太ふんでこう叫んだ。
 ──ああ、そんなことだろうと思ったわ。あの人ったら、蟹を見つけてきてくれないばかりか、船までなくしちまったんだわ。
# by sbiaco | 2010-02-19 15:09 | II.モネルの妹たち